一水四見



 蝶子を抱えた老虎は外ではなく、校舎の中へと逃げ込んでいた。彼は職員室に入り、彼女を床に投げ捨てた。

 計画はめちゃくちゃになっていた。逃走ルートもほとんどが潰れた。本来、練鴨組が学校の中まで入ってくる手筈ではなかった。蛇尾が彼らを信じていなかったように、練鴨組もまた自分たちを信用していなかったのだろう。

 老虎は舌打ちする。もはや蝶子を抱えてここから一人で逃げるしかなかった。だが、逃げおおせたところでメフに潜った蛇尾の人員は少ない。本国からハナから期待されていなかったのもあるが、巻き返せるかどうかは神のみぞ知るという段階まで進んだ。……むしろ、蛇尾は最初からこうなるのを分かっていたのかもしれない。

「操……!」

 椅子を蹴っ飛ばす。苛立ちが紛れることはない。老虎は荒い息を整えようとする。

 扉が開いた。老虎は弾かれるようにしてそこを睨んだ。開けたのは幸だった。彼は倒れている蝶子を確認するや否や、

「今度は出てよ《花盗人》」

 飛び出した。

「クソガキが」

学校ここから叩き出す!」

 室内に風が吹いた。幸が足を踏み出す度、それはより一層強くなって巻き上がる。プリント類が宙を舞い、軽いものが重力の頸木から解き放たれたかのように暴れ回った。

 幸は飛ぶ。机を踏み台に、ぐるりと向きを変えて天井に足を下ろした。天地が逆さになったまま、彼は老虎目がけて駆けた。目にも止まらぬ速度であった。

「バオの力……?」

《花盗人》は既に発動されている。幸はバオから風に関する異能を奪っていた。

 追い風を受けて疾駆する。幸は老虎に飛びかかった。跳び蹴りは避けられたが距離は詰めている。幸は雄叫びと共に腕をぶん回した。裏拳気味のパンチが老虎の胸にヒットした。しかしそれだけだった。この距離は互いにとって都合のいいものである。

 老虎もまた攻撃を開始した。彼は幸のこめかみを、次いで、足を下ろさないまま胸を強く蹴った。

「ア?」

 手応えがない。

 幸は吹っ飛ばなかった。身じろぎ一つしなかった。彼はバオの異能だけでなく、鉄の異能をも奪っていた。しかしまだ見えない、奪えないものもある。奪えないのなら仕方ないとばかりに、老虎へと徒手空拳で迫った。

 至近距離での殴り合いが始まった。分があるのは老虎である。彼は技量、経験、共に勝っていた。幸の体は硬くなっていたがダメージは蓄積する。しかも武術の心得などまるでない。さらに老虎には寸勁があった。

 幸は、鉄を打倒した寸勁を警戒していた。風を纏うようにして飛び回り、老虎を狙う。しかし攻撃は当たらない。あるいは上手く防御されて捌かれるだけだった。

 一方、老虎はこの戦いに倦んでいた。時間の無駄でしかない。これ以上この場に留まっていては逃げられなくなる。そう判断した彼は幸の拳を適当にいなして、彼の腹に掌を当てた。

 その瞬間、幸は自分から後ろへ飛んだ。職員室の窓枠諸共、彼は吹っ飛んだ。老虎は割れた硝子の音を聞きながら呼吸を整える。

「まだ動けるだろ。時間をかけるな」

 廊下から連続した爆音が轟いた。老虎は目を見開き、飛来する物体を回避する。職員室の壁や天井には溶岩が貼りつき、周囲に粘性のある炎をばら撒いていた。

 老虎は幸の能力を推しはかろうとしていた。だが、次々と撃ち出される溶岩弾への対処で手いっぱいだった。おまけに蝶子も庇わねばならない。彼女には興味がなかったが、彼女の命まで奪われては赤萩組との交渉もままならない。彼は蝶子を抱えて物陰に潜んだ。

「女が死ぬぞ! お前の弾で!」

「だったらその子を置いて出ていきなよ!」

「駆け引きのつもりかっ」

 溶岩の弾の狙いは無茶苦茶だ。その上断続的に発射されるものだから老虎は姿をさらしてまで幸を止められそうになかった。

「分かった女を! 女を離す!」

「本当?」

 溶岩弾が止まった。老虎は物陰から飛び出た。机を飛び越え、部屋の外に。廊下では幸が待ち構えていた。彼は腕を老虎に向けている。

「オオオォ!」

 老虎は床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴って移動する。ピンボールの玉のように跳ね回る。幸は両腕を交差させて、その隙間から彼を見ようとした。

