日限、プライドを犬に食わせる
喫茶店を明け渡せ。
ロシアの研究者、オリガ・イリイーニチナ・シュシュノワはそう言った。その条件を飲めば自分たちの調査チームに加え入れてやろう、と。
日限は悩んだ。大いに悩んだ。色々なものを秤にかけた。その結果、彼はプライドを犬に食わせた。日限にとってプライドというものは、これまでの経験や実績に裏打ちされ、磨き上げられてできるものである。しかしメフに来て見聞きしたものは今までの人生経験には存在しないものであり、異能をぶっ放す花粉症患者やケモノが徘徊する大空洞の前では後生大事にしてきたプライドなど何の意味もなかった。
うわあ、と。幸は言った。
魔区の喫茶店こと喫茶タミィは一晩にしてオリガたち研究チームのラボと化していた。余計なものは隅に追いやられて、彼にはよく分からない機器が鎮座ましまし、床は植物の蔦の如く這うケーブル類で敷き詰められている。おしゃれなアシッドジャズも、白衣の研究者たちが大空洞から持ってきたであろう土やら草やらを囲んで話し合う声と、謎の機器類から発せられるぶおんぶおんという音で聞こえない。調査に不必要なものは影も形もなく、唯一コーヒーメーカーだけがカウンターの上、申し訳程度に置かれていた。
日限は、変わってしまった喫茶店の隅の椅子に座っていた。幸の存在に気がつくと、彼は苦笑いを浮かべた。
「仕方あるまい。あの後確かめてみたが、もうよその調査チームも、狩人たちも、私と君を受け入れない体制を整えていたよ。根回しだ。オリガとかいう女が裏で手を回していたらしい」
「じゃあ、ぼくらはあの人たちと手を組むしかなかったんですね」
「そのようだ。だが、いい。私は静かな喫茶店や、気の置けない仲間が欲しかったわけではないからな」
確かにそうだ。欲しいもの、やるべきことの順序は必要だ。幸は同意した。
「君もそうだろう。君は大空洞に行きたいと言ったな。そこに何がある」
「分かりません。分からないけど、行かなきゃいけない気がして」
「大空洞にかね?」
幸は頷く。
「もっと奥へ。もっと深いところまでって。呼ばれているような気がするんです」
「呼ばれて、か。ふん、そうか」
日限は腕を組み、鼻を鳴らした。それきり口を利かなかった。幸が、裂け目に行きますよと古川に声をかけられるのは、もうすぐのことであった。
斧磨鍛冶店で自分の鉈を受け取り、古川らにアドバイスを受けてナップザックに必要なものを詰め込んだ。焦りはない。恐れはない。心は不思議と凪いでいる。
「緊張はしてねえみたいですね」
幸の隣を歩く古川は大きなあくびをしていた。
「みたいです」
「はっは、そりゃいい。ところで八街さん、
「それがまだで……たかちゃん、じゃなくって、斧磨さんのところで預かってもらってます」
「ちゃんと冷やしてますかね。この時期はすーぐに腐っちまうから」
「たぶん、大丈夫だと思います……たぶん」
そこは斧磨たちを信じるほかなかった。
古川は神社で起きたことを思い出したのか、少し楽しげに話しだした。
「しかし、おれぁもうあの神社にゃあ行けねえな。山は当分出禁ですよ」
「ぼくはちょくちょく神社に行ってますよ」
目を丸くさせると、古川は信じらんねえと独り言ちた。
「おれぁ、あの巫女のお嬢さんたちの視線に耐えられねえですよ」
「古川さんは意外と人の目を気にするんですね」
「意外ってななんですか。そりゃあ狩人なんてけったいなもんやってんですから、多少なりともよそ様を気にしなくっちゃあいけねえでしょう。それより見えやすか」
古川は裂け目を指差した。
玖区の裂け目からは扶桑のものらしき巨大な根っこが地表にまで伸びている。まるで地上の光を目指しているかのようだ。根と根は絡み合い、太くなり、足場にもなっている。
「ま、大丈夫たあ思いますが、気ぃつけてくださいよ」
狩人がオリガの調査チームの研究者、学者たちの前に立ち、裂け目の中へ。幸と古川は最後尾で安全の確保に努めることになっていた。
いよいよか。口中で呟く。幸は裂け目に足を踏み入れて、拍子抜けした。
