霜の朝<2>



 喫茶店を出るのが遅くなった。とうに日は暮れていて、幸は家路を急いだ。

 遅くなったのには理由がある。幸は、多くの狩人が玖区の調査から降りたと聞き、協力してくれそうな人物に連絡を取っていた。まだ誰からも返事はなかったが、彼はあまり気にしていなかった。

 すっかり慣れた玖区の道を歩いている内、前方に白衣を着た女が見えた。彼女はゆっくりとしていて、木々にもたれて休み休み歩いている様子だった。

「……鬼無里さん?」

 そんな気がして、幸は恐る恐る声をかけてみた。すると、女はのろのろとした速度で振り向いた。

「ああ、よかった、君か」

「よかった?」

「声をかけられて、後ろから刺されるんじゃないかと思ってね」

 幸は馬鹿なと思ったが、あながちそうでもない状況かもしれないと思い直す。少なくとも鬼無里は不安に感じているのだ。

「今から、ホテルに戻るところですか?」

「ああ。運よく、うちのチームで何部屋か確保できてね。そのうちの一部屋をあてがわれているんだ」

「近いですか?」

「拾壱区の宿だ」

「近くまで送ります」

 鬼無里は少しだけ驚いた様子だった。

「いや、気にしなくても構わないよ」

「ぼくじゃ頼りないかもしれませんけど……」

 鬼無里は幸をじっと見下ろしていた。

「……そうか。君はあの場にいなかったけど、誰かから話し合いのことを聞いたのか」

「まあ、そうですね」

「そうか。私はゆっくり歩くけど、嫌になったら先に行ってもいい」

 幸はその言葉を了承の意として受け取った。彼は遠慮がちに鬼無里の隣に並び、彼女のスピードに合わせた。しばらくの間、二人は何も話さなかった。

「瓜生君たちが降りたよ」

 木々の暗がりを抜けた時、鬼無里はぽつりと漏らした。

「調査をやめるんですか」

「彼らはね。我々は続行するつもりだが、また狩人を捜さないといけないな」

 幸は意外に思った。瓜生とは短い付き合いだが、あのような諍いがあったとはいえ、仕事を投げ出すようなものには見えなかったからである。

「ああ、瓜生君はね、こういうことになったというのもあるが、どうやら彼の、家族の方で問題があったらしい」

「そうなんですか?」

「流石に詳しくは聞けなかったが、やはり、血の繋がりは大事だからね。彼も申し訳ないと何度も謝ってくれていたよ」

「そういうことならって納得しました。瓜生さん、すごくいい狩人でしたから」

 鬼無里は小さく頷いた。

「たぶんそうだと思う。腕は、あの裂け目に集まった狩人の中でもピカイチだろうね。ただ、彼がよくても彼の仲間は調査の続行を望んでいなかっただろう。狩人として優れているがゆえにケモノを見逃せなかった。そういうことさ」

「瓜生さんの代わりってなると難しいかもしれませんね」

「ああ。……君は」

 幸は小首を傾げた。

「君は、どっちが正しいと思う。ケモノを駆除すべきか、調査を優先すべきか」

「どっちも正しいんだって古川さんって人は言ってました。ぼくは、ぼくもこう見えて狩人見習いですから、危ないケモノをどうにかする方が自然なのかなって思います」

 だけど。幸は続けた。

「狩人じゃない人から見たら、やっぱりそういうのは少し変わってるのかもって思います」

「ケモノを殺すことに躊躇いはないと」

「よく分かんないです。でも、鬼無里さんのカエルの解剖と同じかもしれません」

「それは、仕事でやっているから、ということか」

「たぶん別々なんですよね、ぼくたちって。自分で言ってることとやってること、思ってることがバラバラなんです。でも、それが普通なんです。あ、たぶんですよ、たぶん」

「あ、いや、そうだな。うん。そうだね」

 玖区を抜け、拾区を歩いていると、ふと鬼無里が立ち止まった。

「なぜ扶桑熱に罹ると思う?」

 幸は少し歩いてから彼女に倣い、立ち止まった。

「なぜ、扶桑熱に罹るものと罹らないものがいる。両者を分けるのはなんだ」

 幸はすぐに答えられなかった。当然だ。多くのものがその答えを捜して、苦しんでいる。結局彼は当たり障りのないことしか言えず、二人は分かれた。鬼無里の後姿はやはり頼りなく、今にも倒れて、消えてなくなってしまいそうだった。



