第四話 男子高校生は男湯に入る

 広い洗い場は湯気でいっぱいだった。壁際に設けられた蛇口の前に、いろんな体格をした男たちが座って頭や体に泡を立てたり流したりしている。一クラスの男子二十余人が一度に入浴できるほどの大浴場だ。並んで座っている背中も、少年のような小柄なものからオッサンと表現できそうなほど堂々としたものまで様々だ。

 俺は洗い場の隅っこに座って髪を洗っていた。すぐ隣にガタイのでかい宏海ひろみが座っている。


 医者から『実は女でした』宣告を受けてからすでに一ヶ月半。

 俺たち一年生は学校行事で長野のスキー場に来ていた。全員参加のスキー合宿だ。名称こそスキー合宿だが、スキーをやるのはほんの一部の生徒だけで、大半はスノーボードをやりたがる。そのため最初からスノボの講習も用意されていて、どちらでも自由に選択することができるのだ。

 人は生まれてくる時に自分の性別を選べない。でも、誰でも一生に一度だけ自由に性別が選べるとしたら、どうするだろう。男を選ぶのか女にするか。異性に変えるかそのままか……。


 ◇◇◇


 大学病院から帰ってきた当日こそギクシャクしていたものの、良い意味でイイカゲンな我が家族。一晩開ければいつもと同じ食卓にいつもと同じ朝食が並べられて、いつもと同じいい匂いが二階の部屋まで漂ってきた。


「今日は学校、休むよ」


 あんなことを急に言われてもそう簡単に結論が出せるわけじゃない。このままいつも通り登校して勉強なんてする気は起きなかった。


「そう。仕方ないわね」


 母親も反対しない。俺の心情を察してくれたのか、それとも頭ごなしに何か言っても聞かないと思ったのか。どちらにしても今はありがたかった。

 午前中の家事を終えてリビングに戻ってきた母親と一緒に、だまってテレビを眺める。ワイドショーには性同一性障害に悩む若者達が出演していて、自分の性別に違和感を持つ苦しさを滔々と語っていた。

 性同一性障害と言うものは、簡単に言えば身体と心の性別が異なるということだ。一言で言ってしまえば単純だが、実際には生活に支障が出るほどの辛い思いをするものらしい。


「あんたは、どうなの?」


「う~ん。ぜんぜん実感ない」


 母親が自然に聞いてくる。

 俺だって他人から見たら不幸なのかもしれない。でも、辛いと言うほど自分の身体に違和感はない。まあ、小柄で痩せて男らしくないと言えばそうなんだけど、彼らほど悩んでいるわけじゃない。


「先生もすぐにどうこうって話じゃないって言ってたから、ゆっくり考えなさい。お母さんはあなたが選ぶならどちらでもいいの。お父さんもそう言ってたわよ」


 昨日は、一人息子なんだから云々って言ってたのに、いったいどうしたんだろう。父親と話して考えを変えたのだろうか。

 家族がそう言ってくれるのはありがたいけど女になるつもりはない。俺が男のままでいないと樹里亞じゅりあと結婚することができない。それでは彼女との幼い頃の約束を果たせなくなってしまうから。


 ◇◇◇


 スキー合宿の風呂場で髪を洗いながら樹里亞の事を考えていたら、なんだか変な気分になってきた。

 ここでちょっと考えてみよう。もし俺が女になったら、学校行事は女子と行動することになる。それはつまり、目の前で一列に並んで汚い尻を見せている野郎どもが全員女の子に変わると言うことだ。

