光の中を歩め



 枯れたとばかり思っていた心から、腺を通して涙があふれ出た。血潮のように熱いそれで目玉が焼けてしまいそうだった。オリガはアレクセイにしがみついていたが、肩を揺さぶられてようやくにして我に返った。

「いい加減にしないか」

 オリガは反射的に日限の頬を打った。彼は怯まなかった。

「彼が言ったのかね。一緒に死んで欲しいと頼んだかね。我々はまだ生きている。なすべきことがあるんだ。彼もそう言ってたんだぞ」

「黙れ」

 お前に何が分かる。オリガは日限をねめつけた。

「君は彼にかこつけて逃げようとしているだけだ」

「違う」

「やるべきことから目をそらしているだけではないか!」

「えらそうなことを言うなっ」

「いいか、アレクセイが」

「お前がアリョーシャと口にするな!」

 そっと、オリガの手に何かが触れた。それは他ならぬアレクセイの手だった。彼は、彼女の手を自らの胸に当てた。

 いつ止まってもおかしくないほどゆっくりのスピード。だが、心臓はまだ動いている。アレクセイはまだ死んでいない。生きている。彼はオリガを見上げて、微笑んだ。

 オリガはアレクセイの大きな手を両手で包み込む。

「……君らが、ここまでどのように生きてきたのかは知らん。知らないことだらけだが」

 日限は、戦いを見た。幸たちが瓜生としのぎを削っている。命の奪い合いをしている。

「このままで君らの望みが叶うことはない。死にたいと言ったな。彼を死なせてやりたいと。度し難い話だが、あの男が生き残ったのなら我々は殺されるだけだ。羽虫のようにな。虫のように殺されるのが君らの望みかね」

「言うな」

 オリガは長いこと目を瞑っていた。やがて彼女はアレクセイに小さく頷くと、立ち上がった。

「日限。お前はもっと分かりやすく話をするんだな。そんなだから皆から爪弾きにされるんだ」

「な、何の話だ」

「『助けてくれ』と言えばいいだろう。私がどうとかじゃなく、頭を下げて誠意を見せろ。そうすれば助けてやらんでもない」

 強がりだった。オリガは自分を取り繕って、必死になって立っていた。

「まあ、いい」

 オリガは瓜生を見据えた。日限は息を呑んだ。

「あいつは、しかしなんなんだ。まるで不死身だ。馬鹿げている」

「面白い。試してやる」

《光の中を歩め》は確かに瓜生の眉間を捉えた。アレで生きていられる人間などいない。そして不死の人間というのも存在するはずがない。少なくともオリガはそう考えていた。瓜生の異能を解き明かせば勝機はある。

「どうするつもりだ」

 日限の問いには答えず、オリガは歩き出す。しっかりと自分の足で。



「ちいこいのに、小僧に小娘ども、退け」

「ア?」

 雪蛍の視線を意に介すこともなく、オリガは幸たちの前に出た。彼女は瓜生と対峙する形になり、胸元からスキットルを取り出す。中身を呷り、口元を手で拭った。

「死なない生物など存在せん。そこの小僧が本当に不死ならば、人ではなく生き物ですらないということだ」

「オリガさん。あの、いいんですか」

「……見えたのか。ちいこいの、お前の異能はそういうものなのだろう?」

「まだ、見えません」

 瓜生は肩をすくめていた。彼はいつ仕掛けるのか、そのタイミングをうかがっていた。オリガは瓜生を見据えたまま、幸に言う。

「そうか。……物事には意味がある。原因や過程があって、結果というのは、まあ、おまけだ。いいか。こいつが人である以上、不死などとは有り得ん。カラクリがある。こいつの異能を探れ。私が時間を稼いでやる。できなければ殺されるだけだ。虫のようにな」

