げっげーろ



 魔区の裂け目に巣食っていたケモノを片づけられたのはよかっただろうが、察しのいい狩人たちは調査が難航するであろうことを予想しつつあった。メフに来て間もないものたちは、大空洞と、そこに棲息するケモノを侮っていたのだろう。

 そして、狩人の予想は当たった。

 裂け目周辺の森でケモノの卵が見つかったのだ。卵の形状は泡の塊のようなもので、木の枝や草むらの中、森の至る所で見つけられた。樹上性のカエルの卵であると、研究者たちは調査対象が増えたことを無邪気に喜んだが、それは裂け目にいたカエルの産みつけたものに他ならない。つまり、裂け目の中にはまだケモノが潜んでいて、地上にも出てきたということだ。

 さて狩人たちはケモノを舐めるからだと憤ったが、起こったものは仕方がない。裂け目内部の調査はいったん中止し、卵の駆除や、内部に残っているケモノの掃討に努めようとしていた。



「カエルの卵は一週間ほどで孵化する。水温が高ければもう少し短くなるけど、あの卵はどうなんだろう。君は……ええと、八街君だったか。君は見たかい。そこいら中に産みつけられた泡状の卵を。アレは樹上性のカエルの卵だね。カエルは何も水の中に棲む種ばかりじゃあなくってね、木の上だとか、地上だとか、色んなところで生きていけるんだ。しかし、さて、興味深いよ。地下にいた大きなカエル、アレはウシガエルとか、ヒキガエルに近いね。私が見たところヒキガエルなんだが、まあ、色が変わっていたし、やけに目が大きかった。あくまで近い、似ているということにしておこう。それでだ。ヒキガエルなんかはあんな泡みたいな卵を産まない。これは面白いよ。そもそも地下でずっと生活しているカエルというのも、しかもあの巨体で、というのもそうはいないからね。正直言ってこれはファンタジーの領域にある。棲息する場所も、産む卵もちぐはぐだ。やはり扶桑熱に罹ったケモノは少し違うね。ところでもう一つ不思議なことがあるんだ。あの泡状の卵だがね。普通、樹上性のカエルも水場の近くにああいった卵を産む。何故かって? そりゃあ水がないと駄目だからさ。カエルはカエルのまま産まれてこないだろう? オタマジャクシから少しずつ成長して進化する。カエルは肺と、主に皮膚呼吸をする生物だが、オタマジャクシの時はエラ呼吸だ。だから水がないと困る。カエルは一度に数千個の卵を産むが、オタマジャクシからカエルになれるのはその中の一割か、二割くらいだ。そりゃそうだろうとも。外敵はいるし、そんないっぺんにカエルになられてもエサは限られているからね。カエルだって食べるのに困る。自然の摂理というやつだ。さらにその中から産卵できるほど大きくなれるのは一パーセントというところだ。数千の卵の中からたったそれだけだよ。裂け目で見たカエルは恐ろしく見えたね。でも、他の生物から見るとカエルは食べやすい部類に入る。それと知っているかい。オタマジャクシの死因は溺死がほとんどなんだ。成長すると脚が生えてくるんだけど、その時にエラ呼吸から肺呼吸に変わる。つまり、その時に水の中にいたままだと溺れて死ぬ。息ができないってことは生きていけないってことだからね。もはや間引くために神さまがつけたとしか思えないシステムじゃないか。ああ、だから樹上性のカエルは水の上に卵を産んで、産まれたやつは水の中に落ちる。そうなってるんだ。あの泡の卵がそうなってないってことは、水がなくても生きていけるオタマジャクシが生まれるのかもしれない。いや、もしかするとその過程を飛ばしていきなりカエルで出てくるのかも。興味深いよ。非常にね。……ああ、何だったかな。君は何を聞きたいんだっけか」

