心臓抜き
蘇幌学園を後にした狼森は、相棒と合流するためにセンプラのゲームセンターへ向かっていた。彼の相棒はたいていそこにいるのだ。だが、学園から歩いて数分もしない内、妙な感覚に襲われた。狼森は立ち止まって煙草を咥える。
「おお、そういうことかよ」
静か過ぎた。人の気配がどこからもしなかった。先まで聞こえていたはずの声も音もどこか遠い彼方へ連れ去られたかのようだった。
狼森が煙草に火をつけた瞬間、人家から何者かが飛び出してきた。理性の欠片すら持ち合わせていないであろう振る舞いを見せたのは、腰の曲がった老人であった。狼森はそれを容赦なく蹴飛ばす。腰の入ったハイキックだった。
「おいおい」
老人は頭から倒れて動かない。首の付け根には縦に裂かれたような傷があった。
「俺はそんなとこ蹴ってねえぞ」
「官憲かね」
人家から別のものが姿を見せる。山高帽に燕尾服を着た、紳士然とした恰好の男であった。彼には右腕がなかった。左肩も、顔の半分もなかった。その後ろからは生気を失くしたであろうものがゆっくりと狼森を目指して歩いてくる。幽鬼めいたものは人家からだけではなく、後ろからもやってくる。いつしか彼は囲まれてしまっていた。
「手帳を見せようか?」
「結構」
紳士は葉巻を口に咥えた。
「それに意味などないよ。死人を捕まえる法などないだろうに」
「……死人だ?」
「気にしないでいい。じき、君もそうなる」
紳士は指を鳴らす。狼森を取り囲んでいたものが動いた。彼らはみな血を流し、部位を失い、意志を失くしていた。まるで生ける屍のようだった。
放課後になり、幸たち三人は何となく昇降口に集まっていた。基本的に気のない風を装ってこそいるが、葛もやはり骨抜きの話は気になるのだろう。そっぽを向いて帰らないのがその証拠だった。
「俺さー、一つ思い当たったことがあるんだわ。赤萩組が酷い目に遭って得するっつーか、恨み持ってそうなやつ。アレな、猿喰たちだわ」
「え? そうなの? でもなんか、バックについてもらってるとか言ってたような」
「ケツモチとかいうけどさ、実際やくざがすることなんて何もねーよ。猿喰たちからすりゃあ毎月カネだけ持ってかれてよ。無理難題押しつけられて。ダニみてーなもんだよ」
翔一は少し湿っぽかった。猿喰たちは死んだ。殴られたりもしていただろうが、一時は彼も仲間だったのだ。思うところがあるに違いなかった。
「でも、あいつら死んじまったんだよな」
「黄昏てんなやウゼーな。ハンパにイキってるから悪いんじゃん?」
痛いところを突かれたのか、翔一は反論しなかった。
幸は思惟に耽っていた。そもそも赤萩組や骨抜きは学校と関わりがあるのだろうか。損得の話ではないような気もしていた。だが――――。
「結果だけ見ればって話なんだけどさ、不良の猿喰さんたちや、その後ろにいた赤萩組が酷い目に遭ったよね。だったらそれを嬉しく思うのはぼくたちじゃないかな?」
「俺、たち?」
「もっと言えば学校の皆が」
葛は意地悪い笑みを浮かべる。
「学校からばっさり厄介者がいなくなったってわけ? ……まあ、かもしんないけど」
三人はそれで黙り込んだ。硝子に反射する夕焼けが眩しい。幸は手で顔を覆う。その隙間から近づいてくる人影が見えた。
「ああ、遅刻かと思った。おはよう、八街くん」
「水原、さん?」
深咲は小首を傾げた。
「どしたん? 早く教室行かなきゃ遅刻しちゃうよ」
靴を履き替えながら深咲は言う。翔一と葛は不思議そうに彼女を見ていた。幸を意を決した。
「もう放課後だよ? それに」
幸は深咲の手を指す。彼女の手の甲からは血が滴って、流れていた。
「どこかで切ったの?」
「え?」
深咲は自分の傷口を認めて、ゆっくりと顔を上げる。
「ああ、これはね、切られたの。ちょっと痛いかな」
「そんな、誰に。じゃなくて、保健室に行こう。怪我してるんだよ」
「今、何時?」
「え? あ、四時になるけど。夕方の……」
「ヤチマタっ」
翔一が幸の体を引っ張った。勢い余ってごろごろと転がって、二人は靴箱に身体をぶつける。幸は咄嗟に膝立ちになった。先まで自分がいたところには、見覚えのある男が立っていた。