 オリガは幸を一瞥した。

「やれるか?」

「やります。絶対」

「よし。巻き込むだろうから下がっていろ」

 瓜生は鉈をくるくると弄んだ。

「話は終わり? 俺が不死身だとかそうじゃないとか言ってたけど。いやまあ、実のところはさ」

 異能は一人につき一つ。それが扶桑熱を研究するもののおおよその見解である。間違いではない。ただし、人工的に付与された異能なら話は別である。

 オリガの掌に炎が灯った。清く、輝く炎が。

 瓜生は眉根を寄せ、喉に手を当てていた。口が利けないのだ。

「お前の声は耳障りだからな」

 決裂同盟スヴァローグ。火が灯っている間、対象者は口が利けなくなる。オリガの一つ目の異能だった。次いで彼女は二つ目の異能、《光の中を歩めペルーン》を使い、光の槍を撃ち出した。槍は瓜生の腹を突き刺した。彼はオリガをねめつけながら動こうとするが、右足を抉られて片膝をつく。オリガはその場から動かず、槍を撃ち続ける。

 光は瓜生の足を焼き、腕を貫く。彼は声を発せないまま、自分が少しずつ削られていくのをじっと見ているしかなかった。《光の中を歩め》は喫茶店の時のように雨と化し、同様に、瓜生の体も肉片一つ残らないほどびりびりの紙屑のように変えていく。血が出ても骨が砕けても雨は止まない。その残滓ごと地面を強く打ち続ける。彼の気配さえ消してしまうほどの攻撃がやっと終わった時、オリガの前方の空間が歪んだ。暗がりから輪郭が浮かび上がる。そこにいたのは瓜生晩その人だった。

「あー、すっげ。何、今の? いや、最初からそういうのやられてたら」

 オリガは《決裂同盟》をその手に灯す。瓜生は黙り込まざるを得ない。苛立ったのか、彼は地面を強く蹴って前に出る。彼女も異能を放ち接近を阻もうとするが、瓜生は黒い針を飛ばして対抗する。中空で黒白の力が激突して霧散した。オリガの射撃を潜った瓜生は両手で鉈を握った。彼は光を受けながらも力強い一撃を打たんとしてさらに踏み込む。

「少しはやるか。本当に不死身じゃないだろうな」

 まあいいか。独り言ちながら、オリガは鉈を注視する。刀身が赤く染まり、飴のように溶けた。強い熱が鉈を溶かし、瓜生の手が煙を上げて黒く焦げ始めた。彼は咄嗟に飛びのこうとするが、爪先が炭化して力を入れられなかった。これが彼女の三つめの異能、雪融け《ダジボーグ》である。オリガは熱と光を操り、瓜生を追い詰めていた。しかしまだ生きている。肉を失ってもまた現れて、何事もなかったかのように戦いを続ける。根比べだった。

 そして先に音を上げたのは瓜生だった。彼は黒い針を飛ばしながら、一向に詰まらない距離に明らかな苛立ちを見せた。

「ちくしょうっ」

 光が瓜生の肩口を削り取る。

「畜生、邪魔だ! 死ぬんだったらよそへ行け! 俺は死にたくねえ、生きるためにやってんだ! 何が悪いってんだよ!」

 オリガは口角をつり上げた。もう遅かった。たとえば、アレクセイを傷つけられなかったら瓜生の言い分を多少は聞いてやったかもしれないが、もはや彼女にはそのつもりがない。血を見ても収まらなかったのだ。ならばあとは殺すしかない。可能な限り惨たらしく、時間の許す限り執拗に。殺す。ただ殺す。ぶち殺す。

 その思いを抱えているのは瓜生も同じだった。彼はどこからか液状の薬を取り出し、それを顔の近くに持っていく。点眼剤だったらしく、使い終わると容器を握り潰して捨てた。それだけではなく、錠剤と粉末状の薬を噛み砕いて嚥下する。

 だからどうしたとばかりにオリガの攻勢は激しさを増す。瓜生は地面と同化するかのように姿を隠した。彼女は一度手を止める。その時を狙ってか、地中から針が飛来する。オリガはその全てを《雪融け》の熱で溶かしてみせた。そうして、見えている範囲全てを《光の中を歩め》で打ち据える。長雨が止んだ時、彼女の顔が歪んだ。