 裂け目でカエルと遭遇した翌日、幸は鬼無里たちのテントの中に招かれていた。彼女から先日の礼をしたいのだと言われていたのだ。幸は金は受け取れないと固辞した。その代わりに、鬼無里たちがどういったことをしているのか話を聞きたがった。ちなみに古川は謝礼金を受け取ってさっさとどこかへ行ってしまった。

「ああ、そうだったね。そうか、私たちが何をしているか、か」

 幸は勧められた飲み物に手をつけようとしたが、テントの中、自分たちをぐるりと囲むようにして置かれている水槽や籠が気になってしようがなかった。水槽には小魚やカエルが、籠の中には小鳥やネズミがいた。さっきから、それらの鳴き声が耳の中に貼りついているように思えていた。

「簡単に言うと扶桑の調査だ。ただ、私はあの桜の木にはあまり興味がない。他の人はあの木の皮や根っこにご執心のようだが、私は扶桑熱に罹ったものの方に興味がある」

「異能を調べるってことですか」

「異能? ああ、そうか。中では扶桑熱のことをそうも呼ぶのか。……いや、その異能にもあまり興味はないかな。罹ったらどうなるかが知りたい。先に話したカエルと同じだ。たとえば、住む場所、食べるもの、それが他の個体と比べてどう変化するのか」

 なるほどと幸はよく分かっていない顔で頷いた。

「我々はケモノに興味があるということだよ。それより、君はこの子たちに興味があるみたいだ」

 幸は改めて水槽を見回した。

「飼ってるんですか?」

「ふふ、そうとも言えるね。でもこの子たちには役目がある。それを終えるまでは、そうだね、飼ってるということになるね」

「何をさせるんですか。なんか、いっぱい色んなのがいますけど」

「ん? 実験だよ」

 鬼無里はよく喋ったが、その声は小さく、カエルの鳴き声で掻き消されそうになっていた。注意して聞いていなければ彼女が何を話しているのかが分からないほどである。

「実験……解剖とかも?」

「するよ。ここに連れてきたのは、この子らも扶桑熱に罹るのかどうかってのが主な理由でね。何せ扶桑熱に罹患する本当の理由なんて誰も知らない。どうしてそうなるのか、誰も正しくは説明できないんだ。だからどうすれば扶桑熱に罹るのかを試さないといけない」

 鬼無里は幸の対面に座っていたが、やおら立ち上がると彼の隣に椅子を置き、そこに座った。

「あの……?」

「ああ、いや、私も自分の声が小さいと知っているからね。話が聞こえないといけないから近くに寄ったんだ」

「は、はあ」

 鬼無里はそう言ったが、近づいてからは囁くような話し方になった。余計に声が聞き取りづらくなった。

「できればケモノの解剖もしたいんだが、瓜生君たちがそれは駄目だと言うんだ。どうしてだろうね。いや、生きたままってのが危ないのは分かるよ。普通の種とは違うからね。麻酔が効きづらいやつもいるかもしれないし、ケモノは基本的に、扶桑熱に罹ると大きくなる。麻酔の量も正確には計れないだろうし……でも死んだケモノはまた話が別だと思うんだけどね」

「死んだやつも駄目なんですか」

「瓜生君たちはそう言っていたよ。ここでは狩人の言うことに従うつもりだから、今は従うしかないけどね。ところで、君は扶桑熱に罹ったからメフに来たのかな」

「そうです」と幸が答えると、鬼無里は意外そうに目を丸くさせた。

「答えてくれないかと思っていたよ。何せ、この質問はメフの人々にとってタブーじみたものらしいからね。瓜生君たちにも同じことを聞いたんだがはぐらかされるばかりで答えてくれなかったよ」