 俺の隣で体を洗ってる厳つい宏海ひろみが、胸がバーンとでてウエストがギューっとしまった樹里亞に入れ替わる。

 そして彼女は長い髪を丹念に洗い、トリートメントをしながら俺に話しかけてくるのだ。


「今日は大変だったわね。あたしなんか何度もお尻から転んじゃったわ。ここんとこアザとかになってない?」


 そう言って立ち上がると、俺の鼻先に丸い曲線を描く魅力的な尻が突き出される。


「へーきへーき。なんともなってないよー」


「良かったぁ! 変になってたらどうしよーかって思っちゃった」


「樹里亞は心配性だよねー」


「誰が心配性だって?」


 突然、樹里亞のセリフが野太い声に切り替わる。

 身体を洗い終えた宏海が俺の顔を覗き込んでいた。


「いやいや、違うんだよ。ええと、ほら。風呂にシャンプー忘れないようにって樹里亞がしつこく言ってたから……」


「あいつはお前のお袋か?」


 宏海に突っ込まれる。

 ああ、びっくりした。

 妄想がよだれのように口からだだ漏れだったらしい。

 危ない危ない。気をつけなきゃ。


東條とうじょう。今日のスノボでけたのか? 尻のとこ、アザになってるぞ」


 急に後ろからクラスメイトに声をかけられてびっくりした。


「アザ? どこどこ?」


「ほら。ここだよ」


「ひゃぁ!」


 いきなり尻を突っつかれて高い声が出てしまった。


「なんだよお前。女みたいな声出しやがって。チ○コついてんのか?」


 そいつは俺の肩をつかんで無理やり振り向かせようとした。

 俺はバランスを崩して風呂場の椅子から滑り落ち、床に尻餅をついてしまった。けっこう痛い。アザになっていたのは本当かも。

 でも、尻餅はコイツのせいだ。

 睨みつけてやろうと顔を上げると、目の前に見たことがないような形をしたものが突き出されていた。


 何……コレ?


 床にアヒル座りになっている俺の目の前に、そいつは仁王立ちで立っていた。それがなんなのか理解するまでに数秒かかる。

 自分のものとはあまりに違う形、色、そしてなによりその大きさ。コレってやっぱり、アレだよな? でも、コイツのってこんなに大きいの?


「痛てててててて。やめろ松崎まつざき!」


 立ち上がった宏海がヤツの腕をつかんで捩じり上げる。


「黙ってその祖チンをしまえ」


「うるせー。俺のは普通サイズだ。手前ぇが規格外なんだよ!」


 なん……だと?


 宏海が手を離すと、そいつは一目散に逃げて行った。

 あれで普通サイズだなんて、やっぱり俺のは小さいんだ。いや、大きさだけじゃない。何もかも違う。産科医も両親もあんなのと見間違えたのか?

 いや、待て。赤ちゃんのをテレビか何かで見たことがあるけど、とっても小さかったぞ。それじゃあ成長と共に大きくなるというのか?

 いやいやいやいや……ちょっと待て。俺は何か重大な事を見落としている。

 一体何だ?

 とても重要なことなんだ。

 思い出せ。思い出せ。思い出せ!


 そうだ。たしかアイツはこう言った。

 宏海に向かって『手前ぇが規格外なんだよ!』って。

 規格外ってどういうことだ? アイツの巨大なアレよりも宏海のはデカイとでも言うのか? しかも『規格外』とまで言われるほどに。


 あんなものが股間にぶら下がってたら、ブラブラ揺れて歩きにくいだろうと思っていたのに……あれ以上だって?


「宏海。規格外ってなんだ?」


 俺はおそるおそる聞いてみる。

 俺の視線が風呂場のタイルの上を行ったり来たりして落ちつかない。もちろん男の股間なんか見たくない。でも、視線が少しづつ少しづつソコに吸い寄せられていく。怖いもの見たさだろうか?

 しかし……。


「大きさなんか気にするな。男はそんなもので計れねぇよ」


 そう言って宏海は立ち上がる。

 たしかにその通りだ。友達のものを見たいだなんて、俺もどうかしていたな。でも、宏海はどうして俺のが小さいってわかったのかな?


