夢浮橋
「こないだコンビニの前でさ、座り込んでるヤンキーの子がいたんだよ」
「可愛かったか?」
「クソブスなんだけどパンツ見えちまった。なんか毛糸の感じの……」
「そういう時は頭ん中でコラ画像作るんだよ」
「姐御、そのなんか美味そうなやつくださいよ」
「嫌や」
「さっき委員長にはなんかあげてたじゃないすか!」
「委員長はちっこいからええんや! いっぱい食べなあかんねん!」
「ちっこいとか言わないでよ!」
蘇幌学園の二年一組は今日も騒がしかった。特に昼休みの教室はうるさくて、通りがかったものが顔をしかめるほどだった。
幸はもしゃりもしゃりと弁当を平らげて、田中小たちとカードゲームに興じていた。
「お前狩人になったの?」
田中小は自分の手札を見ながら言った。
「まだ見習いだよ」
「へー。俺よく分かんねーけど、なんでなろうとしたん?」
「ぼくもよく分かんない」
幸ははにかんだ。
「やっぱそういうもんかー。俺らもいかるが堂でバイトやり始めたけど、やってみると意外とできるもんなんだよな。だからわっかんねーもんだよなあ。あと鵤さん店じゃおっかねえ」
「逆らったら時給減るからね」
「マジかよ……」
学校が終わると、幸はその足で拾区へ向かった。バスに乗り、バスを降り、田舎道を歩く。少し曇っているが風が涼しくて彼にはちょうどよかった。神社の山門近くまで来ると駐車場からのっそり歩いてくる背の高い男が見えた。古川である。彼は幸を見つけると小さく頭を下げた。
「素材、買い取ってもらってたんですか?」
「ええ、そんなところで。八街さんは神社に行くんですかい」
「そんなところです」
古川は幸に小さな革袋を渡した。
「八街さんには稼がせてもらいましたからね。おすそ分けってやつです。売ってもいいし、がらがら通りでどっかの店に武器を頼むのもいいと思いますよ」
「素材を武器に混ぜるとか聞きましたけど」
「おれの着ているコートもそうすよ。あるケモノの皮でできてて、普通のより随分頑丈で、並の刃物も防いじまう。鋸にも大空洞で捕まえたケモノのね、かてえところを織り込んでますよ」
「違いとかあるんでしょうか」
「まあ、まじないみたいなもんかもしれやせんが、生き残られる可能性は少しでも高めておくに越したことはないですよ」
革袋の中身は狒々色の体毛や爪であった。他にもゼリー状の塊が見えていて、幸は少し引いた。
「ありがとうございます」
「あぁ、そうそう。おれぁ神社から出て行きますよ」
「追い出されたんですか?」
古川は苦笑を浮かべる。
「仕事が片付きましたからね。あの後、おれに仕事を頼んでた連中と話しましたよ」
「東屋さんのことですね」
「ええ。山で起きたこともだいたいは。篝火は見つかりませんでしたが依頼人はそれでいいそうです。別に、仇を討ってくれたあ言われてませんでしたし。そもそも、篝火がいねえんじゃあどうしようもないですからね」
「そう、ですね」
「気に病むこたあありませんよ。遅かれ早かれあのアマァああなった。ああいう手合いは周りのやつを巻き込んで破滅しますよ。……まあ、おれらが正しい行いをしたかどうかは知りやせんがね」
それは幸もよく分かっていた。
「気にしても仕方ねえや。前に言ったじゃねえですか。生きてるやつが正しいって。そんじゃ、狭い町でお互い狩人やってるんだ。またどっかで会うでしょうよ。そん時はそん時でまたよろしくお願いしますよ。八街さん、あんたからは金のニオイがするんで」
「どんな臭いですか、それ」
「厄介ごと招いちまう感じですかね」
古川は笑った。最後の最後まで、幸はその顔に慣れなかった。
幸は古川からもらった素材を持って斧磨鍛冶店を訪れた。頼んでいた品もじきに完成すると聞いたので、その進捗を確かめに来たのだ。
「おお、いらっしゃい」
店の親方は朗らかな笑顔で幸を迎え入れた。商売スマイルも板についてきたようである。