「やあ、またお目にかかったね」
骨抜きだった。前に戦った時より酷い有り様だったが、彼はそのことを意に介していない。幸たちに一礼すると、深咲に近づこうとする。
「な……逃げて水原さん!」
しかし深咲は身じろぎ一つしなかった。ぼうっとした様子で骨抜きを見遣り、それから、幸に視線を定めた。
「そっか。頑張ってたんだけどな。もう、ダメみたい」
幸は深咲の名を呼ぶ。彼女はもう笑わなかった。
「どうするのかね?」
「男爵。私を……
「よろしい。麗しの君の思うがままに」
男爵。骨抜きは深咲にそう呼ばれた。
『近しいものからは男爵と』
幸は骨抜きの言葉を思い出す。深咲は怪我をしている手を『男爵』に向けて掲げた。彼はそこに顔を近づけ、陶然とした様子で口を開く。
「これも愛というやつだよ、八街くん」
「……愛?」
「君のご母堂によろしく伝えたまえ。もっとも、ここで死ななければの話だが」
昇降口には見覚えのないものが集まってきていた。みな傷があり、血を流している。
「まさかこの人たちも……!」
「バッカ逃げろって!」
葛は既に教室棟の方へ逃げ出していた。幸も後を追いかけるが、すぐ傍に生ける屍が迫っていた。
「うっ、うおおああああっ、バケモンばっかじゃねえか!」
幸と深咲の視線が交錯する。彼女の目は暗く、淀んでいた。
「……私が、バケモノ……?」
男爵を含めた、生ける屍の動きが止まる。翔一は葛を追いかけ、動揺していた幸も少し遅れてその場を脱した。
午後四時三十分。判定黒の扶桑熱患者、
学校側のマニュアルに従い、生徒と教師の避難は完了した。ここは既に猟場と化したのだ。
教室棟を走り、裏門から校外に抜け出ても幸たちは止まれなかった。振り向くのが怖くて必死になって駆けた。そうして、葛がバス停のベンチに座り込んで動かなくなったところでようやくになって足を止めた。三人ともベンチに腰掛け、しばらくの間は肩で息をするのに精いっぱいで何も話さなかった。
「……あんたら、分からなかったんだ。変だと思わなかったんだ?」
幸は葛を一瞥する。
「あの水原ってやつのこと。他のやつもそうだけどさ、みんなあいつが好きだ好きだって」
翔一は力なく笑った。
「委員長を嫌いになるやつなんかいねえって」
「あーしは好きじゃない。一年の時からずっと嫌い。このガッコさ、休んでるやつ多いじゃん。あんたらのクラスだってそうだし」
「それが何だっつーんだよ」
「水原のせいって言ったらどうする?」
言いがかりだ。幸はそう思った。だが、葛の目は真剣そのものだった。
「昨日まで普通だったやつが次の日には不登校になる? 仲良かった子たちが急に派閥作っていじめ合う? その逆だってそう。センセーだってワケわかんないこと言い出すし、でも、それに気づいてるやつは少なくって話も噛み合わない。むちゃくちゃになってた。だから嫌になった子は学校来なくなったし、辞めたりもした。そりゃそうだよ。今残ってんのは水原が好きなやつだけだもん」
「だから、なんで委員長のせいになるんだって」
「んなもん花粉症の力使ってるからだろ!」
「モーソー語ってんのはお前の方じゃねえか!」
「ちょっと待ってよ」
幸は憤る翔一を抑え、葛に向き直る。
「一年の時からって、衣奈さんは今年で一年生じゃないの? 水原さんとは学年が違うじゃないか」
その指摘に葛は反応し、泣きそうな顔になった。
「留年したの。あーしも学校行かなくなったから。理事長がおじいちゃんの知り合いでも、そこまで好き勝手できねーし、つーか、水原と同じ学年に上がりたくなかったし」
素っ頓狂な声を放つと、翔一はじろじろと葛を見た。
「じゃあお前、俺らとタメだったわけかよ。ホントは同じ、二年だったのか?」
「あ、そっか。だから衣奈さんは敬語を使わなかったんだね」
「いやヤチマタ、そいつのは地だぞ。こいつは本当はいくつだろーがタメ口利いてくるタイプだって」
「ちゃんと『センパイ』って敬語使ったじゃん。バカだろ」
「ほらな! ほら見たことか!」
葛は深咲のことを一年も前から知っていたのだ。だが、幸には彼女の言葉が全て真実だとは思えなかった。否、思いたくなかったのである。