「普通はそうだと思います」

「君は違うのか」

「ぼくは、今となってはですけど、それもよかったのかもって思ってますから」

「……扶桑熱に罹って、辛い目に遭って、ここへ送られたのにか」

「ぼくは、ですけど」

 鬼無里は何か言ったが、動物の声で聞こえなかった。

「そういえば、カエルのこと詳しいんですね。裂け目でもカエルのお話してましたし」

「ああ、そうだね。私は普通の人よりもカエルとは付き合いが長いんだ。よく知らないと上手く腹を開けない。解剖するにはその対象のことをきちんと分かっていないと意味がない。ただ腹を割いて、悪戯にその命を奪うだけで終わってしまう」

「どうしてカエルなんでしょうか」

「え?」

 幸は水槽の中のカエルを指差した。差されたカエルはじっと彼と鬼無里の方を見つめていた。

「学校で解剖の授業をやる時って、どうしてカエルなのかなって。他の生き物じゃあダメなのかなって」

「君は解剖をしたことは」

「や、ぼくの時はそういうのなかったです。たぶん、DVDとかを見ただけだったような」

「そうか。カエルの内臓の位置が人のそれと似ているから、という風にも言われていたね。手に入れやすいし、まあ、手ごろなのさ。実際のところ、私にもよく分からないが。もう何度もカエルの解剖はしているが、繰り返すうちに人間とそこまで似ているものでもないと思うようになったくらいだ。ただ、まあ、やりやすいんじゃないか。人に近いものほど殺すことに抵抗があるだろうからね。昨今は色々とうるさいし」

「……ネズミも解剖するんですか」

 鬼無里は頷いた。

「するんですか」

「ネズミが好きなのかい」

「カエルよりかは何だか抵抗があります」

「うん、そうだろうね」

「どうしてなんでしょう」

「不思議だね。ネズミもカエルも、虫も人間も等しく同じ命なのに。生きているという意味では同じなのにね。それで言うなら、君たち狩人の方が分かりやすい。何故殺すのか。それは危険だからだ。人を襲うからだ。明確だ。少し歪んではいるが」

 鬼無里はさらに声を潜めた。幸は思わず、彼女の方へ顔を寄せる。

「食べるために殺すわけでもない。ただ殺す」

「危ないからじゃないですか」

「そうだね。でもやっぱり歪んでいるとは思う」

「……そうでしょうか」

「いや、釈迦に説法かな。君たちの方がそのことについてよく知っていて、考えているはずだ。忘れて欲しい」

 そう言うと、鬼無里は幸から少し顔を離して紙コップの中身に口をつけた。

「鬼無里さんはカエルが好きですか」

「ああ、好きだよ」

 今度は幸が目を丸くさせていた。

「好きなのに解剖するんですか」

「ああ、そういうこと。……仕事だからね。それに、人間に対する好意とはまた別物だし。うん。カエルに限らず小さいものは好きだよ。ネズミもね。どうしてだろうね。小さくて、ちょろちょろと動くものが好きなんだ」

 幸は頷きかけたが、鬼無里がじっと見ていることに気づき、息を呑んだ。

「君は小さいね」

「……小さい、ですか?」

「ああ、すまないね。そういう意味ではなかったんだが、ほら、さっきの白髪の人もそうだったけど、狩人はああいう手合いが多いように思えていてね。八街君みたいにまだ若い子が珍しかったんだ」

 そういうことならと幸は自分自身を納得させた。だが、鬼無里は彼からまだ目をそらさない。彼女が言った、小さいものが好きという言葉が引っかかり続けていた。

 幸にとっては、さながら蛇に睨まれた蛙のような状態が続いたが、ふと、鬼無里は外の方へ目を向けた。

「気に障ったならすまない。そうでないなら、よかったらまた何か話してあげよう。ああ、話せる範囲のことだけね」

「そうします。それじゃあ、今日はありがとうございました」

「いや、何、命を助けてもらったんだからお安い御用だよ」

 幸は立ち上がりかけたが、気になっていたことを口にした。

「卵はどうするんでしょうか。狩人の皆さんは、その、潰して回ってるみたいですけど」

 鬼無里は目を伏せた。

「……ルールに従う。そういうことだよ」

 幸は鬼無里を見た。彼女は弱々しく見える。声が小さく、やけに細く、濃い隈があって不健康そうだ。抜けるような白い肌はオリガのものとは少し違っている。どこか病的なのだ。それでもなぜだろうか。鬼無里が他者の言うことに諾々として従うとは思えなかった。



