十字架男爵



 朝食の途中で、むつみが幸の手元を指差した。

「え?」

「爪」

 むつみはトーストを齧る。幸は自分の爪を見た。少し剥がれて、固まった血が黒く変色していた。

「寝てる時にどっか擦ったのかな」

 聞かれてないのに幸は言った。

「まあ、何でもいいけど」

 幸はむつみを見ようとしなかった。古海が来てからは特にそうだが、そもそもが初日からよそよそしく、打ち解けるつもりもそこまでない。別に構わない。むつみは臨むところだとすら思っていた。叔母と甥の間柄とはいえ先日会ったばかりだ。他人も同然である。そのはずだが、幸が自分を蔑ろにするのは腹立たしかった。

「君さあ」

「ごちそうさまでした。いってきます」

 何か口を挟む間もなく幸はリビングを辞した。むつみはその後姿を見送る形になる。気づけば、彼女はフォークの柄を強く握り締めていた。日が経つにつれ時を経るにつれ幸と姉の姿がダブって見えてくる。かと言って『あれ』は姉ではない。幸を憎らしいとも思うのだが、それは姉に対して抱いていたものとは別種のような気もしていた。

「……ああ、なるほど」

 席を立つ。むつみは洗い物を片づけながら、もう少し愛想がよけりゃいいのにと思った。



 もう少し愛想がよけりゃいいのに。

 通学路を歩いていた幸はくしゃみをした。鼻水を啜る。メフに来てからはずっとこうだった。

「ヤチマタ!」

 信号の向こうに翔一の姿があった。彼はバス停のベンチで幸を待っていたらしかった。信号が青に変わったと同時、幸は彼のもとに駆け寄る。

「家近いし、学校じゃあ話せないこともあるからよ」

「あはは、何それ。でもさ、連絡くれればよかったのに」

「使うの忘れっちまうんだよなあ」

 ここに翔一がいるということは、猿喰たち上級生に呼び出されなかったということだ。よかったねと幸は言うが、翔一は難しい顔で頭をかいた。

「なんかよ、猿喰のやつがいなくなってるらしいんだわ」

「そりゃ不良なんだからさ、わざわざ親に行ってきますって言ったりしないんじゃないの?」

「……ヤチマタ。前に俺が言ったことを覚えてっか」

 幸は小さく頷く。

「今日はさ、あんまし俺に近づかねー方がいいからよ」

「え?」

「そんだけ! じゃな! また明日な!」

「まだ今日になったばっかじゃん!」

 翔一の背中は小さくなりつつあった。幸は追うのを諦めた。彼の足が速いのもあったが、結局学校に着けば教室で顔を合わすのだ。少し寂しくはあったが、幸は独りで歩き出した。

 しかし、学校に着いても翔一はどこかよそよそしかった。彼は最初こそまじめに授業を受けていたが、四時限目の授業が始まる前後にはその姿を消していた。

 昼休みになると同時、深咲が幸の傍にやってきた。彼女はいつになく深刻そうな表情をしていた。

「あのね、八街くん。打墨くんのことなんだけど。また、あの人たちと一緒にいるところを見かけちゃって」

 深咲が職員室から戻ってくるところ、上級生に連れて行かれる翔一を見たという。彼らは先日と同じように中庭へ向かったらしい。

 何もそんな分かりやすく見えやすい場所に集まらなくても。幸は立ち上がった。

「水原さんは優しいね」

「え?」

「ちょっと見てくるだけだから」

「私より八街くんのが優しいよ。だって、君、この学校に来たばかりなのに」

 深咲の言わんとしていることは分かった。幸は中庭へ、翔一のもとへ向かった。



 クソだ。

 この学校はクソだ。生徒も教師も殴られているもののことなど見て見ぬふりだ。この町もクソだ。だがクソ以下なのは自分だ。こうなることを選んだのは自分なのだ。翔一は自分の行いを恥じていた。否、最初からずっと恥じている。

「てめえじゃなきゃ誰がヒデをハメんだよエェ?」

 顎に一発。翔一の体がぐらついた。彼は足を踏ん張って倒れまいと堪えた。

「知らねえって」

「そんなわけねえだろ!」

 上級生からの呼び出しを受けたのは昨夜だったが、無視した。いつものことだと切って捨てたのである。だが、今朝になって事情が違うことを知る。猿喰秀吉が行方不明になった。取り巻きはそれについて何も聞かされていないらしかった。