「何度やったって無駄だって」

 瓜生はオリガの背に、自らで黒い針を突き刺していた。彼女は首を動かし、強い殺意のこもった視線を向ける。瓜生は笑んだ。人好きのしそうな、どこか少年のように無邪気な笑みであった。

「……声を消しても無駄だったか。その腹立たしい面を消し去らなきゃ意味がない」

 オリガは瓜生からよろよろとした足取りで離れて、背中に刺さった針を力ずくで抜き取った。彼はその様子をじっと見ているだけだった。

「悪いけどだし、こういう言い方はあんまし好きじゃないんだけど、もう、こっちも本気なもんでさ」

「消してやる」

「殺してやる」

 瓜生はオリガに対してではなく、後ろに手を遣った。針は四方に飛んでいき、彼に奇襲をかけようとしていた幸たちを貫いた。幸はなおも前進した。肩や足を傷つけられても鉈を捨てるような真似はしなかった。

「やっぱり、君が来るんだよな。しつけえって!」

「うあああああっ!」

 幸は吼え声を放った。彼の鉈と黒い針が交錯する刹那、確かに幸の目は光輝を帯びていた。



 吼えても無駄だ。叫んだところで力が変化するはずもない。幸は、地面から伸びた瓜生の異能によって足裏を抉られた。靴もろとも足の肉を持っていかれて地面に倒れ込む。しかし、見えた。《花盗人》は瓜生晩を捉えていた。

 見えなかったのではない。最初から見えていた。《花盗人》はずっと、真っ暗で、真っ黒なものを見続けていた。

「影だっ」

 瓜生が幸の声に反応する。

「だから? 痛くて歩けねえだろ。そこでじっとしてろ!」

 倒れた幸に蹴りを入れると、瓜生は異能を使おうとする。その時、彼の影が独りでに動いた。

「……なるほど。よくやったぞ、ちいこいの」

硝子壺の中の蟻コシチェイ》。影を操る。それが瓜生の異能だった。しかしオリガはそれだけではないと看破した。光の槍を瓜生ではなく、彼の影を狙って放ったのだ。すると、瓜生は自分ではなく、影を庇うようにして不格好な動きを見せた。

「私たちが戦っていたのは、瓜生こいつの偽者……分身だったということか」

 この時、瓜生は既に撤退することを考えていた。能力はバレてしまったが、幸いにして影は無数にある。影になり、姿を隠して逃げるのは彼にとってあまりにも容易かった。

「そうは、いきませんから」

 幸には見えていた。《硝子壺の中の蟻》を通して、瓜生のことが。

「……どうなってんだよ、こんなの」

 瓜生はその場から動けなかった。《花盗人》が彼の異能を完全に奪い取っていた。舌打ちし、毒づき、瓜生は自分が来た道を目指した。更に奥深く、地下へと逃げようとしたのだ。だが、光の槍が幾重にも地面に突き刺さり、彼の行く手を阻んだ。

 オリガはスキットルの中身を飲み干した。流れ出る血の代わりに、今だ体を巡るものの代わりになるように、酒精が彼女の中を駆け巡る。瓜生は光の槍の囲いを抜け出て逃走を試みていた。

 光の槍が瓜生の眼前に立ち塞がる。彼は左右から迫る《光の中を歩め》から逃れていたが、降り注ぐそれはやがてオリガと瓜生とを結ぶ、一本の道を作った。

「俺が……」

 槍を乗り越えることもできない。道の行く先に足場はない。影よりも真っ暗な裂け目の底へと繋がっている。逃げ場を失った瓜生は振り向いて、言った。

「俺が何したってんだ……?」

 馬の嘶きが轟いた。いつしか、オリガの傍には一頭の白馬がいた。無論、本物ではない。それは鬣まで光り輝くエネルギーの塊だ。彼女はその馬の背を撫でて、名前を呼んだ。

「走れ、外套スヴェントヴィト

 光の馬こそがオリガ第四の異能であった。あるじに忠実な駿馬は足を上げて高く嘶くと鬣を揺らした。《外套》が踏み出す最初の一歩で、地下世界が真白に焼けた。地上にまで届いてしまいそうな光量に竦んで誰もが目を瞑る。しかし《外套》の雄姿は皆の脳裏に確かに焼きついていた。