 酷く頭が痛む。眩暈もする。鬼無里は壁に手をつき、息を整えた。幸と別れてから容体は悪化する一方だった。早く宿に戻り、熱いシャワーを浴びて眠りたい。

 いや、と、かぶりを振る。ここ数日はろくに眠れていない。持ってきた薬も効き目がなかった。少しでも目を瞑れば粗暴な狩人たちの、鬼のような形相がフラッシュバックする。

 鬼無里は自身をかき抱いた。恐ろしい目に遭ってばかりだ。ケモノも、狩人も、自分以外の何もかもが恐ろしくてたまらない。ここに来てからはずっと――――、

「ふ」

 ――――否、そうではなかった。メフに来てからではない。ここへ来る前からずっとだ。生まれてからずっと怯え続けていた。ただ目を背けて耳を塞いでいただけで、そこに恐怖はあった。在り続けた。

「く、ふ、くくくく」

 鬼無里は笑っていた。彼女はどうしようもなくなった時笑うのだった。



 氷見浪は軽トラックの傍で火を焚いていた。彼は焚火台に手をかざした後、一人掛けのベンチにゆっくりと腰を下ろした。体を少しでも動かせば、ばきぼきと音が鳴る。森の方から足音がして、氷見はそちらに顔を向けた。

「おう」と声をかければ、ばつが悪そうな顔をした若い狩人が一人。氷見と顔見知りの男だった。

「なんか、すんませんした」

「あぁ?」

「や、氷見さん呼びつけといて、あいつらみんないなくなっちまったもんだから」

 ああ、と、氷見は頭をがりがりとかいた。

「しようがねえや、こればっかりは。強制したってやる気ねえなら仕方ねえ。残ったもんでやることやるだけよ」

 氷見は寝ずの番だった。彼の異能である《霜の朝》は強力なものだったが、その効果にも限りがある。森は広く、何度か同じ場所を訪れて重ね掛けしていく必要があった。

「すっかり慣れちまったからよ。こういうことはな」

 それは若い狩人を慮って言ったわけではなかった。氷見はメフで生まれ育ち、気づいた時には狩人をやっていた。彼は長い間、大空洞や地上に現れたケモノを狩っていたが、花粉症に罹って前線から離れた。その異能が特異なものだったからだ。ケモノは大概寒さに弱い。夏でも霜が降りるほどの冷気を広範囲に放てる(というような能力だと氷見は認識している)のは、ケモノの活動を鈍らせるには都合がよかった。

