幸、アルバイトをする



「だーっ、くそ。勝てねえ」

「あの人たち強いねえ。何が強いのかさっぱりだけど」

 喧騒と紫煙に塗れたゲームセンターを出ると、外の空気が澄んだように感じられた。幸と翔一はそのままセンプラをぶらつくことにした。土曜日の昼下がり、学校が休みというのもあって若者の姿が多く見受けられた。

 翔一はさっきから唸っていた。対戦ゲームで負けたことがそんなにショックだったのだろうかと、幸は彼を慰めようとした。

「俺、バイトしよっかな」

「バイト?」

 頷き、翔一は立ち止まって辺りを見回す。

「遊んでんのもいーけどさ、少しくらいは家計の足しになるかなって。あと、小遣いもうちょっと欲しいしな」

 翔一は誤魔化すようにして笑った。幸はアルバイトをしたことがない。自分が来てからの周世家の懐事情については何も知らないが、むつみに小遣いを無心するのも格好悪いような気がした。

「ぼくもやってみようかな」

「おっ、マジ? そんじゃ一緒にどっか探そうぜ」

 二人はその辺で見つけた求人誌を片手に、アルバイトを募集していそうな店を見て回った。しかし二人が学生ということもあってよさそうな条件のものは見つかりそうになかった。歩き疲れて自動販売機で飲み物を買い、その近くで休んでいると翔一が短く叫ぶ。彼は幸を連れて物陰に隠れた。

「ああ、零れちゃった……」

「ごめんって。けどお前は俺に感謝することになる。あれを見てみろ」

 翔一が向こうを指差す。幸は口の中の液体を吹きそうになった。若い男を侍らす、頭の軽そうな少女がいた。衣奈葛であった。葛はけらけら笑いながら通りを歩いている。

 つい隠れてしまったが、幸は葛がそこまで悪い人間ではないと知っている。ただ、自分とはかなり変わった嗜好の持ち主なので苦手意識が強いのだ。翔一と二人してこのままやり過ごすことを決めた。しかし葛たちは徐々に近づいてくる。物音を立てれば気づかれてしまう距離だ。

「いっ……きしっ!」

 盛大なくしゃみが翔一から発せられた。彼は鼻を啜り、やっちまったとばかりにあんぐりと口を開く。

「ええ……今出ちゃうかな、それ」

「わ、わりぃ」

「何が悪いってー?」

 二人は悲鳴を上げた。葛は底意地の悪い笑みを浮かべる。

「八街に打墨じゃん。何してんの? ヒマなん?」

「え、あ、あー、まあ、そんな感じじゃねーの? けど俺らちっと用事あっからさ、なあ? んじゃ行こうぜヤチマタ」

「待てやコラ、あーしのこと舐めてんの?」

 葛は翔一の尻を蹴っ飛ばした。

「え、衣奈さんこそ後ろの人たち待たせるのも悪いんじゃないの? 友達でしょ?」

 幸がそう指摘すると、葛は先まで侍らせていた男たちに帰れと言った。彼らは困ったように立ち竦んでいたが、彼女に睨まれるとすごすごと退散していく。

「可哀想じゃねえか」

「いんだよ別に、どーせあいつらヤリたいだけだし。それよりもっと楽しそうなもん見つけちゃったし?」

 幸の持っていた飲み物を奪うと、葛はそれを一気飲みしてポイ捨てした。

「ゴミ箱に捨てなよ」

「うるせー、この町全部がゴミ箱みたいなもんじゃんか」

 幸は仕方なく空き缶を拾い、近くにあったゴミ箱に捨てる。そうして、もう逃げられそうにないなと悟った。葛は二人をねめつけて、つまらなそうに唇を尖らせる。

「つーかなんで隠れてたん? 隠れてたよな? なんなん。あーしのこと鬱陶しいとか思ってんの?」

「そんなことないよ。衣奈さんのことは苦手かなーって思ってるくらいで」

「オメーもうちょっと考えて喋れや。つーか何それ? なんでそんな他人行儀なん?」

「いや、呼び捨てにすんなって散々言ってたじゃねえか」

「ちょっとうるさいから黙ってて」

 翔一の助け舟はあえなく沈められてしまう。

「じゃあ、葛ちゃんでいいの?」

「ん」

「葛ちゃん」

「…………うん」

 葛は幸から視線を逸らした。

「あれーっ!?」

 目ざとい翔一が葛を指差して下卑た笑みを浮かべた。

「今お前照れなかった? 照れたよな。な、な、ヤチマタも見たよな? おいおいマジかよ、衣奈てめーかわいこぶってんじゃねえぞ。名前呼ばれただけでそんな顔して許されるのはな、清純な」