 落ちついて自分の格好を眺めて見ると、ペタンと座った股の部分に泡にまみれた俺の股間がうっすら見えていた。


「宏海、俺の見やがったなぁ! お前のも見せろ!」


「うわ、よせ、バカ!」


 二人共、泡で滑って床に肩や頭をぶつけた。そして二人で笑い合う。

 ああ、男同士っていいなあ。こうしていつまでも無邪気に遊んでいられたらいいのにな。


 ◇◇◇


 風呂上がりに部屋で涼んでいると、廊下で別れた宏海が帰ってきた。両手に飲み物が入った瓶を持っている。


「ほら、これ飲め」


 薄いピンク色の液体が入っている。よく冷えていて美味しそうだけど、なんだコレ?


「イチゴ牛乳だ」


「お前のソレは?」


「コーヒー牛乳だ」


 なんで俺がイチゴ牛乳なんだ? 子供扱いしてるのか?


「そっちがいい」


「だめだ」


「なんで?」


「コーヒー飲むと背が伸びないぞ」


「お前は俺のお袋かよ!」


 ここでまた、掴み合いになったが牛乳の瓶を落としそうになったため一時休戦。諦めてイチゴ牛乳でガマンしてやる。しかし、俺が譲歩するのはここまでだぞ。覚えておけ、宏海。


雪緒ゆきおさぁ。誰か好きなヤツはいるのか?」


 口に含んだイチゴ牛乳を思い切り吹き出す。

 部屋のベランダの手すりにもたれ掛かって星空を眺めていると、とつぜん宏海がそんなことを言い出した。同じ部屋の連中はロビーに土産を見に行っていて、ここにいるのは俺たち二人だけだ。


「お前。門倉かどくらが好きなんだろう?」


「なっ!」


 どう言うわけか慌てた俺は、平静を装って『なんだよ? ソレ』と言うつもりが盛大に噛んだ。噛んだというか、一文字しか言えなかった。

 門倉とは我が幼なじみである『門倉 樹里亞』のことだ。


「そんなこと、お前に関係ないだろう?」


「いや、そうなんだがなぁ。どうやら最近そうでもなくなってきた感じでなぁ」


「何言ってんだかわからねぇよ。どうしたんだよ?」


 俺は宏海を問い詰める。


「俺はお前と中学で会ってから一緒につるんでんだが、その頃にはお前らもうベッタリだっただろ?」


「ベッタリって言うなよ。幼なじみなんてそんなもんだろう?」


「そうか? 俺にはものすごくベタベタしてるように見えるぞ。普通は姉弟だってもう少し距離をおくものだ」


「そんなこと言われてもわかんねぇよ。くっついてくるのは樹里亞の方なんだから、アイツに言ってくれ」


 俺がそう切り捨てると宏海はとんでもないことを言い出した。


「たぶん門倉はお前のこと好きだぜ」


「はぁ? そんなわけないだろう? アイツは幼なじみの俺をおちょくって遊んでるだけだよ。こんなちっこくて細い男が好きなわけないだろう? アイツは筋肉質の細マッチョが好きなんだよ……」


 お前みたいな……。

 脳裏に多岐川たきがわ医師の言葉がリプレイされる。もう俺は、筋トレしようがドカ食いしようがお前みたいな体型になれないのがわかってるんだ。たぶん俺はお前に嫉妬してる。


「なんで急にそんなことを言い出すんだ?」


 俺がそう聞いた瞬間、同室の奴らがなだれ込んできて、秘密の会話はお開きになってしまった。いったい宏海は何が言いたかったのだろうか。

 そして、なし崩しに始まったトランプ大会……優勝者は最下位になんでも一つだけ命令できる……が熾烈を極め、おまけに誰かが隠し持ってきたバーボンの回し飲みが始まって、みんなが酔いつぶれて勝敗はウヤムヤになってしまった。

 なんで俺はしっかりしてるかと言うと、俺だけ酒を飲ませてもらえなかったからだ。


東條とうじょうはダメだ。子供のうちから酒飲んでるとアル中になるぞ」


「お前も俺のお袋かよ!」

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