「たかちゃんいますか」
「いますよ。今呼ぶんでちっと待っててください」
親方は深呼吸し、大声で鷹羽を呼びつけた。
「うるせえええよじいちゃん!」
「親方って呼べって言ってんだろ。ほら、お前のお客さんだぜ」
奥から顔を覗かせた鷹羽は幸を認めるやにんまりとした笑みを浮かべた。
「よーう、へなちょこ。分かってんぜ、お前の鉈だろ?」
鷹羽はバンダナを外してぶるぶると頭を振った。髪の毛から汗が弾けて飛んだ。
「まだ見せねえけどな」
「ええ、どうして」
「サプライズ、サプライズ。それに今見せてガタガタ細かいこと言われてもムカつくしな。もう後戻りできねえんだし」
「そうなの? これ、使ってもらおうと思ったのに」
幸は狒々色の素材を見せた。鷹羽はそれを怪訝そうに見遣り、唇を尖らせる。
「よせよせ、素人がケモノまじりの得物なんてよ」
「へっへ、お客さん。どっちにしろそこの見習い娘じゃあ無理ですよ。ケモノの素材を混ぜるにはちいとばかり腕が要るもんで。おたかじゃあまだできねえってもんです」
「うるっせえな、素人に変な癖つけさせてもダメだって親方も言ってたじゃねえか。とにかくよ、そんなもん売り払うなりなんなりしとけよ」
それも何だか勿体ない気がして、幸はひとまず素材を懐に戻すのだった。
「できたら連絡してやっからよ。今日のとこはもう帰んな」
「来たばっかりなのに」
「遊びに来てるつもりかよ」
「おたか、お客さんを外まで見送ってやんな」
「はあ!?」
親方は無言で鷹羽を睨んだ。彼女は幸の背を押して店の外へ出る。風が吹き、二人は猫のように目を細めた。
「あー、すずし。そんじゃな、せーぜー気ぃつけて帰れよ」
「うん。あ、そういえばこないだはお兄さんの鉈、貸してくれてありがとう」
「おお、いいっていいって。別に……アタシ、あれが兄貴のやつだって言ったっけ?」
幸は首を振った。
「ごめん。ぼくの異能で、そういうのがちょっと見えるんだ」
「……そっか。まあ、よく分かんねえけど見えちまったんならしようがねえよ。隠す理由もねえしな。ああ。ありゃあ確かに兄貴の使ってたもんだ」
合点がいった。鷹羽は兄のことが大好きで、彼の使っていたものも大切にしたいのだろう。それを他人に触れられるのが我慢ならないに違いない。
「お兄さんのことが好きなんだね」
鷹羽はシニカルな笑みを見せた。ちょっと似合っていなかった。
「全然。むしろ嫌いだよ。とっくに死んじまってるだろうけど、死んじまえばいいんだあんなやつ」
「そうなの? でも、もしかしたらだけど生きてるかもしれないよ」
「は?」
幸は店の中を指差す。
「お兄さんって花粉症だった?」
「ああ、そうだけど、それがなんだってんだよ」
「あの鉈って普通のじゃない感じがして。もしかして、あれもお兄さんの異能でできてないかな」
鷹羽は腕を組み、あーだとかうーだとか唸ってその場にしゃがみ込む。幸は彼女の胸の谷間から目を逸らした。
「兄貴は鶴って呼ばれてた。仕事するところを人に見せねえからさ。鶴の恩返しってあんだろ? 親方が茶化してそう呼んでたんだ。で。兄貴はさ、同じものを毎度毎度二本作るんだ。絶対に。それも寸分違わず同じものを」
「二本作るのはおかしいことなの?」
「いや、そんなことねえけど……でも、親方とかは兄貴の腕前を認めてた。がらがら通りじゃ一等すげえ鍛冶師だってな。お前に貸した鉈だって兄貴が打ったんだ。それが花粉症に頼ったもんだってのは、認めたくねえけどな」
あの鉈を握った時の感触を思い出し、幸は身震いした。あれから伝わり、流れてきた使い手の経験は並のものではなかった。
「で、それがどうしたってんだよ」
鷹羽はヤンキー座りで幸をねめつけた。