 馬が駆ける。瓜生は断崖の方へとひた走っていた。逃げ場などないが、せめて少しでも生き長らえようとしたのかもしれなかった。

 光の道を馬が駆ける。幸にはその時、瓜生の心が見えていた。真っ黒で真っ暗な、影のような世界。しかしその中に一つ煌めくものがある。それは希望だ。瓜生が自らをケモノではなく人と信じている一つの根拠だ。希望はどんな光よりも眩しく輝いていた。幸はそれを見て、真白の世界、その中を駆けた。



 陽が沈む瞬間が嫌いだった。

 どれだけ楽しく遊んでいても、また明日ねと、親が迎えに来て、同い年の子が一人ずついなくなる。最後まで残るのはいつだって自分だった。誰かが迎えに来ることなんてなかった。一緒にいてくれるのは長く伸びた影だけだった。

 妬ましくて羨ましくて、どうして自分のもとに誰も来てくれないのかが分からなかった。今、自分と暮らしている人たちは何なんだろう。アレは何なんだろう。悩んでも仕方がなかった。気持ちよくなるための答えは知っている。一つだ。……本当の家族が欲しかった。それだけだった。



 裂け目の中、木々が生い茂ったところに幸はいた。彼は根っこに引っかかって右手を伸ばしている。その先には瓜生がいた。彼は宙づりの状態で、ぼんやりとした目で幸を見上げていた。

「暴れないでください」

 幸が言った。瓜生は返事をしたかったが、まともな声が出せなかった。

「今、ぼくたちは裂け目の、底に落ちかけてるところです」

「どう、して」

 言いながら、瓜生は思い出していた。爆発的な光の奔流が自らを足場から弾き出したことを。後はただ重力に従うほかなかったが、誰かが手を掴んで引き上げた。錯覚だとばかり思っていたが、まさか殺し合いをしていた相手に助けられるとは予想だにしていなかった。

 光はどこにも見えない。目に映るのは絡み合った太い枝と上も下も分からなくなりそうな暗がりばかりだ。

「殺したかったんじゃないのかよ」

「違います。ぼくは……とにかく、上に戻りましょう」

「ああ」と瓜生は、幸に掴まれていない方の手を伸ばした。しかし感覚がない。見ると、左手は肘から先がなくなっていた。彼は苦笑する。痛くもなんともないから、喚くこともしなかった。

「そんな顔すんなよ」

 オリガの放った異能は凄まじかった。これだけで済んだのは不幸中の幸いと言えるだろう。瓜生は幸に任せることにした。

「引っ張れそうかい」

「ちょっと、待っててください」

 瓜生の額に何か落ちた。それは幸の汗だった。暑さのせいだけではない。幸の表情は苦悶に歪んでいた。戦いの中で負傷し、彼は力を入れることが難しい状態にある。最も酷いのは足だった。瓜生の影に抉られて、もはや歩くことすらままならないのだ。

「なあ。俺を殺さなかったのはなんでだ。放っておけばさ、ほら、まあ、死んでたろ」

 瓜生が力を抜いた。幸の目がかっと見開き、焦った様子で彼の手を掴み直す。

「離さないで」

「でもなあ」

「離したら怒ります」

「そっか、怒るか」

「はい」

 幸は困ったように笑った。

「駄目よ、離しなさい」

 鈴を鳴らしたような、そんな声がした。

 幸の口が小さく開く。瓜生は、彼の周囲の木々、根っこが蠢くのを見た。ばらばらだったそれが絡み合って結びつき、より合わさって、一本の太いものになる。その太い根の真ん中に座り、足をぶらぶらとさせているものがいた。そいつは、少女の姿をしていた。