空洞内は彼が想像していたより明るかった。ケーブルに繋がれたライトや、そこここに取り付けられた投光器によって深夜の工事現場よろしく煌々と照らされていたからだ。玖区の大空洞は東山ン本のそれより木々や根っこが多く見えて鬱蒼としている。しかし先行したものの話し声や、誰かが持ち込んだであろうスピーカーから女性ボーカルの曲が聞こえてきて騒々しかった。
「……まあ、明るい方が色々と見えやすからね」
「まあ、そうですよね」
中に潜んでいたケモノは初日に先行した狩人が片づけており、ある程度の深さまでは足場も確保できている。玖区大空洞の底は定かではないが、東山ン本よりもはるかに規模は小さいと目されていた。
少し進んだところで幸は土壁に触れた。ひんやりとしていた。空気が地上とは違う。匂いもだ。濃い(・・)。たぶんここにはまだ何かいる。生命力に満ちている。彼はそう判断していた。
皆の足場代わりの根は曲がりくねっている。蔦などを手すりにしつつ、学者たちはおっかなびっくり歩く。時には腰をかがめ、這いつくばるようにしながら障害物を避けて、少しずつ降りていく。やがて開けた場所に出た。
「……?」
足元の感触が変わる。幸は不思議に思って立ち止まった。横倒しになったビルが見えて、彼は僅かに驚いた。自分たちは今、倒れて、大空洞にめり込んだような状態のビルの上を歩いているのだ。
「こういうのを見んのは初めてですか。なに。東山ン本の《旧市街》と一緒ですよ。メフの地下にゃあ昔の街並みが埋もれてる。最初の大崩落が、人も建物も何もかんも呑み込んじまったんでさ」
「崩れないんですか、ここ」
「そいつは分かりませんね」
幸は周りを見渡す。命綱をつけているものがいた。規模が小さいとはいえここも大空洞の一部である。危険なことに変わりはない。彼はそのことを改めて認識した。もっと先へ。もっと奥へ。気を引き締めねばならない。そのように考えていると、調査チームから撤収という声がかかった。
「まだ、来たばかりな気がするんですけど」
古川は肩をすくめる。
「学者先生は呑気なもんでして。一々一つのものに引っかかって止まっちまう。まあ、調査に来たってんなら仕方ねえことですがね」
「で、でも、他の人たちは先へ進んでるんじゃ……」
「そりゃあチームによりけりってやつで。それに」
古川は自分たちが立っているビルに目線をやった。倒れたそれは足場でもあり障害物でもあった。ここから先はいつ崩れるかもしれない建物の中を進む必要がある。狭く、暗い道だ。まだ一部の調査チームしか足を踏み入れていない。
「こええんでしょうよ、やっぱり」
「怖いのは当たり前だと思いますけど」
「はっは。当たり前ですがね、そいつをそうだと受け止めるのはまた難しいもんでね」
結局、オリガの調査チームは大空洞の浅い階層までしか潜らずに地上へと戻った。
むつみは机上に広げられたボードゲームをじっと眺めていた。腕を組み、親の仇を見るように。幸が見かける、よくある朝の風景の一つだ。彼は起き抜けに冷蔵庫を開けてパックの牛乳に手を伸ばそうとしていた。
「少年。何か私に隠してるでしょう」
幸は固まった。
「牛乳、そろそろ切れちゃいますよ」
「冷蔵庫、早く閉めなよ」
牛乳を取り、言われたとおりに冷蔵庫を閉めると、幸はむつみに背を向けた。彼はグラスに牛乳を注ぎ、あくびの振りをする。
「別にそんなの、ないですけど」
「ふうん」むつみはボードゲームの駒をつまむと、それを勢いよくボード上に置いた。叩きつけるように強く。
「ないんだ」
幸は頷きかけたが、ふと思い直してむつみを見た。
「大空洞はさ、大きいとか、小さいとかあるけどね、危ないことに変わりはないの。知ってるかい。扶桑の根っこはメフに張り巡らされてる。隅から隅まで。人の血管みたいにね。市役所も同じ。メフの全部を見張ってる」
「そうなんですか」
幸は牛乳を飲んだ。起き抜けの苦い唾と共にそれを飲み下す。
「よからぬことをしているでしょう。市役所のやつが君のことを裂け目んとこで見かけたってさ」