「うん。もしもだよ。お兄さんが花粉症の力であの鉈を打ってたとしたら、同じのがもう一本あるんじゃないかなって。そいで、ぼくが借りたのは……その、偽物っていうか、本当のものじゃないような気がして」
「あぁ!? ええと、なんだ、それってどういうこと?」
「あの鉈が本物じゃなくって異能によるものだとしたら、お兄さんの異能はまだ残ってる。生きてるってことになるんじゃないかって思ったんだよ。その、ぼくもそういうのが正しいとか、合ってるかは分からないんだけど、花粉症の人が死んじゃったりしたら、その人の花粉症もなくなるんだ」
少なくとも幸の知る限りはそうだった。骨抜きや水原深咲の異能は、彼らが亡くなって消えたのだ。
「……あの鉈が花粉症の力使ってたんなら。そいつが残ってるから兄貴は生きてるかもってことか」
「ごめん。変に期待持たせるようなこと言って」
「べっつに。兄貴が生きてても死んでてもアタシにゃあ関係ねえよ。勝手に出て行ったやつのこと気にしてもしようがねえし」
「お兄さん、狩人だったんだよね」
鷹羽はつまらなそうに頷く。
「店飛び出してよ。《百鬼夜行》って猟団に行ったんだ。そんで《百鬼夜行》のやつらが大空洞から帰らなくなって、兄貴もそれきりだ」
「百鬼夜行? お兄さん、そこにいたの?」
「ああ、そうだけど……」
鷹羽は立ち上がり、頭をがりがりと掻き毟って顔を背けた。
「話してるとムカついてきたからもう終わりな。アタシが考えたり、やらなきゃいけねえのは兄貴のことがどうこうじゃねえ。お前の鉈を全身全霊で打つことだ」
百鬼夜行のことなら興味があったが、無理に聞き出すものでもない。これ以上言えば鷹羽の機嫌が悪くなるのは火を見るより明らかだった。
「何度も言うけど、アタシは狩人が嫌いだ。いいか、よっく覚えとけよ」
捨て台詞じみたことを言って、鷹羽は店の中に戻っていく。
幸は知らなかった。鷹羽は狩人が嫌いなのではなく、帰ってこないやつが嫌いなのだ。心配で泣きそうになるから嫌いなのだ。ただ、彼は鷹羽の不器用な優しさを何となく分かっていた。
幸は九頭竜神社の境内にいた。神社の様子を見に来るためだった。彼は、狒々色が暴れて死に、篝火が山へ姿を消してからはここを訪れていなかった。石畳は所々が抉れていて、社務所にもブルーシートがかかっているが、静かだ。ここにいると心が凪ぐ。
「…………えっ、うわ」
ぼうっとしていると、すぐ傍に織星が立っていた。気配も足音もなかったので幸は全く気づけなかった。
「あ、こんにちは」
織星は幸をじっと見つめて、社務所をちらりと見た。
「初音さんが呼んでますから、どうぞさっさと行ってください」
「え?」
初音と言えば十帖機関に属する双子の片割れである。幸とは顔見知りだがこれといった接点はなく、どうして彼女に呼ばれたのか彼は不思議に思った。織星に訳を聞きたかったが、彼女は要件だけ伝えるとさっさとどこかへ行ってしまった。
仕方なく社務所へ行くと、玄関の近くには別の巫女がおり、幸を奥まった場所へ通した。中は既に修繕が済んでいるのか、ケモノが暴れた痕跡は見当たらなかった。
幸が通されたのは和室である。襖を指し示すと、彼をここまで連れてきた巫女は立ち去ってしまった。幸は襖の向こうにいるであろう人に向けて話しかけた。
「あの。八街です。初音さんに呼ばれて……」
「あー、さっちー? 入って入ってー」
初音の声だ。幸は少し安堵し、襖を開けた。
狭い部屋だった。少し埃っぽく、元は物置だったのかもしれない。その部屋の真ん中あたりに置いた文机の傍に座り、煙管を吹かしているのは初音だ。雨戸の近くには布団が敷かれ、そこには見覚えのある老婆が寝息を立てていた。
初音は煙管の灰を落として幸に笑いかけた。彼女の雰囲気が違うことを訝しみながらも、彼は初音の対面に腰を落ち着かせた。
「悪いね、ババアの部屋で。でも他に御客を通せる場所がなくってね。外面だけはよくしたけど、部屋がいくつかダメになっちまってさ」