 オリガたちに占拠された、元喫茶店の空気は悪かった。何せ裂け目の調査に来たというのにケモノのせいで足止めを食っているのだ。中には入れず、進展する事柄など何もない。研究者たちはコーヒーを啜り、サンドイッチを齧るくらいしかできないでいる。

 幸はオリガに、他のことを調べればいいんじゃないですかと言った。彼女は何だとこいつ生意気なやつめと幸を足蹴にした。同じように見えても研究者によって調べるものは違うのだった。

「ケモノなんてさっさと殺してしまえばいいんだ」

 カウンターでアルコールを呷るオリガは、今日もぷんすかとしていた。

「そうすればまた裂け目に行けるんだろう?」

「そのようで」とアレクセイは興味なげにして答えた。

「しかも出てきたのはカエルだ。あまり可愛くない」

「そうですか? 私は、中々愛嬌がある姿だと思いますが」

「そうかあああ? なあ。ちいこいのはどう思う?」

 幸はオリガの隣に座ることが多くなってきた。それは決して彼の意志によるものではなく、他の研究者たちからの懇願によるものだった。

 オリガは酷く気難しい。アレクセイ以外に御せるものはいない。しかし幸はまた別のようで、とりあえず彼をオリガの近くに置いておくと彼女の機嫌はあまり悪くならないし、悪くなったとしてその矛先は他ならぬ幸に向く。いいこと尽くめというやつだった。

「ロシアにカエルっているんですか?」

「何? どうしてそう思う」

「だってカエルは冬眠するじゃないですか。寒いところにはいないんじゃないかと思って」

「ロシアが年中寒いと思っているのか」

「違うんですか」

「違う。確かに冬は長いが、それが終われば春が来る。夏も秋も来る。そしてまた長い冬もな。だからカエルだっているに決まっているだろう」

 幸はオリガの話をあまり聞いておらず、アレクセイにコーヒーのお代わりをお願いしていた。

「知っているか、ちいこいの。猫は自分が誰の肉を食べたのか知っているものだ。お前もそう思うなら……おい、聞いているのか」

「ぼくは可愛いと思いますよ」

「……ん? 私がか?」

「さっきのカエルの話です。カエル、ぼくは可愛いと思いますけど」

「お前わざとやっているだろう」

 話を聞いていたアレクセイが笑っていた。彼はすぐに表情を消し、真面目くさった顔になる。

「しかし、何でもそうですが、数が多いと困りますね」

「皆さん、卵を潰したり、裂け目でケモノを狩っているみたいです」

「ちいこいの、お前も行けばいいだろう」

「いいんですか」と、幸はオリガではなく、店の中にいるものたちの反応を見た。研究者たちは首を横に振ったり、肩をすくめたり、本気で嫌そうな顔をしていた。彼がいなくなったら誰がオリガの怒りを引き受けるというのだ。

「やっぱりやめときます」

「そうか。おい、何か甘いものでも食べるか? アリョーシャ」

 アレクセイは心得たとばかりに、何も言わずに作業を始めた。

「そういえば今日は日限の姿が見えないな」

「ぼくも見てません。どうしたんだろ? ……あっ」

「なんだ」

「オリガさんは、どうして日限さんの名前を知ってたんですか」

「知りたいか」

 オリガは車椅子のひじ掛けを使って頬杖をつき、口角をつり上げた。幸は首を振った。

「もったいぶるなら聞きたくないです」

「お前はカエルより可愛くないやつだ」

「可愛くないってことは、ぼくがかっこいいってことですか」

「アリョーシャ、こいつすごい馬鹿だぞ」

「はっはっは」

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