 氷見はもうずっとメフにいて、狩人や、彼らに関わった人々を見続けていた。だから慣れているというのはただただ本当のことだ。

「もう狩人やめてえんだがなあ、おれぁ」

「い、マジっすか?」

「マジだよ。こんなもんいつまでもやりたかねえよ。だから愛子ちゃんが戻ってきてくれたからよ。これでおれも隠居生活だって喜んでたんだ」

 若い狩人は、先日の愛子の取り乱しぶりを思い出した。

「あのヒミちゃんにも苦手なもんがあったんすねえ」

「……おい。おれの孫を何だと思ってんだ」

「カエルが苦手で逃げ帰るなんて可愛いとこあるじゃんってみんな言ってましたよ」

「かーっ、おいおいマジか。愛子ちゃんモテモテだな。でもな、狩人んとこには嫁に出さねえからな」

 若い狩人はそっけなく、そうっすねと答えた。氷見の頭に血が上った。

「愛子ちゃんが可愛くねえってか!」

「ままま、それよりどうすか。ちっとくらい飲んだってバチ当たんねえでしょ」

 狩人が軽トラックの荷台に視線を遣ると、そこには一升瓶が積んであった。

「目ざといねえ、お前も」と氷見は相好を崩した。

「よっ、なんかあったかな」

 狩人は、立ち上がりかけた氷見を制した。

「向こうのテントに色々あるんで、ちっと持ってきますわ」

「おいおい、いいのかよ」

「だから、ちっとくらいならバチなんざ当たんないっすよ」

「そうかい」

「へっへ、そうっすそうっす」

 言うと、狩人は森の方へ消えていった。氷見はゆっくりと立ち上がり、肩を回したりして体をほぐす。その度に痛みが走った。御年七〇の大ベテランである。肩も腰も腕も足も、痛まない箇所の方が少なかった。

 氷見はまたベンチに戻り、目を瞑っていた。足音がしたが、彼は顔を上げなかった。足音は先の狩人のものとは違う。しかも一人だけではない。いつしか彼は取り囲まれていた。そこでようやく、氷見は目を開けた。

 白衣の男たちが氷見を見下ろしていた。友好的な雰囲気ではない。今にも襲い掛かってきそうな、そんな剣呑さが見え隠れしていた。

「どうしたんだい、先生方」

 氷見は焚き火台にスギの薪を投げ入れた。彼は、火の熾る音が場違いにも心地よいと感じていた。

「そんな大勢で年寄りを囲んじまってよ」

 挑むような顔つきで、氷見は白衣の男たちを見上げた。彼らの内、最も背の高いものが口を開いた。

「おう」

 氷見は話を聞き流していたが、白衣の男は『お前のせいで調査が進まない。だから消えろ』と、要約すればそのようなことを淡々と述べていた。

「おう。そうかい。おれに言われても困るんだがな」

「は? いや……」

「いやじゃなくってよ、おれぁ狩人連中に頼まれてるんでな。先生方に退けって言われても退くわけにゃあいかねえよ。こんなんでも狩人の端くれでな。ケモノとあっちゃあ退く理由なんざどこにもねえんだ」

 研究者たちは狼狽した。氷見が老人ということもあり、まだ他の狩人よりかは御しやすいと考えていたのだろう。

「先生方よ。おれぁ狩人だ。ケモノを狩るのが仕事だ。あんたらはケモノを調べんのが仕事だろうが、まあ、なんつーか、そういうのに興味ねえんだわなこっちは。けどそいつを邪魔するつもりはねえ。おれはおれでケモノを殺すからよ。そっちはそっちで好きにしてくれや。なぁ」

「そういうわけにはいかないんだ、こっちは」

「だったらどうすんだ」

 氷見は立ち上がった。彼の背は低い。体の節々が痛んでおり、異能さえ使わなければただの老人である。それでも研究者たちは気圧されていた。

「おう、どうすんだって聞いて……うぉ!?」

 氷見が苦痛に顔をしかめた。慮外の一撃であった。研究者たちに取り囲まれている中、彼は片膝をつくが、耐えられずに地面を体に投げ出し、丸くなる。魔区の森に老人の悲鳴がこだました。



《霜の朝》の氷見が倒れた。それは狩人たちに衝撃を与え、同時に怒りをももたらした。調査から降りていた狩人もその報告を聞き、彼らは研究者たちの首根っこを掴んで問い詰めた。

 研究者たちは反論した。自分たちは何もやっていない。氷見という老人は独りでに倒れたのだと。その言葉を狩人たちは信じられず、ついには裂け目の周囲で暴力沙汰が起こってしまった。宿に戻ったばかりの鬼無里らもここに呼び出されていて、彼女らも揉め事に巻き込まれていた。