「知らねえっつってんだろ!」

 本当だった。そも、翔一は可能なら猿喰にはかかわりたくない。自ら近づきたくなかったし、あのデカブツを自分がどうこうできるなどとは思っていなかった。平生なら猿喰の取り巻きにもそれが分かるだろう。翔一は一般人で、猿喰は同世代では屈指の異能者だ。しかし彼らは焦り、戸惑っていたのだろう。絶対のリーダーが消えたのだ。中心となる人物が何も言わずにいなくなっては『困る』のだ。

 翔一は散々知らない、分からないと言っていたが聞き入れてもらえず殴られまくった。そうしているうち、埒が明かないのを疲れたのか、一人の上級生が世迷言を口にする。

「ヒデさ、赤萩組行ったんじゃね?」

「ええ? なんで?」

「いや、だってよ、組の人と会ってんのはヒデだけだったし、ミキさんに呼び出し喰らってたじゃん」

「今もそうだってのかよ」

「そうじゃなかったらどうすんだよ!?」

「おれにキレんなよ」

 翔一はほっぽり出されていた。しかし、上級生たちの不安は手に取るように分かった。いつもの余裕たっぷりと言った雰囲気も笑みも消え失せ、仲間内でがなり立てている。このまま解放してくれと祈っていると、話はまとまったようだった。

「打墨、てめーもついてこい」

「……あァ?」

 腹を殴られた。翔一は昼飯を食わなくてよかったと感じた。

「事務所見に行くぞ。ヒデがいるかもしんねー」

 翔一は涙目で上級生をねめつける。

「赤萩組に行くってんだよ」

「俺ぁカンケーねーだろ!」

 殴られ、蹴られ、意識を失いかける。引きずられる形で裏門まで辿り着くと、見慣れぬバンが停まっているのが見えた。翔一は後部座席に押し込まれ、左右を上級生に挟まれる。

「冗談だろっ。やくざの事務所行ったってどうにもならねえぞ!」

「じゃあどうしろってんだよ!? てめーは黙って盾になっときゃいいんだ!」

 上級生の一人が運転席に乗り込んだ。彼はもがく翔一をひと睨みする。

「下手に動くなや打墨。おれぁ免許なんざ持ってねーからよ。手元狂わすことすんなよ」

「クソがーっ」

 翔一は掴みかかろうとしたが、横合いから頭突きを喰らう。こめかみに鈍く響く痛みに耐え兼ね、彼は目を瞑った。ろくなもんじゃねえと思っていたがここまでとは予想していなかった。今死ぬか、後で死ぬか。今の翔一には提示された選択肢の無情さを呪うことしかできなかった。



 中庭には誰もいなかった。翔一とも連絡が取れない。幸はそこいらを捜し回ったが誰も見つけられなかった。裏門の近くでどうしたものかと佇んでいると鼻歌まじりで歩いてくる安楽土が見えた。

「あれー? もう昼休み終わるぞー、八街」

 幸は翔一を見なかったかと聞いたが、安楽土は緩々と首を横に振るのみであった。

「え? なんで打墨捜してんの? つーかあいつガッコ来てたっけ」

「あの、猿喰とかいう人たちの友達でも構わないんで、見ませんでしたか」

「猿喰ー? やめとけよあんなんに関わんのは。正直さ、教師だって嫌がってんだし。ああ、でも……センプラでよく見かけるっけな。その辺溜まり場にしてんじゃないの?」

 学校にいないなら次に可能性が高いのはそこだろう。幸は礼を言ってその場を立ち去ろうとした。

「おぉい困るぞ八街ー。お前もサボりかー? まあ、そっちのが困らないか」

「……?」

「保護者に連絡いくかもしんないけど、その辺は覚悟しといてくれなー」

 百も承知である。幸は裏門から学校を出てセンプラを目指した。幸は、深咲や安楽土が言わんとしていることをよく分かっているつもりだった。『打墨と友達なのか』。『ついこの間、ここへ来たばかりのお前が』。猿喰たちに楯突いてまで助けようとするほどの仲なのか。それは幸にも分かっていなかったが、翔一がいいやつなのは分かっていた。翔一が自分を友達だと思っていなかったとしても関係なかった。彼に来るなと言われていても体は勝手に動いている。メフに来ることになったのは誰のせいでもない。身についた異能とレッテルはどうにもならない。しかし友達を見捨てるかどうかは自分の意志だ。自分で選べる。だから。幸は歯を食いしばった。ここで動かなければ八街幸は八街幸でなくなる。ケモノと化してしまう。誰のためでもない(・・・・・・・・)。幸は己がために走った。安楽土の目が虚ろだったことには最後まで気が回らなかった。