「あ、いえ、別に……」
目の前の少女はこんな風に話していただろうか。幸は記憶と一致しないことにストレスを感じ始めていた。そのことを察したか、初音はかかかと笑声を放った。
「ま、ちゃんと話すから安心おし」
初音は居住まいを正し、幸をじっと見る。そうして頭を下げた。
「色々とすまなかったね。
幸は納得した。初音も天満のご神託のことを知っていたのだ。知っていて放っておいたのだ。
「いや、それは。ぼくも、好きでやったことですから」
「そうかい? まあ、どうしてもあの子にゃあ甘くなっちまう。ほら、そこで寝てるババアだってそうだよ。うちの子たちに甘ったるいから、よそさまに迷惑かけちまった」
「ババアって」
「ええ? ババアでいいんだよ、ババアで。だってババアなんだからさ」
初音は豪快に笑った。
「私もババアさ。玉のやつは逝っちまったから、豊玉をババア呼ばわりできるのも私だけになっちまったね」
「え?」
「こんなナリしてるけど、私はれっきとしたババアだよ。若いのは見た目だけ。ずっとこのままで止めてるからね」
異能だよ。初音はそう言った。
「そこで寝てるババアが若返ったのはあんたも見ただろ。こいつの力は自分だけじゃないんだ。他人の体だって弄れちまうのさ。それで私も玉も、こんなナリまで戻ってるってわけさ。ババアの力についちゃあ天満にも言ってないことだがね」
「そう、だったんですか。でも、どうしてまたそんなことを」
「不老不死は誰だって一度は望むことだろうよ。とはいえ、そんな都合のいいもんはありゃしないがね。……私らがこうなったのは天満のためだよ。あの子の親はメフの外だ。めったに帰ってこない。だから天満が寂しがるんじゃないかって豊玉のババアに口説かれてね、親がいないんならせめて歳の近い友達をって話さ」
それだけで。それだけの理由でそんな姿になったのか。幸はそう言おうとしたが口をつぐんだ。初音は煙管を弄びながら話を続ける。
「最初は断ったけど、まあ、豊玉にも世話になってたしねえ。さっちー。あんたは知らないだろうけど、メフも私らが生まれた頃にゃあ酷い街でね。扶桑が生えてすぐはよそから警察も自衛隊も来られなかったから、治安なんてもんはどこにもなかったよ。女だからどうこうってわけじゃなかったけど、困ってた私らを豊玉たちが匿ってくれてね。生活の面倒まで看てくれたよ。ただ、肝心の神社は地の底だ。どうにか建て直してやりたかったが、そん時売れるもんつったら他になくってね」
幸は息を呑んだ。
「今じゃそんなもんやってないけど、春をひさいでどうにかやってた。そんでまあ、落ち着いたら神社もここに建て直せたんだけど、私も玉もそっからずーっと居着いちまった。ここを頼ってくる子たちも後を絶たなかったからね。先輩として世話してやらなきゃって。気づきゃあ十帖機関なんて大所帯になってたよ。だから、借りがあるのさ。でけえ借りがね」
「そのこと、豊玉さん……天満ちゃんは知ってるんですか」
「知らないよ。知ってるやつは墓まで持ってってくたばるつもりだ。玉みたいにね」
「どうして、ぼくにそのことを話してくれたんですか」
初音は煙管を置き、眠り続ける天満の祖母を見た。先までの口ぶりとは違って優しげな目つきであった。
「どんな子でも、やっぱりここに来たやつは可愛くってねえ。私らはただ甘やかしちまう。それじゃあよくないってのは分かってたけど、篝火の件で身に染みた。老いぼれが若いのを囲ってるだけじゃあダメなのかもってね。さっちー。不老不死なんてもんはあったとしてもろくなもんじゃないよ。どうしたって人は死ぬのさ。その時どんな姿でいたって、笑ってたって泣いてたって死ぬときは死ぬ。それが天寿ってやつで、人間である以上はどうしたって逃げられない定めだよ」
「初音さんも、ずっとそのままでいられないんですか」