「よからぬことじゃあないですもん」
「『もん』て。……保護者に黙って大空洞に行くのはよからぬことじゃないんだ?」
むつみがそう言うと被保護者は黙った。彼女は試すような、意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「何か私に隠してたでしょう」
「言おうと思ってたんです。でも、言ったら反対されると思って」
「しないよ。私は君のお母さんと違うからね」
「ごめんなさい。あの、玖区の裂け目を調査する人たちの手伝いをしてます」
「どうやって潜り込んだの?」
潜り込んだという言い方が気になった幸だが、日限やオリガのこと、古川のことを説明した。
「知り合いが増えたもんだね。まったく、古海は何をやってんだか」
「裂け目でぼくを見たのは古海さんじゃないんですか」
「うん。別に誰も見てないんじゃないかな」
「え?」
「だから、誰も君のことを玖区で見てないんじゃない?」
むつみはしれっとした顔でボードゲームの駒を指で弄んでいた。幸はハッとした。
「騙しましたね」
「まあね。だって私、裂け目とは言ったけど、どこのとは言ってなかったし。何だか君は目ざといから、そういうのは知ってそうだと思って。これでおあいこだね」
むつみは得意そうに笑った。
「ふふん、君はボードゲームより簡単なやつだね」
幸は何も言い返せなかった。
ともあれ
その日々の中、幸は少しずつ調査チームの面々と打ち解けていった。
「八街さん。コーヒーはいかがですか」
すっかり調査チームの拠点と化した喫茶店のカウンターでは、大柄な老人、アレクセイ・イリイチ・シュシュノーフがその辣腕を振るっていた。アレクセイは何でもできた。こと料理に関しては本職も裸足で逃げ出すであろう腕前であった。彼はオーバーオールを着こそすれ、幸の目には本物の喫茶店のマスターに見えた。
「いただきます」
幸が言うと、アレクセイは控えめな笑みを見せた。
「砂糖は二つでしたね。それから、ミルクはたっぷりと」
「お願いします」
アレクセイはオリガの助手だったが雑事を引き受けることが多かった。喫茶店でコーヒーを淹れたり、サンドイッチを作るのも好きでやっていることらしかった。幸はカウンターにちょこんと座り、アレクセイの淹れたコーヒーを飲みながら、彼の生まれ故郷の話を聞くのが好きだった。
「田舎でしてね。時期によっては雪以外周りには、そう、何もなくなるんです。そういう時は外にも出られないから、風が窓を叩くのを聞きながらお師匠の話を聞くんですよ。温かいものを飲みながら」
郷里の話をしている時、優しげなアレクセイの表情はもっと穏やかなものになる。幸は彼のそういった顔を見ていると、時間を忘れそうになった。
「アレクセイさんは」
アレクセイは親しいものから愛称のアリョーシャと呼ばれている。彼は幸もそのように呼んでいいと言ったのだが、幸はそうしなかった。気後れしていたのである。
「オリガさんのことをお師匠って呼ぶんですね。先生、とかじゃなくって」
「ええ。私にとっては……まあ、そういう方ですので」
「何の師匠なんですか。調査とか、研究の?」
「難しいですが、たぶん、全部です」
幸はスプーンをつまみ、カップの中身をくるくると回す。
「全部っていうと」
「生き方とか、そういうことになるんでしょうか。八街さんにはそういう人がいませんか」
幸は少し考えた。いるが、その人には言わないようにしているのだとアレクセイに告げた。すると彼は悲しそうに目を伏せる。
「いつかは言ってあげた方がいいかもしれません」
「師匠って、ですか?」
「そうは呼ばなくともです」
「アレクセイさんがそう言うなら」
幸は難しそうな顔でカップに口をつけた。それと同時、喫茶店のドアが開いた。オリガである。彼女は店の中をぐるりと見渡す。彼女に見られたものの神経がぴりりと引き締まる。幸もその中の一人で、オリガのことが苦手なままであった。
オリガは何も言わずカウンターに近づいてくる。アレクセイもまた無言でコーヒーを淹れ始めた。
「……うーん」