「センパイ、借りがあんの忘れてるわけじゃないっスよね? あ?」

 翔一は押し黙った。

「で、何してたん。女でも漁ってたん?」

「お前と一緒にすんなよ。ちょっとゲーセン行って、バイト探してただけだ」

 葛は目を丸くさせる。アルバイト? 何それ美味いのとでも言いたげだった。

「金欲しいなら手っ取り早いのあるけど」

「マージーかー! すげえ助かる!」

「ちょっと待ってて……」

 携帯を弄りながら、葛は幸と翔一をじろじろと眺める。

「まだドーテーだよね? 十代のは結構高く売れんだよね。ええと、確かこないだ森本んとこのクソババアが」

「いや、やっぱりいいわ。行こうぜヤチマタ」

 やはり価値観が違い過ぎた。

「じゃあどんなバイトがいいんだよ。掘るの嫌なら掘られるのしか残ってねーじゃん」

「体売るのとかそういうの以外でだよ!」

「はあ? お前ら何ができんの? なんか特技とかあんの? 何もねーのに金が欲しいとか抜かしてんの?」

「ごめん。あの、手っ取り早いってのはナシで」

 葛は舌打ちして罵倒した。しかし文句を言いながらも何かないかと探しているらしい。

「つーか、何? お前そういうのも把握してんの?」

「まーね。どこも人手足りないし、おじいちゃんの知り合いのお店とかに人紹介したりして手伝ってんの。あ、八街花粉症だったよね? じゃあアレ、女の子の送り迎えとかは? たまにやべー客に当たったりするから、そん時はボディーガード代わりにってことで」

「何か嫌な予感がするからやめとく」

「えー? もう文句ばっかじゃーん」

 幸と翔一は顔を見合わせた。

「あ。これならいんじゃね? 明日だし、ちょうど二人くらい欲しいって言ってるし」

「一応聞いとく。どんなの?」

「ホテルの清掃。あーしもよく使ってんだけどさ、ベッドメイクとかそういうの。これならいいんじゃん? 明日一日だけでいいらしーよ。どーする?」

 掃除だけでいいなら自分たちにもできそうだ。話を詳しく聞いてみると日当の割もよかった。幸たちは葛に頭を下げた。

「オケオケ、そんじゃ後で場所と時間連絡すっから……ああ、連絡先教えといて」

 葛は一仕事終えた風に、莞爾とした笑みを浮かべた。



 次の日、幸と翔一は午前中からバイト先のホテルへ向かった。

「短期だけど見っかってよかったな。とりあえず試しってことで」

「うん。けど『金字塔』なんて変な名前のホテルだよね」

 拾漆区の繁華街を抜けて路地裏へ。翔一は絶句した。そこはホテル街だった。幸も気づく。よくよく考えれば葛がよく使っていて紹介するほどのホテルだ。ラブホテルに他ならなかった。そもそも絶対に制服で行くなと念押しされ、年齢を聞かれても十八歳以上で通せとも言われていた。確認を怠ったのを嘆く暇はない。男二人でじっとしていたくないエリアである。二人は諦めの境地に達していた。目的の『ホテル金字塔』へ急ぐと、駐車場の奥にある非常階段を上り、事務所めいた場所へ辿り着いた。

 そこからの話は早かった。履歴書も何もいらず、とにかく今すぐにでも掃除に取りかかって欲しいと告げられた。幸たちはエプロンに着替えながら注意事項を聞き、先輩のアルバイトを紹介されつつ掃除用具を持たされた。

 人がいないとのことで、二人一組で清掃を行うらしかった。幸は王という名の女性と組むことになった。

「よろしくお願いします、おうさん」

「ワン」

「はい」

「ハイじゃない。おうじゃなくてワン。二度は言わない」

 相方は中国人の女性だったらしい。長い黒髪を二つに結っており、ラフな格好も相まって活動的に見える。しかし彼女の細い目は活発とは呼び難い。まるで死んでいるかのように暗く淀んでいたからだ。