「どうだろうね。でも、分かる。私だけじゃないよ。誰だってそうさ。確実に死に向かって自分の中の時間が進んでるんだってね。豊玉もね、前までは三日寝て、三日起きるような生活をしてたが、今じゃ四日も五日も眠ってる時がある。そのまま、もう二度と目が覚めないんじゃないかって思うよ」
幸は、鷹羽に言ったことを思い出した。花粉症を使ったものが死ねば、その力もこの世から消えるかもしれない。初音は何となくそのことを分かっているようだった。
「別に、天満をよろしく頼むってわけじゃないんだ。ただ、あの子と仲良くしてやって欲しい。私らが死んでも、あの子を気にかけてくれる人がいる。それが分かってりゃあ、ちったあマシな気持ちであの世に逝けるからね」
冗談めかして言ったが、初音の目には真剣さが宿っていた。幸は小さく頷いた。
「また来ます。初音さんにも会いに来ます」
「かっか、そうかい。そいつは嬉しいね。いくつになっても男にそんなことを言ってもらえるのはさ」
話したかったことは話したらしく、初音は幸に甘いものやお茶を勧めた。
「そういえば、どうしてここの人は月輪さんと仲が悪いというか、なんか、仲間外れにしてるっていうか……」
「あぁ、あの子か。いや、そういうわけじゃないと思うんだけどね。でも、私もあの子は苦手だよ」
「どうして?」
「さっちーはお天道様をずーっと見てると目が痛くならないかい。織星も同じだよ。みーんな、眩し過ぎてあの子を見るのが辛いのさ」
幸は小首を傾げた。
「織星はね、メフに来るときにごたごたがあったらしくって、外にいた人とまともに挨拶もできなかったんだ。何も言えないまんま、何一つ分かってもらえないままね。ここに来る子は、普通は事情があって名前を隠すんだよ。自分の正体がばれたくないからね。でも織星は違う。あの子はね、見つけて欲しいのさ」
「家族とか、友達とかに、ですか」
「ああ、そうだね。それでいつか帰りたいって思ってるのかもしれない。だからあの子は何も隠さないし、騙らない。私はここにいるって叫び続けてる。他の子からすりゃ、そういうのは羨ましかったりするんだろうね」
「初音さんもそうなんですか?」
「いいや? 私はあの子が口うるさいから苦手なんだよ。やれ夜は早く寝ろだとか、やれ声が小さいだとか言うからね。まあ、さっちーは大丈夫そうだね。そのまま気にかけてやって、話し相手にでもなっておくれ」
「向こうはぼくを嫌ってるみたいですけど」
「かっかっか」
笑って誤魔化された。
「ああ、長いこと話しちまった。ババアに付き合わせて悪いね。ああ、それから、そこのババアが言ってたよ。『あの子に悪いことをした』って。今度会ったら謝っといてくれ」
「あの子? 天満ちゃん?」
「いや、あんたと一緒にいた子だと思うけど。まあ、話ついでに言っただけだよ。それに豊玉もだいぶボケてきたからね。戯言だよ。気にしないでいいからね」
引っかかりながらも、幸は部屋を辞した。
十帖機関は現状維持だがメンバーは減少した。神社は少し活気を失ったそうだが、新たな狩人や巫女候補が来ることになっている。いずれ元に戻るのかもしれない。幸は初音から聞いた話を反芻していた。先の部屋を出ると、曲がり角から小さな頭が見え隠れしているのが分かった。
「豊玉さん」
呼びかけると、天満がぬっと姿を見せた。
「あはは、なんか妖怪みたい」
「失礼だよ」
天満は幸に駆け寄って服の袖をぐいぐいと引っ張る。
「お話は終わり? 帰るんなら外まで送ってあげる」
「いいの?」
「うん」
幸は天満に合わせてゆっくりと歩く。彼女は何度も幸を盗み見ていた。
「今日はいつもより元気がないんだね」
「……あのね。そうかも」
「そっか」
玄関に着いても天満は何も話さなかった。幸は靴を履き替えながら、気になっていたことを口にする。
「ご神託で自分の異能を試してたんだね」