「衣奈さん。どうして水原さんを怪しんでるの? 君は嫌いなのかもしれないけど、ぼくは水原さんのことが好きだし」
「……あいつがメフにきたのが一年前。そん時に蘇幌に入学した。あーしらと同じタイミングで。そもそもさ、蘇幌はメフの中でもちょっと変わってて、花粉症持ちの生徒をあんまし受け入れない風潮があったんだよ」
深咲も同じようなことを言っていたはずだ。幸は頷く。
「水原が来てから変わったって思ったのは、それまでずっと、それこそさ、幼稚園から今まで一緒だった子たちがおかしくなったからなんだよ。あーしも、蘇幌に入学したほとんどのやつもメフ生まれ。つまりちっさい時から顔見知りで、しょうもないことでケンカもしたけど、ずっと仲良くやれてたんだよ。でも、入学してすぐ、ゴールデンウィークが始まる前にいじめられた」
「誰が」
葛は自分を指差した。
「ワケわっかんねー。急にだよ? 何もないんだよ? つーか、ついさっきまで普通に喋ってたんだよ? いじめに理由もクソもないかもだけどさ、徹底的に無視されたりすんのは生まれて初めてだったし」
「被害妄想じゃねえの?」
「あ」
幸はまずいと思ったが、葛は既に翔一の足を蹴っ飛ばして、ベンチを踏みつけて、彼の胸ぐらを掴んでいた。
「何も知らねーくせに適当なこと言ってんなよ! こっちはな! あんたらの来る前からずっと目ぇつけてて調べてて! 友達だってセンセーだって好き勝手あーしのこと言ってくるけど!? 学校にいられなくなっちゃうくらいだけど! でもムカつくじゃん! 悔しいじゃんかよ! だってあいつは一年だよ!? こっちは生まれてから死ぬまでずっとこの町にいるんだってやつばっかなのをむちゃくちゃにされてるっつーの! 返せよ! 私らの十何年返せ! なあっ」
叫んでいた。葛の声は痛々しかった。幸はその時になって、彼女が学校に残っていた理由に思い至った。きっと戦おうとしていたのだ。学校生活や仲の良かった友人を奪われても逃げないで抵抗し続けていた。自分のためだけではない。葛は他人のために声を荒らげられる性根の持ち主だ。
幸と同じようなことを翔一も考えていたのだろう。彼は小さな声で謝り、真摯な態度で頭を下げた。
「ゆるさねーから」
翔一を放してもなお、葛は彼をねめつけていた。
「俺が悪かった。……なあ、お前が俺らみてーな転校生を見に来てたのもなんか関係あんのか。その格好もさ、学校来ないでぶらついてたんも全部、委員長とのことが」
「は? なんで? それとはカンケーないんだけど」
「じゃあ、どうしてだよ?」
「や、別に。あーしそういうの好きだから」
「ああ、そうか」
翔一は幸を見た。俺は疲れたから後は頼んだ。彼の目がそう言っていた。
「蘇幌に衣奈さんの友達は残ってるの?」
「はあっ? んだよ、いねーよ、もう。うるせーし、なんでそんなん聞くんだよ……」
自分勝手かもしれなかったが、幸は葛に好感を持った。彼女もまた自分を保とうとしていたのだろう。葛は自分にとっての日常を、当たり前を欲していた。陽だまりのような暖かさを知るにはメフの外でも中でも関係ない。それぞれにとっての陽だまりというものが確かに存在する。
「じゃあ確かめてみるよ」
「何言ってんのか分かんない」
「衣奈さんは水原さんが何かやったんじゃないかと思ってる」
「思ってるとかじゃねーし、やったに決まってる」
幸は葛を見据えた。彼女は口を開きかけたが視線を逸らした。
「証拠もないし、本当に水原さんがやったとして理由も聞かないのは、ぼくは嫌だ。だから聞いてくるよ。どうしてって」
「ヤチマタ、お前マジで言ってんか? 戻るって、学校に? あのさ、俺だって委員長は気になるけどよ。けど、正直まともに話せるとは思えなかったし、骨抜きだってあそこにいるじゃねえか」
「ほっとけないんだ」
水原をあのままにしておけなかった。幸の陽だまりはそこにあるかもしれないからだ。
「ねえ衣奈さん。友達が帰ってくるとか、楽しい学校になるとか、ぼくはそういうこと約束できない。でも、水原さんの本当のことを確かめられたら借りはチャラってことにならないかな」