「言われたことをやればいい」

 幸に荷物を持たせると、王はすたすたと歩く。彼女は部屋に着くなり窓を開け、ゴミを集めて枕とシーツのカバーをあっという間にひとまとめにした。王は次に風呂場へ向かう。幸はあたふたしていたが、消毒液の入った霧吹きとクロスでもって拭き掃除に取りかかった。しばらくすると彼女が戻ってきて、二人で備品のチェックやベッドメイクなどをこなす。

「これ」

 王が手渡したのはカーペットクリーナーである。幸はそれで床をコロコロと掃除し始めた。

「遅い」

「はい」

「とろい」

「はいっ」

「鈍い!」

「はい!」

 急かされながら掃除して、王が部屋中をチェックする。一部屋の清掃が終わるのに三十分ほど。幸は一息つけるのかなとか甘えた考えを持っていたが、王が次の部屋に向かうのを見てその考えが砕け散ったのを実感する。

「遅過ぎる。短縮して」

「はい」

「十分短縮。できなかったら怒ります」

「はいっ」

 ちょっと泣きそうだった。



 王の厳しい指導もあり、幸は少しずつ清掃の作業に慣れてきた。部屋を出て廊下を進んでいた時、彼女が幸の首根っこを引っ掴んでリネン室に飛び込んだ。

「なっ、何を」

「黙って」

 王の視線は鋭かった。鋭かったが、密着すると彼女の体の柔らかさや暖かさが伝わってきて幸は困惑しかかっていた。静かにしていると、足音と男女の話し声が近づいてくるのが分かった。施錠の音がして、そこでようやく王は彼を解放する。

「……あの?」

「清掃中は客に見られないようにする。言われませんでしたか」

 そんなことを言われた気もするが、詰め込み教育もいいところだったので失念していた。しかし、と、幸は不思議に思った。誰かが近づいていたのは確かだが、彼には全くもって聞こえなかったのである。

「耳、いいんですね」

「早く立って。仕事に戻ります」

 王はリネン室を出て行く。幸は散らばった掃除用具を回収し、慌てて彼女の後を追いかけた。

 この後、三回ほどの休憩を挟み、夕方になったところで幸と翔一の初めてのアルバイトは終わった。

「またよろしくね。ああ、衣奈さんとこにもよろしくって言っといてね」

 そう言って、ここの社員らしき男は給料を手渡した。幸も翔一も疲れ果てたが、何となくお金の重みというものを感じられたような気がして満更でもない疲労感であった。

「死ぬかと思った。ヤチマタどうだったよ? 俺ん時さ、浴槽にクソが浮いてて」

「そういう話はやめようよ……」

「まあ、だな。タダイチとか寄ってく?」

「そうだねえ、冷たいの食べたいかも」

 事務所を出て非常階段を降りていくと、上ってくる王とすれ違いそうになった。幸は小さく頭を下げた。

「今日はありがとうございました」

「別に」

 王は二人を見向きもせず階段を上っていった。

「なんかこえー人だな。あの人と組んでたんか?」

「うん。でもすごい早かったよ。色々と」

「へえー。ま、ここでバイトすることはもうないだろうな」

 翔一の目は死んでいた。何か見てはいけないものを見てしまったのかもしれなかった。



 アルバイトからの帰り道、幸は翔一と別れた後、いかるが堂へ寄ることにした。アルバイト募集のポスターが気になっていたからだ。時給こそそうでもないが、品出し専門という字面に惹かれた。募集している時間帯もちょうどよかった。