 だが見えない。

 まだ見えない。

 しかし《花盗人》は老虎の力に反応していた。

 幸が伸ばした腕から溶岩が放たれる。老虎は《一水四見》を使った。彼の体から発せられた稲妻が、炎を絡め取って中空で着弾する。四散する炎も全て撃ち落とすと壁が、窓が、天井が燃焼する。二人は炎に舐められながら対峙する。

 優位に立っているのは老虎だった。幸は彼の攻撃を受け続ける。攻勢に転じても避けられる。ならばと幸は風を使うが今度は拳が軽過ぎる。何もかも中途半端だった。

 老虎は嗤った。幸にもそれが分かった。

「そういうことして、笑うのか」

 茹った思考が幸を動かした。彼は防御を捨てた。バオの異能で速度を上げると、老虎に触れる瞬間には鉄の異能を使う。硬く、重たくなった殴打が老虎を追い詰める。

 目が熱い。

 頭が痛い。

 二つの異能を同時に使うことで幸は自身が焼き切れそうな感覚を覚えた。

 老虎は驚いていたが所詮それだけだ。幸は限界ぎりぎりである。出せるもの全てを余すところなく、持てるもの全てを用いていた。それでも達人の域には届かない。老虎は彼を見切っていた。

「イィイイイイィイイイ……!」

 老虎の体が深く沈む。幸が標的を見失うと同時、顎が上がった。下から蹴り上げられたのだ。嫌でも動きが止まる。老虎は勝負を決めにかかった。衣服の下から今の今まで秘していた得物を手にしたのである。

 それは梢子棍しょうしこんと呼ばれる武器だ。長さの違う二本の棍を鎖で繋いだ、ヌンチャクのようなものである。老虎は長い方の棍を持ち、幾度か回して勢いをつけた。梢子棍が唸る。彼の勁と《一水四見》の電撃が十分に乗った必殺の一撃である。

「ヤァアアアアアアアッ!」

 甲高い発声の後、梢子棍が空振りした。

 否、振ることすらできなかったのだ。

 老虎の時間が止まった。彼の手には得物がなかった。

「やっと、見えた」

 幸はゆっくりと体を戻しながら、梢子棍の感触を確かめるように振り回していた。老虎は目測を見誤ったのでもなければ、得物を取り落したわけでもないと知る。彼が見誤っていたのは幸の異能の方だった。

「贱货……!」

「これがあなたの大事なものか」

 老虎が飛び掛かろうとするも、幸は彼から奪った異能を発動させる。自分で《一水四見》の電撃を浴びたのは初めてだった。ショックが老虎の体を硬直させる。動けなかったが、彼の目は幸を捉え続けていた。

 梢子棍をわが物のように振り回していた幸が、腕を振り被った。老虎の側頭部に棍がぶち当たる。衝撃でマスクが外れると、三十路の男の顔が現れた。細い目の、狐のような顔立ちの男だった。

 幸の一撃を受けた老虎は膝を震わせながら崩れ落ち、最後には頭から床に倒れ込んで静かになった。



「猪口さん、猪口さん」

 揺さぶっても声をかけても蝶子は中々目覚めなかった。息はあるようだが、彼女は死んだように動かない。焦れた幸は蝶子を支えて歩こうとしたが、そもそも持ち上がらなかった。

「重いな……」

 蝶子の体が反応した。

「重い」

 もう一度言うと彼女の目が覚めた。自分がどのような状況にあるのか理解すると、蝶子はうなだれた。

「ごめんな。ええよ、一人で立てる」

「平気? 痺れてない?」

「ちょっとな」

 蝶子は机に手をつき、長い息を吐く。そうしてから辺りを見回した。

「さっきのやつは? どうなったん?」

「さっきの人なら」

 幸は廊下を指差す。

「誰がやったん?」

「ぼく」

「はあ? 嘘言いなや、あんなんどうにかできるわけないやん、しかも……」

「しかも?」

「何でもない」

 蝶子は椅子を引き寄せてそこに座り込んだ。幸は早くこの場を移動したかったが彼女に付き合うことにした。しばらくの間無言でそうしていると足音が聞こえてくる。二人は警戒したが、姿を見せたのは鉄であった。