幸は、オリガとアレクセイがあまり話さないことに気づきつつあった。仲が悪いのではない。この二人は何も言わなくても、相手が何を思っているのかが分かっているらしかった。特にアレクセイはオリガの望むことを大概分かっているようだった。そして彼女は彼と話さない分、幸に話しかけてくるのであった。
「日本の建物は小さく見える。作っているやつも、そこに住むやつも小さいからか?」
「別に、普通だと思いますけど」
「何でもかんでも細かくて神経質だ」
「大ざっぱよりかはいいと思いますけど」
「誰かに脅されているのかってくらいにあくせく働くし、色々と面倒なことに縛られてる。そういう趣味なのか。お前ら全員被虐趣味なのか」
「怠けるよりいいじゃないですか」
「最後に頑張ればいいんだ」
「もう、うるさいなあ」
幸はオリガを見ないまま言った。アレクセイが二人の間に割って入るかのように彼女にカップを差し出す。コーヒーにウイスキーを少し垂らしたもので、酒精の香りが幸の鼻をくすぐった。
「お師匠は八街さんのことを気に入っているようですね」
「まあな」とオリガは嘯いた。
「何せ私に楯突くようなやつは珍しい」
幸は息を漏らした。オリガの振る舞いはまるで女王のようだ。チームを率いているのであれば当然かもしれないが、それにしても彼女は、自分とアレクセイ以外の人間を軽視しているようだった。
幸にはオルガが分からなかった。彼女が何の調査をしているのか、どうして自分に話しかけてくるのか、そもそも何を考えているのかが。ただ、オリガは酒が好きで、冗談が好きで、アレクセイのことが好きなのだとは分かった。
「気に入っているかはともかく、面白い反応をするからつい構いたくなる。ほら、昔に猫を飼ってただろ。私が触ろうとすると逃げたり、威嚇したり、爪を立てようとしたり。アレは可愛かった。長生きしなかったがな」
カップの中身を美味そうに呷ると、オリガは車椅子の上であぐらをかいた。
「お師匠、みっともないからおやめください」
「楽なんだ」
「下着が見えてしまいます。誰も見たくないのでやめてください」
「ちいこいのは私の見たいか?」
幸は全然とすげなく言った。オリガは美少女だ。しかし中身は違う。彼女の白い肌とは違って暗黒が渦巻いているかのようだ。
「なんだ、見たくないのか」
オリガは至極残念そうに言った。
「ええ、ですから、はしたない真似はやめてください。まったく、年甲斐もなく……」
「歳のことは言うな。だいたいなんだ。お前のがよっぽどジジイじゃないか」
「うるさいですよババア」
「なんだとう……」
幸がオリガとアレクセイのやり取りを横目で見ていると、汗みずくの日限が店に入ってきた。彼はクーラーの風が当たる位置を心得ているらしく、そこで立ち止まり、ハンカチで額の汗を拭った。
「ちいこいの。お前の相棒が来たようだな。役立たずのでくの棒が」
オリガは日限のことを悪く言うのが好きだった。
「あんまり日限さんをいじめないでくださいよ」
「……ヒギリ?」
オリガの目が細められた。
「あっ、なんですかその反応。ぼくらの名前、憶えてなかったんですか?」
「いや、そもそもやつは名乗らなかったからな。しかし、ヒギリ?」
オリガは日限に声をかけた。彼女はこっちへ来いと手招いたが、日限は応じなかった。
「ちっ」と舌打ちして、オリガは日限に向き直る。
「お前。お前の名前、日限、
「何?」
「つる……?」
そういえばと思い返す。幸は日限の下の名前を知らないでいたのだ。オリガに問われた日限は不思議そうにしながらも、そうだと頷く。
「なぜ私の名前を?」
オリガはくつくつと笑う。
「はっは、そうか、そうか。そういうことも、まあ、あるか」
「おい、こっちの質問に答えたらどうなんだ」
「気にするな。楽に行こう、日限。誰も気にしないさ、だ」
「おいっ」
日限は詰め寄ったが、オリガは楽しそうに笑って、酒を出せだとかのたまうのだった。
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