「アルバイトしたいの?」

 振り向くと、いかるが堂のスタッフジャンパーを着た少女が笑いかけているのが見えた。

「あれ? こないだも会いましたよね」

「……ああ、あの時の」

 ツーサイドアップの少女は意味ありげな顔つきになった。

「もうタダイチ使ってないでしょうね」

「さっきアイス買いました」

「なんでよ!? あんなに言ったのに!」

「だってドラッグストアにはアイス売ってませんし」

「めっちゃ売ってるわよ!」

 少女は店内を指差す。

「これでもかと売ってるわ」

 指差してからふふんと胸を張った。少女は幸に近づき、彼と同じようにポスターを眺める。

「それで、どうなの?」

「どうしようかなあって。あの、お姉さんはここの人なんですよね。品出しが気になってるんですけど、ぼくでも務まると思いますか」

「全然無理ね」

 言い切ってから、少女は腕を組んだ。

「最初は誰だってそうよ。その点うちなら心配ないから。ちゃんと一から教えてあげる。タダイチと違ってね」

 少女はタダイチに対する敵対心こそ異様に強いが、自信たっぷりに言われると何だか心強くなってきて、幸はその気になってきた。

「君、今いくつ? 学生?」

「十八です。……あ、十六です」

「なんで一回誤魔化したのよ。ふーん、高二?」

 幸が頷くと、少女は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「私と同じじゃない。童顔だしちっさいから分かんなかった。あ、気にした? そうだったらごめんね」

「全然気にしてません」

「ごめんって。だったらいつでもいいから、ここの番号にかけて、『鵤藤いかるが ふじの紹介だ』って言えば大丈夫だから」

「いかるが? 君もいかるがさん?」

「そ。うち、ここなの」

 藤と名乗った少女は、いかるが堂を誇らしげに見遣り、幸に向き直った。彼はそれでおおよその事情を察した。しかしこれは渡りに船である。生まれてこの方履歴書など書いた試しなどないが、浴槽に浮かぶクソを見るよりずっといい。というか比較する方が馬鹿らしい。