 浴衣を着て、狐の面を被った少女は幸に微笑みかけていた。彼は不倶戴天の仇でも間近にしたかのような目つきをしている。

「嫌だ」

「さぁーちぃー、さちー、今なんて言ったの?」

 少女は楽しそうに首を傾げる。

「どっか行ってよ、なんでこんな、今になって」

「自分でやるのが嫌なの? ふうん、そうなの」

 少女は瓜生を見下ろす。

「じゃあ、母さんがやったげる」

「かあ……?」

「すっこんでてよ!」

「やぁよ」

「なあ、八街君。マジか。その人、君の母ちゃんなのか?」

「あら、どうも。ええ、幸の母です。この子がお世話になったみたいで」

「いや、そりゃどうも」

「さ、いいから手を離しなさい」

「いきなり出てきて勝手なこと言わないでよっ」

 少女の正体は幸の母、岬である。かつて骨抜きが起こした事件の際にも姿を見せ、そこから幸の前には現れなかった。

 彼女は幸の言うことを笑顔で受け流していたが、背中からは涅色の触手が生えてきていた。それをぶんぶんと振り回し、周囲の木々を叩く。振動が伝わり、幸と瓜生は引っかかった根から落ちそうになった。

「どうしてこんなことするんだよ!」

「だって母さん、幸のことが心配なんだもの。自分の子供を助けたいだけなのに、ねえ。さち君はどうしてそんな怖い顔するのかな?」

「もうやめてよ、ぼくだって昔のぼくじゃないんだからっ」

「どこが?」

 岬は根を伝い、背中の触腕を木々に絡ませ、幸の顔を間近で覗き込む。

「幸はずーっと弱くて、泣き虫で、なさけなぁい、私の可愛い幸のまま。強がってもだぁめ」

「やめてよ」

「やめない」

 岬の息が顔にかかり、幸は顔をしかめた。

「『ぼくの家族は叔母さんだけ』、だっけ?」

「……それが何なの」

「ああー、ショック。こんな大きくなるまで可愛がって育ててきたのに、お母さんのことなんかどうでもいいんだ」

「だって死んだんじゃないか」

「んー?」

 幸は岬をねめつけた。

「母さんは死んだんだから、ぼくのことはもう放っておいてよ。だってそんなの、嫌だ」

「だって幸が泣き虫なんだからしようがないじゃない」

「うるさい、ぼくはもう……!」

 掴んでいた手から力がこもったのが分かり、幸はハッとする。瓜生の顔色は先ほどより酷いものに変わっていたが、彼は薄く笑っていた。

「よく、分かんないけどさ、俺は……八街君は弱虫じゃないと思う。あんま気にすんなよ」

「瓜生、さん……?」

「ちょっと、うちの子に妙なこと吹き込まないでください。いい、幸? あなたは」

 乾いた音が聞こえて、幸の体が強張った。その音は連鎖し、其処此処から上がる。木々が、根が、彼らに引っかかっていた枝葉が重さに耐えかねて悲鳴を上げているのだった。

「弱くなんかなかったぜ八街君。いい狩人になれる。俺が、保証する」

「離しちゃだめですからね」

 瓜生の声は小さく、か細いものになっていた。彼は俯き、顔すらを上げられない様子だった。

「ああ、そう、だ。気を……メ、リ……」

「瓜生さん? だめだって瓜生さんっ」

 何か、壊れる音がした。幸の体が傾き、前のめりになる。

「いいなあ……」

「嫌だっ、いやだそんなのっ、そんなの!」

 根が砕けて、その衝撃で二人の体が中空に投げ出された。汗と血が滑る。瓜生は幸の手を振り解く。

「……いいなあ。母ちゃん、来てくれてさ」

「幸っ!」

 幸の体が岬の触腕によって絡め取られる。捕まったまま、彼は必死になって手を伸ばした。瓜生の顔が、体が、小さくなる。彼は闇の中に溶けるようにして遠くなり、

「暴れないでっ、幸! 幸っ」

「あ、ああ――――ずるいじゃないか! そんなのって!?」

 消えた。

 それでも幸は手を伸ばして、瓜生に呼びかけ続けた。何も掴めず、声はどこにも届かなかった。幸の慟哭は長く続かなかった。

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