「……借りって」
「チャラになったら友達になって欲しいんだ。ぼく、友達少ないし。『衣奈さん』じゃなくって『葛ちゃん』って呼べたらいいなって思う」
「馴れ馴れしいし」
「ダメかな。ダメでもいいや。二人はここにいて。いや、いなくてもいいから、大丈夫そうなところにいてて」
幸は体を伸ばす。
「マジなんだよな、ヤチマタ?」
「うん」
「お前にはすげー力があるかもしんねーけど、けどさ」
「翔一くん。力は関係ないんだ。ぼくはそう思いたい」
だから。幸は行ってきますと告げた。
翔一はへたり込んでいた。
「俺、止められなかった」
葛は彼を見下ろし、髪の毛をかき上げた。
「なんか、あいつならやれんじゃねーかって無責任なこと思っちまった。けど、ちげーんだよたぶん。俺ぁ骨抜きにも委員長にもビビってたけど、ヤチマタも怖かったんだよ。下手なこと言ったらなんかされんじゃねーかって、一瞬でも思っちまった」
翔一は続ける。まるで懺悔のようだった。
「言っちまったんだよ俺。学校から逃げる時に。『バケモノ』って言っちまった。委員長だけじゃねえ。ヤチマタにもバケモノって言ったんだ、俺は。あいつ、そのことを気にしてんじゃねえかって……」
葛はスマートフォンでゲームをしていた。翔一はそれを恨めしそうな目つきで見上げた。
「何? 何か言って欲しいの?」
「できれば」
「そういうのは自分で八街に言えよ」
葛はスマートフォンをしまって学校のある方角へ目を凝らす。
「決めんなら早くしたら? もう始まってるっぽいし」
「始まってるって……何が」
午後五時。校舎内に突入した警官隊が壊滅。とある猟団が彼らの後を引き継ぐ形で遅れて校舎内へ入る。
狩人はケモノを狩る。時にはケモノと判定された人間も狩る。狩人は異能を用いる凶悪に抗する切り札だ。彼らはチームを組んで獲物を追い詰めるのがほとんどである。そういったチームのことをメフでは猟団と呼んでいる。
この日、蘇幌学園に向かったのは
「可哀想だよな。力もねーのに鉄火場行かされて」
「まーおれたちもだけどな」
乱鴉の五人は正門を抜け、昇降口から校舎内に足を踏み入れた。昇降口には下駄箱と一緒に警官の死体が転がっている。
「夜の学校ってこええよな。お化け出そう」
「ここ何だっけか。ソボロ学園だっけ。誰か詳しいやついねーの?」
「おれデン学だったからなー」
「右か左か、焼野どうするー?」
問われた焼野は逆立てた黒髪を撫でつけ、ううんと唸った。
「二手になって一階から調べてくか。ちょうど六人いるし」
「六人?」
「五人じゃなかったっけ?」
「いや、六人いるじゃん」
焼野は、あ、という声を漏らす。六人いるが、一人は乱鴉の人間ではなかった。それどころか生きている人間でもなかった。さっきまで倒れていた警官が立ち上がっており、それを数えていたのだ。乱鴉の五人は骸の警官から離れて顔を見合わせる。
「どうすんの?」
「どうなってんの?」
「この人死んでんの?」
狩人がみな花粉症に罹った異能者というわけではない。また、狩人の得物は銃火器が基本的に禁止されているほか、市によって制限されている。焼野以外の四人は異能を持っていない。困った時は彼に振るのが乱鴉のやり方であった。
「死んでんだし、いいだろ」
焼野は警官の体に触れた。彼の掌から赤い炎が揺らめいて見える。焼野がそっと離れると、警官の全身に火が回り始めた。
この炎が焼野の異能である。掌で相手に触れるのが発動の条件にもなっている。倒れて、今度こそ動かなくなった警官を確認すると、焼野は息を一つ吐いた。判定黒の異能者がここにいるのは分かっている。しかしどのような異能を持っているものが相手なのかは誰にも分かっていない。
「やっぱ固まっていくか」
一階部分を調べた後、乱鴉は二階へ向かった。先頭の焼野が踊り場に差し掛かったところ、人影が前を横切った。翻ったスカートが目に入ったこともあり、彼は、その人影を骨抜きと共にいるであろう女生徒だと判断した。狩人が殺しても罪に問われないのはあくまで判定黒の人間だけだ。一般人を巻き込むわけにはいかなかった。