 さて、いざ力を振るう段になると狩人より優れているものなどこの街にはそうはいない。白衣を着たものたちは逃げ惑い、テントの中に隠れ潜むしかなかったが、それでも腕っ節に自信のある少数のものは抵抗していた。テントは引き倒されて、機器は蹴り倒されて、夜も深まった時間だというのに裂け目の周りは酷く騒々しい有り様となっていた。

 実は、研究者たちの言い分は間違っていなかった。

 氷見は腰に爆弾を抱えている。そして彼の使う冷気の異能、《霜の朝》は腰に悪かった。冷えは万病の大敵である。氷見にとって自らの異能は使えば使うほど己が寿命を縮めるかのような代物なのだ。だから、彼が倒れたのはただのぎっくり腰である。しかしそのようなこと、今となってはどうでもよかった。狩人も研究者も、積もり積もってたまりにたまったものを爆発させて解き放ちたいだけなのかもしれなかったのだから。



 鬼無里は、自分たちのテントの中に逃げ込むと、隅っこに屈み込んで体を震わせていた。

 あと少しで眠れるはずだった。鬼無里は歯噛みする。このような乱痴気に巻き込まれるためにメフへ来たのではない。

「ふ、ふふ、くくく……」

 テントが揺れた。外側から強い衝撃を受けたのだ。中にいる生き物たちが喚きだす。カエルが、鳥が、ネズミが、小さいものが叫んでいた。鬼無里は目を瞑った。だが、長くは続かなかった。彼女は地面に腕を突き、膝をつく。熱かった。目が、体が、熱を帯びて訴えている。それでも笑いが止まらなかった。

 水槽が一つ、棚から落ちた。中には小さな魚がいたが、地面の上に投げ出されて跳ねるしかなかった。やがてそれが息絶える。鬼無里はその様子をじっと見つめていた。


『…………』


「は、ははっ……」

 咄嗟に頭を押さえた。中から声がする。頭の中から、声が。鬼無里はその声を知っていた(・・・・・)。そうだ。もうずっと前から聞こえていて、とうに聞き慣れたものだった。

 テントの中に誰かが入ってくるのが分かった。そいつが声を荒らげている。鬼無里はゆっくりと立ち上がった。

「……なんだ?」

「ふ、あはっ。あははは」

 鬼無里は、テーブルの上にあるものを見た。泡状の塊だ。実験用に持ち込まれたケモノの卵である。それが、ぴくりと跳ねた。彼女は笑った。

 そうだ。最初からどうしようもなかったのだ。何故なら、鬼無里はメフに来る前から扶桑熱に罹っていたのだから。



「こっ、殺せー! 殺してくれーっ」

 研究者が叫んでいた。ケモノの駆除に反対していたものだ。彼は今、カエル型のケモノの腕の中にいた。上からは粘液やら唾液やらが滴ってびしょびしょになっている。喰われるまで五秒前といった状態であった。

「誰かっ、こいつら全部ぶっ殺してくれ!」

「うるせーボケ!」

「どうなってんだよっ」

 魔区の森の混沌は極まりつつあった。狩人と研究者がやり合っていた中、突如としてカエルのケモノが溢れかえったのである。騒ぎに便乗するかの如く裂け目から姿を覗かせたものもいたが、ケモノの大半は地上から現れた。

 孵化したのだ。

 その場にいたものからすればケモノが降って湧いたようにしか思えなかった。しかもケモノは大きかった。卵から孵ったばかりとは考えられないほどだ。ケモノは生まれた瞬間から動くものを襲い、俊敏に動く。

 理屈が合わなかった。小さな卵にこのような大きなケモノが潜んでいたということだ。いくらケモノとはいえ自然の摂理、その規を違えることなどありえない。

 この場には一人の女がいた。彼女はもう、見知ったものにその姿を見せないだろう。当人すら自らの異能により、その姿を変えてしまったのだ。

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