幸はずっと天満の異能を《花盗人》で見ようとしていた。だが、一度だって上手くいかなかった。その原因は彼女が心を開いていなかったからだと推測している。天満はほとんど幸と一緒にいたが、一度だって彼に心を許すことはなかったのだ。
「モルモットみたいなことさせちゃった。ごめんね」
「ううん、いいよ」
今は見える。見えている。幸はそのことが少し嬉しかった。
「私ね。おばあちゃんが嫌い。でも、私の花粉症でおばあちゃんが少しでも助かるなら、そうしたいって思ってる。今の私じゃあ何もできないけど」
「もしかしてさ、豊玉さんとおばあちゃんの異能って同じだったりする?」
「同じ……わかんないけど、似てると思う」
幸は、二人の異能は同種に近いと考えていた。初音もそう考えているから天満に何も言わないのだろう。似通った力は豊玉の血によるものかもしれなかったが、それを探るのは天満のやるべきことだ。だから彼はそれ以上は言わなかった。
「それじゃあ、ぼくは行くね」
「やちまたくん」
幸は振り返る。天満は泣きそうな顔でこちらを見上げていた。初めて見る彼女の表情だった。
「やちまたくんもいなくなる? ねえ。また遊びにおいでよ。ずっと一緒にいようよ」
『さち兄はさ、ずっと私と一緒にいるんだよね』
『心配しなくてもいいよ。お母さんにもあんたがさち兄を守るんだよって言われてたし、私のがでかいからね。あはは、怒んないでよ。ちっちゃいのはしようがないじゃん』
『さち兄は私との約束守れるよね? どこにも行かないよね? 言ってよ。言えって。そう言ってくれるんなら、私、どんなことでもするからさ』
『全部敵に回したって、私がどうにでもするからさ』
幸の脳裏を妹の声が、顔が、彼女の何もかもが過ぎった。
ごめん。
ごめんなさい。
幸は、終ぞ守れなかった妹との約束を思い出して、泣いていた。堪えようとする間もなかった。天満は彼の頬に手を伸ばして、異能を使おうとしていた。
「いいよ、戻さなくって」
幸は天満の手をそっと取って、軽く握った。微笑もうとしたが、上手くいかなくてくしゃくしゃになった。
「泣いてるの? 笑ってるの?」
「分かんないや」
「ねえ。やちまたくんもいなくなっちゃうのかな」
「分かんない」
狩人になろうと決めたのだ。ケモノと戦い、強くなろうと決めた。だから、狒々色に殺されたものたちのように、いつか自分も死ぬのだと腹を決めていた。
約束なんてものは自分にとって等しく意味がなく、価値がない。それでも確かなことはある。
「分かんないよ。でも、今日はここに来たんだ。だから明日も、明後日も、ぼくはここに来ると思う」
「本当?」
「うん。たぶん、ぼくが狩人じゃなくなっても、花粉症じゃなくなっても、豊玉さんに会いに行くよ」
天満は両手でピースサインを作った。満面の笑みであった。
「じゃあ私が約束する。やちまたくんが山に行ったらね、そいで帰ってきたら、私が最初にやちまたくんにお帰りって言うの。いいでしょ?」
「じゃあぼくは行ってきますって言うよ」
「やだ。なんか夫婦みたいだね」
「いや、全然違うと思うよ」
「えー、なんでそんなこと言うの?」
何だか無性におかしくて、通りがかった巫女に不思議がられるほど二人は笑い合った。
石畳の上を歩き、鳥居の端っこを潜り、石段を下る。その途中で幸は、待ち構えていたであろう織星に呼び止められた。彼女は幸を無言で見下ろし続ける。
「あの。用がないなら、ぼくはもう行きますね」
「人殺し」
幸の肩がびくりと跳ねた。
「……あなたたちが引っ掻き回さなければ篝火さんはまだここにいました。生きていました。言いましたよね。詮索しないでって。確かに篝火さんは、その、よくないことをしていたかもしれません。でも、だからってあの人に何をしてもよかったってわけじゃない。あの人を追い詰めて追い込んでああさせた。だからあなただって人殺しなんです」