 赤萩組の男、ミキは繁華街をぶらついていた。昼日中からぶらぶらしていられるのは彼の仕事柄もそうであったし、学生からせしめたばかりのケツモチ料という小遣いも要因の一つであった。とはいえ懐が温かくても外と比べれば娯楽の少ない町である。この時間ではろくな店も開いておらずひとり酒というのも侘しかった。また、彼方此方から注ぐ刺さるような視線も鬱陶しかった。一時の羽振りがよくても所詮はやくざだ。彼は逃れるようにして路地を曲がった。

「おっさん、あーしと遊ばない? つーか遊ぼ?」

 制服を着た子供がミキを見ていた。立ちんぼの女にしては歳が若く身綺麗だった。格好は目に悪いほどにカラフルでみょうちきりんなものではあったが。

「男引っかけるにゃあ早くねえか嬢ちゃん」

 昼を回ったばかりだ。そんな気にも中々なれそうになかった。ミキの内心を察したか、少女は腕に縋りついてくる。柔らかな肉が押しつけられた。視線を下げれば少女は胸の谷間を惜しげもなく晒している。香水に混じって若い女の体臭が匂い立っていた。たぶん、こいつはやり慣れている。どうせ持て余していたのだ。たまには若いのと暇をつぶすのもやぶさかでない。思っていたより昂ってきて、ミキは息を漏らした。

「そこらの抱くよりずっといい思いできるよ?」

「おう、そうか」

 ミキはふと、事務所が近くにあるのを思い出した。ホテル代ももったいなかったし妙な真似をされて逃げられるのも嫌だった。今日の当番は自分より若いのが一人で、他は出払っている。ここで少女に誘われたのはミキにとって天の配剤である。

「事務所でいいか?」

「えー? 会社ー? ホテルじゃないのー?」

「もうおせえぞ。おれぁ赤萩組のもんでよ、まあ、悪いようにはしねえって」

「やくざさんなのー? マジー?」

 分かっているのかいないのか、少女の反応はミキからすればいかにも若者っぽく軽そうに映った。

「ふーん、まいっか。あ、あーしつづらちゃん。つづらちゃんって呼んでね」



 ミキの事務所はセンプラから何本かの路地を抜けた先にある、小汚いオフィスビルの中だった。

「嬢ちゃん、やくざとヤんの初めてかー?」

「えー、分かんなーい。結構数こなしてるからさあ」

「はは、なんだそりゃ」

 ほら、と、事務所に通された。中に入るなり、衣奈葛は目を細めた。一見すると普通の会社のオフィスだ。だが、閉じたブラインド。革張りのソファ。ローテーブルに馬鹿でかい灰皿。神棚。壁には破門状などの回状が雑多に貼られている。電話番の若い男がこちらをじっと見ている。入り口の正面の壁には代紋が掲げられていた。大人しくなった葛を認めたのか、ミキは薄く笑っていた。

 赤萩組とか言ってたけど、しょっぺえな。葛は内心でほくそ笑んだ。彼女は仲のいい祖父の商売柄、こういう手合いのことは同年代よりよく知っている。赤萩組は近畿圏を縄張りにしている暴力団だったが、異能の力で他の暴力団を強引な手口でまとめてのし上がった。悪徳が跳梁跋扈するメフの中でも最も暴力に長けたものたちの塒だ。が、この事務所は本家本元の赤萩組とはそこまで関わりがなさそうだった。葛の見込みでは、こいつらは下部組織で赤萩組とはほぼ名ばかりに違いなかった。上からは歯牙にもかけられていないだろう。

「他の人はどっか行ってんの?」

「まあな。ほら、上行くぞ」

 骨抜き事件の標的になっているのもあるだろうが人が少な過ぎる。ちらりと見た破門状やカレンダー、ホワイトボードにつけられた印から、複数の組織とシェアしている事務所かもしれないと葛は悟った。

 ボコられたもん同士傷をなめ合って寄り添ってるってわけ? 葛はそれをくだらないと断じた。とはいえ、そのくだらないことをしているものと悦楽に耽るのも悪くないと思っていた。性行為の手練手管が人間性に依存しないことなど身をもって知っている。