「ご無事のようで何よりです」

 鉄は歩きながら言った。

「それで、さっきの男はどこへ?」

「どこって、そこで……」

 蝶子は廊下を見て間抜けな声を上げた。先までそこで伸びていたはずの老虎がいなかった。

「逃げよった……!」

 幸は追おうとしたが、鉄が彼の腕を掴んで止めた。

「逃げられます。そしたらあの人たち、また来るかもしれません」

「そうかもしれません」

 幸は鉄を振り払う。彼女は、今度は幸を両手で掴み、抱きすくめるようにした。

「離してください」

「ご自分のことが、ちゃんと見えていますか?」

 瞬きを繰り返す。不明瞭だった視界が徐々にクリアになっていく。幸は足元を見た。血が垂れ落ちている。痛む箇所が幾つもあった。《花盗人》の効果が切れて、戦いで蓄積した疲労やダメージが表れ始めているらしかった。

「傷だらけです。もう、いいでしょう」

「せや」と蝶子も鉄に同意する。

「あんた十分やってくれたやん。あとは他のやつに任せたらええ。なあ。うちなんかのために、ほんまにごめん」

 謝られる義理などなかった。幸は蝶子を助けたいわけではなかった。彼女を助けることで守られるものがあると信じていただけだ。

 それでも頭は冷えていき、急かす声も今は聞こえない。幸はゆっくりと呼吸して、小さく頷く。

「私も謝っておくことがあります」

 前置きして、鉄は虚空をねめつけた。

「逃げられました。目が覚めた時にはいませんでした。あの女です。身軽で、訛りのある。やっぱり、ちゃんとしておけばよかった」



 武術に愛着はなかったが敗北の味は許容し難がった。自負もある。些少ながら誇りもある。しかし怒りに身を任せるほど若くもなく、愚かでもなかった。

 老虎は蘇幌学園特別棟の物陰に身を潜ませていた。塀を越えれば外だが、先の戦闘で負った衝撃が尾を引いていた。多様な異能を使い分けるものなど、彼は今までに聞いたことがなかった。厄介な存在だが何かに使えるかもしれない。

「いや、アレは確か……」

 土を踏みしめる音に反応し、老虎は目を細めた。しかし覚えのある音だった。彼は警戒を解き、柔和そうな笑みを浮かべる。

「まだ動けたか」

「何とか」

 バオだった。彼女はとうに変面を外しており、黒いコートも脱ぎ去っていた。街で見かけたことのある、ラフな格好をしている。

「他は?」

 老虎は首を振った。別動隊の練鴨組が警察の目を引きつけられるのもここまでだろう。引き際だった。

「そうですか。それはよかった」

 銃声が二度鳴った。銃口からくゆる硝煙が立ち上っていた。バオは小さな銃を老虎に突きつけたまま、目にかかった髪の毛を指で払う。

 老虎は太ももと肩から流れる血を一瞥する。

「裏切りか」

「お互い様でしょう。私たちを置いて一人でここにいたじゃありませんか」

《一水四見》を発動しようとした老虎の脇腹を銃弾が掠めた。

「それに私はあなたをずっと見ていましたから」

 老虎の反応を確かめて、バオは続ける。

「内部抗争のない組織なんてこの世に存在しないでしょうね」

 老虎は内心で同意した。裏切りはあってしかるべきものだ。人はそうやって己を高めていく。人によって成り立つのが組織ならば、その集合体が欲望の受け皿なのは当然ともいえる。蛇尾もそうだ。

「青龍か? それとも白虎の差し金か?」

 バオは微笑を湛えると、空に向けて残弾を打ち尽くした。

「じき警察が来るでしょうね。大人しくした方がいい。思ってたより失血が多い」

「殺さないのか」

「そこまで頼まれてませんから」

「すべて話すぞ。俺は」

「どうぞ」

 バオは風に乗り、塀の上に立つ。

「お前は国に戻るのか」

「いえ、しばらくはどこにも」

「どこにも?」

 老虎の位置からはバオが見えない。彼は不思議がった。蛇尾でのし上がるのが彼女の目的ではないのか、と。

「組織を抜けるのか。抜けてどうする」

「さあ。ただ、私を産んだ女は大陸にはいないそうです」

「……親を捜すのか?」

 親がいたところでどうなるものか。会ったところでどうしようもないだろう。老虎はそう考えていたが、自分たちのような人間にはそういうものも必要なのかもしれないと思い直した。