織星は続けた。
「私も、きっとそうです。篝火さんに何もしてあげられなかったし、止められなかった。何も知らなかったなんて言い訳ですし、そもそも、どうでもいいとさえ思ってました」
幸は気づいた。織星は自分のことを話している。話を聞いて欲しいだけなのだと。
「私にも篝火さんにもあなたにも他の人とは違う力があります。生きてくためには仕方がないのかもしれません。でも、ですけど、何を使ってもいいけど、何をしてもいいってことじゃないと思います。違いますか? 私、間違ったこと言ってますか」
「分かんないです」
今日は分からないことばかりだ。幸は疲れていた。
「そうですか」
織星は肩を回した。ごきごきという音がして幸はびっくりする。
「私もです。でもちょっとすっきりしました。やっぱり人と話すのはいいことですね」
「一方的にまくし立てられた感じです」
「ふふ、ごめんなさい。ちょっと嬉しくて。君はもうここに来ないと思ってたから」
「なんでですか」
「だって嫌なことがあったし、嫌な人と会ったじゃないですか。嫌なところには近づかないのが普通です」
ケモノが暴れて人は死に、幸は巫女たちから散々嫌われた。それでも彼は彼女たちを、神社を嫌いにはならなかった。それだけの話である。幸がそう言うと、織星は変な子と笑った。
「また来ます。あ、そうだ。今度弓を教えてくださいよ」
織星は露骨に嫌そうな顔になる。
「どうしてまた、わざわざ私なんかに。下手くそに習ったら下手くそになりますよ」
「でも強かったし、かっこよかったから」
彼女が下手くそなのは幸も薄々勘づいていた。しかし彼にとって弓とはケモノを狩るためのものだ。美しさはまた別の問題である。要するに撃って当たればそれでいい。
「考えておきます。ああ、その時は君も巫女の服を着てくださいね」
「え?」
「決まりですから。それに似合いそうだなあって」
「酷いなあ。酷いことを言うんだから、もう」
「考えなしー、ばか、無鉄砲、泣き虫ー、おーい、早く起きなよ、さち君」
部屋の外から聞こえてくる声で目を覚ました幸は瞼を擦った。何だか今色々な悪口を言われたような気がしたが、彼は気のせいだと思うことにした。
「今日山に行くんでしょ? 開けるよ?」
幸はベッドの上で上半身だけを起こしていた。むつみはぎょっとしていた。
「何、起きてんなら返事くらいしなよ。無駄に大きい声出しちゃったじゃない」
「おはようございます」
「うん、おはよう」
むつみは壁にもたれかかってあくびをした。
「ごはん食べたい?」
「食べたい」
「じゃ、作るから顔でも洗っときなよね」
「叔母さん」
「はいはい」
「……何でもないです」
むつみは眉根を寄せた。
「訳分かんないことを。早く目ぇ覚ましなよ。そんで今日も気ぃつけて帰ってきな」
「はい、分かってます」
朝起きて、夜眠る。当たり前のことをしているだけで人には様々なものがのしかかり、まとわりついてくる。出会いとか、別れとか。身についたものは歩いているだけで勝手に剥がれ落ちて、体は少しずつ軽くなっていく。やがて最後には枯れ木のようになって死ぬのかもしれない。それでも幸は新しいものを得た。『摂州鷹羽』。斧磨鷹羽が親方にからかわれながら彫った銘だ。それを今日、彼は山へ初めて持っていく。
幸はぼんやりと窓の外を見た。どこから見ても空は同じだ。この景色をこの街で同じように見ている人がいる。守れなかった約束はあるが、帰る場所は一つきりでなくてもいい。自分には帰りたいと思うところがたくさんある。ならばそれでいい。彼はゆっくりとベッドから降りた。立っている場所をしっかりと確認して、狂い咲く扶桑のように根を張るのだ。
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