「嬢ちゃん、声でかい方か? 『死んじゃう』とかさ、『殺して』とかあんまり言うなよ。そそるし、しゃれじゃすまなくなるからよ」

 生死などどうだっていい。人生などつまらないものだ。生きていても死んでいても大して変わらない。人生とはいかに熱を保つかだ。人間の頂点とは産声を上げた時で、それからはずっと冷めていく。冷えて固まり、荒野に転がる石みたいに干乾びる。

「殺してみてよ」

 からからに渇いた心を潤し満たしてくれるならば、それこそ殺されても構わなかった。


「――――――!」


 いざことに及ぶ段になるも、妙な物音が階下から聞こえてきた。ミキは脱ぎ掛けていたズボンをはくと、葛に動くなと伝えた後、当番部屋を足早に出て行った。

「ちょっとー、マジかよ」

 しようがないので、葛は全裸になって畳の上であぐらをかいた。



「あれ? お前、どうしたよ急に。ミキさんに呼ばれたんか?」

 この日、男が事務所の留守番だったのは不運としか言いようがなかった。しかし彼の頭は自分の運が悪かったのだと考えが及ぶ前に壁に貼りつけられていた。べっとりと付着した男の頭部がずり落ちるより早く、階段の方からミキがやってきた。

 ミキは、事務所にいるのが猿喰秀吉という学生だと認識し、次いで、物音の正体を捉えた。猿喰の右手は何も持っていない。しかし殺人の証左がどろどろにまとわりついていた。

「てめーイカれたんか」

 猿喰の目には一切の光が宿っておらず、両腕を下げて脱力している。彼が何らかの意思を持って行動しているようには見えず、ミキは困惑した。だが、理由などあとでついてくるものだ。猿喰が事務所内の人間を殺した事実は曲がらない。そこから先は早かった。ミキは躊躇いを見せずローテーブルに置いてある馬鹿でかいクリスタルの灰皿を掴んだ。吸い殻と灰が中空に舞う。彼はそれを、突っ立ったままの猿喰の頭目がけて振り下ろした。鈍い音がした。猿喰は微動だにしない。

「あが、は……ぎ」

 猿喰の腕が動く。ミキは距離を取り携帯しているナイフを手にした。猿喰の体躯は常人のそれとは違う。彼は亜人の中でも特に肉体的に秀でた《オーク》だ。手持ちの得物では少々頼りないが、それでもミキは巻き舌で何事かを叫びながら、刃先を猿喰の胸に突き立てる。何度も、何度も。その度に血が噴き出てミキの顔を濡らした。

「あがはぎ、あが、は、ぎ」

「オオオオォオオテメコルルルァァァッスゾ!? オアアッ!?」

 みしりという音がした。猿喰の右手がミキの脇腹を掴んでいる。彼は逃れようとしたが、腹の肉を引き千切られて転倒した。猿喰は転がったミキの腰を踏みつけにする。オークの体重で全身の骨が軋んでいる。苦痛に呻きながらも彼は上半身を起こし、ナイフを振り回した。猿喰の制服がずたぼろになっていく。やがてミキは目を見開いた。猿喰のどてっぱらに穴が開いている。傷痕はかなり前についたもので周りの血はとうに乾き切っていた。

 猿喰の虚ろな目がミキを捉えていた。

「あ、アァ……? ンだそりゃ、てめー……アぶっ!?」

 オークの腕がミキの頭部を叩いた。口を開いていた彼は舌を噛み切り、それを吐き出す。ミキはまだ何か言おうとしていたが、凹んだ頭では口から出てくるのは意味を成さない声と血ばかりである。ごぽごぽという水音を立てながら、ミキは手足を発条仕掛けのおもちゃみたいにばたつかせた。猿喰は彼の腕を両手で掴み力を込める。皮が伸び、骨が悲鳴を上げた。筋肉繊維と神経が引き裂かれて、腕は容易く千切れてもがれる。猿喰は引き千切った腕を投げ捨てると残った腕も同じようにした。その場に倒れて動かなくなったミキを認めるや否や、またもや猿喰は動作を停止した。しばらくの間そうしていると、事務所の扉が開く音が、しんと静まり返った室内によく響いた。

「えれー静かじゃねーの」

「お?」

「……アァ? な、この、が、ガキ」

「スッゾオルルァッタレガボキャアアァァア!?」

 ぞろぞろとやってきた新たな獲物の存在に、猿喰は口を大きく開いて笑った。どうやら歓迎しているらしかった。

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