「まあ、そうか。やはり血だからな。血は裏切らん」

「そうかもしれません。では、私はこれで」

「ああ」

 バオの気配が消えた。それと同時にパトカーのサイレンが近づいてくるのが分かった。



 蘇幌学園を襲った練鴨組と蛇尾の構成員のほとんどは捕まった。逃走したものは目下捜索中である。

 騒ぎは大きかったが、不幸中の幸いというべきか死者は出なかった。ただし校舎……主に二年一組教室や職員室にはかなりの被害があった。事件発生から二日後の全校集会で、幸はそのような話を聞いた。

 集会後は下校となる。また休校かと幸の気持ちは沈んだ。帰り際、彼は正門の近くで長田に声をかけられた。二人はまず互いの無事を確認し合った。

「まったく、もう二度とごめんだな」

 幸は強く同意した。学校で揉め事が起こるのはこれで最後にして欲しかった。

「理事会の話も止まったままだ」

「どうなるんですか」

「休校明けに再開するつもりだが」

 長田は神経質そうに眼鏡の位置を調整する。新調したそれがまだ馴染んでいないらしかった。彼は眼鏡を取ってしげしげと眺める。幸は自分たちに近づいてくるものを訝しげに見た。燃えるような赤毛の蝶子であった。

「ちょっとええか?」

「どうしたの?」

 蝶子は騒動が一段落してもメフに残っていたのだ。長田は彼女に何か言いかけたが、やめた。

「あんたには世話になったからな。会長さんにも迷惑かけてもうた。ありがとうな、そういうの言いに来てん」

「お、おお、まあ、生徒会長だからな。アレくらいは構わない。しかし、君の方こそ、その、大丈夫なのか?」

「どうやろうなあ、でも、こっちも色々片付いたわ」

「色々って?」

「色々や」

 蝶子は意味ありげな笑みを浮かべた。

「これからどうするの?」

 幸の問いに、蝶子はすぐに答えられなかった。彼女自身もそれを思いあぐねているのだろう。

「焦ることはないだろう。それよりもだ。猪口蝶子君。君からまだ署名を受け取っていないのだが」

「あー、せやったせやった。なあ、署名っちゅーか、あんたら何やってんの?」

 長田は困ったように頬を掻き、生徒会と葛とで理事会について揉めていることを話した。話を聞き終えた蝶子は莞爾とした笑みを浮かべる。

「おもろいやん」

「おもろくないよ」

「いや、おもろいって。で? どっちが勝ちそうなん?」

 幸も長田も浮かない表情になった。

「ぼくは勝ち負けの話じゃないと思うんだ。それに、あの二人の喧嘩に巻き込まれてる気がしてさ、なんか、腹が立つし。お菓子の袋が開かなかったり、ゲームのビニールが剥がせないみたいにイライラするというか」

「じゃああんたがやりゃええやん」

「やるって何を」

「ケリつけたったらええねん。あんたには借りがある。うちが手ぇ貸したるわ」

 幸は長田を見た。彼は少しだけ迷っていたが、まっすぐに幸を見返した。

「会長さんはどない思ってんの? どっちに勝って欲しいん?」

「俺は……俺は、この学校が良くなって欲しいと思ってる。俺がいなくなっても、ずっと先も。誰かの助けになればいいと思ってる。だってそうじゃないか。この町はどうしたってどうしようもないから、だからせめて、外から来た同い年のやつがさ、ここで友達の一人でもできて、いいなって思い出一つ作れれば、それで」

 蝶子はその話をじっと、黙って聞いていた。彼女は幸と長田の肩に手を置き、熱っぽい目を二人に向ける。

「明日そいつら集めるようにしといて。うちがどうにかしたるわ」

「どうにかってどうするのさ」

「スーパーと薬局の娘が好き勝手やろうとしてんねんやろ? もう一人くらい、ややこいとこの娘が出張ったらどうなる思う?」

 嫌な予感しかしなかったが、目には目を、あるいは毒を喰らわば皿までの心である。幸はお手柔らかにと蝶子に告げた。

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