「よろしくお願いします!」

 幸は勢いよく頭を下げる。藤は少したじろいだ。

「元気いいわね……あ、君、名前は?」

「八街です。八つの街って書いて」

「下の名前は?」

「えーと、小野鎮幸おの しげゆきの幸です」

「誰よそれ」

「戦国武将です。立花四天王の一人ですよ」

 幸は自分の名前が好きではなかったので、どうしてもという時は少しでも強そうに、男らしく聞こえるように戦国武将で例えるのが癖になっていた。

「武将って、だったら真田幸村の幸でいいじゃない。そっちのが有名だし」

「次からそうします」

「そうしなさい。それから履歴書はここで買っていきなさい」

 藤は商売上手だった。



「お電話変わりました、担当の鵤です」

「アルバイト募集のポスターを見てお電話させていただきました。八街幸です。八つの街って書いて、幸は真田幸村の幸です」

「早速使ってるじゃない!」

「あれ? もしかしてさっきの鵤さん?」

「そうよさっきの八街くん。今ちょっと店長が手ぇ離せなくって。いつでもいいとは言ったけど、まさかその日のうちに連絡してくるとは思ってなかったわ」

「すみません」

「いいのよ、話は早い方がいいもの。それよりアレね。同い年なんだから敬語じゃなくってもいいんだけど」

「そう? それじゃあバイトのことよろしくね藤ちゃん」

「砕け過ぎよ! あんたの傍若無人ぶりにちょっとドキッとしちゃったわ。ええと、次は面接なんだけど、明日でもいいかしら? 都合のいい時間はある?」

「ぼくは今日でも大丈夫だよ」

「今日でもいいの? すごい急くわねあんた。……まあ、時間はまだ大丈夫だけど、とんぼ返りみたいになっちゃうけどいいの?」

「大丈夫です。何か持っていった方がいいものはあるかな」

「履歴書とか筆記用具くらいでいいかな。後は心構えね。面接は私じゃなくて店長がやるから、あんまり訳の分からないことは言っちゃダメよ」

「あはははははは」

「えっ何、いきなり何よ」

「ああ、おかしかった。それじゃあ今から向かうね。よろしくお願いします」

「ちょっとほんとに大丈夫なんでしょうね?」

 幸は電話を切って部屋を出た。リビングにはむつみがいて、彼が今しがた書いたばかりの履歴書を指で摘まんでぶらぶらと弄んでいる。

「いきなり何事かと思えば、アルバイトがしたいなんてね。うちはそこまで貧乏じゃあないんだよ? 気を遣わなくてもいいのに」

「社会勉強の一つだと思って」

「立派だねえ。学業が大事だってのを忘れてなければ何だっていいけど。それから、こういうことしても狩人の件は別問題だから」

 幸は舌打ちしそうになった。少しくらい大目に見てくれても罰は当たらないんじゃないかと思ったのである。

「アルバイトの許可は出してあげるけど、条件が一つあるからね」

 むつみは口の端を歪めて言った。

「シフトは入れ過ぎないこと。いい?」

「どうしてですか」

「理由を聞く前に分かりましたと言いなさい」

「……分かりました」

 よろしい。むつみはクッキーを口の中に放り込む。それをばりばりと砕いて飲み込んだ。

「私が寂しいからね」

「え?」

「もそっといじめさせてくれよ少年ってことかな」

 幸はむつみの手から履歴書を取り返そうとしたが、身長差は如何ともし難がった。

「分かりました、分かりましたよ」

「最初から素直に言えばいいのに」

 どの口が言うのだと思ったが、幸はこれ以上の抵抗は諦めた。彼は再びいかるが堂へ向かい、つつがなく面接を終えると新たなアルバイト先を決めたのであった。



 週が明けての月曜日。今日も一組の男子たちは猪口蝶子へのアタックを試みていた。先陣切って幾度も攻勢をかけた幸だったが、さっぱり戦果が上がらないのでクラスメートからは軽視されていた。

「酷いよね」

「お前がな」

「ええ……?」

 翔一は女子のことになると厳しかった。しかし彼もまた玉砕し続けている。そも、蝶子のガードは厳しかった。たおやかに見えるのだがその実、歴戦の猛者めいた立ち回りであった。彼女はのらりくらりと躱したり、時にはどんと突き放したりで男子連中は釈迦の掌中のローリングストーンも同然であった。それでもめげずに砦の攻略を続けるクラスメートに、幸はこっそりと憧れの念を抱いてもいた。



 その日の放課後、幸はいかるが堂へ向かった。アルバイトをするためである。翔一からは裏切り者呼ばわりされたが、彼は彼で葛から紹介された『美味い』アルバイトを紹介されていた。

「は? 美味いバイトなんてあるわけないでしょ。はい、制服」

 幸は店に着くなり、既に店内で品出しを始めていた藤にお説教を喰らった。

「必要な書類は提出したみたいね。それじゃあ始めましょう。とはいえ私は忙しいから、別の人に教えてもらっといて」

「あ、なんか話が違うような気がしてきたよ」

「何のことかしら。ええと、ああ、ちょっとリーさん」

 通りがかった店員を呼び止めると、藤は手を合わせて拝むようにした。

「新しい子が入ったんだけど、品出しのこと教えてあげてくれない?」

「いいですよ」

 そう言うと、李という女性店員は幸を見下ろした。彼は目を丸くさせた。

「リー、さん?」

 藤が大きく頷く。

「そうよ。うちのエースみたいなもんね。仕事もできるしシフトもバリバリ入ってくれてるし。それじゃあ後よろしくね、八街くんしっかりね!」

 残された幸は李を見上げた。どこかで見たような覚えがある。というかホテルのバイトの時に。しかし名前が違う。あの時は王と名乗っていたはずだ。髪型も背格好も声もそっくりだが他人の空似だろうか。

「あ、あの、もしかして王さんではないですか。こないだ、金字塔ってホテルで」

「品出しの仕事はですね」

 李は質問を無視して作業を始めた。幸は彼女のペースについていくのに必死だった。

「遅いです」

「はい」

「とろいです」

「はいっ」

「鈍いです!」

「はい!」

 デジャブだった。

 午後十時近くになって、幸のいかるが堂における初回のアルバイトが終わった。

「あ、お疲れ様です」

 帰りしな、幸は李とばったり出くわした。やはり彼女はあの時の王とよく似ていた。

「八街さん」

 幸は少し緊張した。李は王と違い、口調こそ丁寧だが言っていることは完全に同じで厳しかったからだ。

「なんでしょう」

 李は人差し指を口元に持っていく。

「……内緒ってことですか」

「余計なことに首を突っ込むと死ぬ」

「あ」幸は思わず呻いた。今の口調は金字塔で世話になった王と同じだった。

「でも、名前変えてるのはどうしてですか」

 李は眉根を寄せた。そのまま幸を無視して駐輪場の方へ向かう。彼は何となくその後を追ってしまった。真っ赤なクロスバイクに跨ると、彼女は仕方なさそうに息を吐いた。

「ここには任務で潜入してる」

「もしかしてタダイチのスパイなんですか」

「呵呵。アー、お前ちょっと面白い。次はもっと扱いてあげます」

 どうやらはぐらかされたらしい。幸は、ダンシングで爆走していく李の背中を見送った。

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