「さっさと降りてもらうか」
「何? 何かいたん?」
「いや、女の子が」
言いかけた焼野が絶句する。後方から接近する男を認めたからだ。列の一番後ろにいる狩人は気づいていなかった。
「バッカ後ろ!」
最後尾の狩人が掌打を受け、前にいた仲間を巻き込むようにして倒れた。階段の中ほどで混乱が起こる。それをやったのは山高帽を被った、老境に差し掛かった男である。動けるものはその男を骨抜きだと判断するより早くそれぞれの得物で切りかかった。骨抜きは後ろへ跳躍するも、乱鴉が彼を追いかけることは叶わなかった。二階から別の男たちが姿を見せたからだ。誰もが血を流していた。目には生気がなかった。
「さっきのと同じだこいつらっ、死んでんぞ! 死んでんのに動いてやがるっ」
焼野は向かってくる骸を二体燃やしていた。下方にいる狩人、その内の三人が骨抜きを追った。彼らは異能こそ使えないが、いずれもケモノ狩りでならした動きを見せた。
階段に残った二人は二階の骸を片づけたが、また別の男が歩いてくるのを確認した。
「やっとけっ」
「おう」
「ちょ!? ええっ? 待って待って!」
だが、おっかなびっくり歩いてきた男は先までの骸とは様子が違っていた。彼はいきり立つ焼野たちに対して両手を挙げてぶんぶんと首を振っている。
「ちっ、違うって! 助けてって!」
「はあ?」
「俺! 俺ここの教師! 安楽土徳次郎! あ、徳ちゃんって呼んでちょうだい」
どうやら件の女生徒の他にも取り残されていたものがいたらしかった。焼野は安堵した。死者ならばともかく、生きた人間に力を使わなくて済んだからだ。
「ビビらせんなよ。じゃあ、あんた以外に残ってるやつは?」
「や、たぶんいないと思うけど。あー、よかった。助かった」
安楽土は人好きのしそうな笑みを浮かべて両手を下ろした。彼は焼野たちに近づき、自然な動きでズボンのポケットに手を突っ込む。その両手には赤い布が握られていた。それを焼野ともう一人の狩人の顔面に押しつける。慌てた二人は安楽土を押し退けた。
「あいたっ!?」
安楽土は尻もちをついて転んだ。焼野は押しつけられたものの正体を確かめた。血がべっとりとついたハンカチだった。
「くっ……せええ! んだこれっ」
もう一人の狩人もハンカチを投げ捨てた。濡れたそれが床に叩きつけられる。
「何してんだ、あんた」
「や、助かったわ。これで嫌われなくて済むからさ」
「ああ!? てめーおれらにめちゃ嫌われてるからな!? 助けに来たってのによう!」
狩人がそう言うと、安楽土は笑みを消した。
「助けに来たんじゃなくて、殺しに来たんだろ?」
焼野の視界が揺れた。彼は近くの壁に片手を突き、安楽土をねめつける。鼻孔にはまだ臭気が染みついていた。この臭いには覚えがあった。今まで幾度も嗅いだものだ。血の臭いだ。
狩人が尻もちをついたままの安楽土を蹴りつけた。蹴られても彼はげらげらと笑い転げた。焼野は拳を握り締める。怒りで頭に血が上っていた。
「ああ、ありがとうございます、先生。ちゃんと私のお願い聞いてくれたんですね」
「おー、そりゃあ聞く聞く」
「ふふふ、嬉しい」
「俺もー」
女生徒が近くの教室から現れた。地味な印象の少女だったが、なぜだか、焼野も狩人も彼女から目が離せなかった。
「こんにちは」
少女が微笑む。それだけで焼野の胸が高鳴った。学生の時分に味わったことのある、懐かしさを含んだときめきであった。少女の眼が、声が、何もかもが気になってしようがない。頭の中が全部作り替えられていくかのような衝撃で震えた。
そうだ(・・・)。
自分は今、この少女に恋をしている。彼女の言うことならば何でも聞いてしまいそうな気さえしていた。
「それじゃあさっそくで悪いんですけど」
「う、ああ……」
「変な人がこの学校に入り込んでるみたいで……」
「あっ、ああ! 分かった! 分かってる!」
焼野は何度も頷いた。
「おい、やけ――――」
彼は隣にいた狩人を燃やした。燃やした方も燃やされた方も喜悦の笑みを湛えていた。
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