第三話 男子高校生は己を知る

 ドアを開けると、問診室は六畳程度の狭いが機能的な部屋だった。向かって右側の壁に寄せて簡易ベッドが置いてあり、左側の壁にはパソコンが乗った机と椅子が設置されている。

 その椅子には、学校に連絡して俺を呼んだ多岐川たきがわ医師が笑顔で腰掛けていた。俺は母親に付き添われて先週も検査のためにここへ来た。今日はその結果を聞きにきたのだ。


「血液検査の結果が出てますよ。やはり私が思った通りでした」


 多岐川医師は満面の笑みを浮かべる。

 この医者は人が病気だったというのに何がそんなに嬉しいのだろうか。

 俺は目の前の気楽な男に怒りを覚えながら、未知の病気に対する恐怖を感じていた。


「で、思った通りって……どうだったんですか。先生?」


「ああ、お母さん。ご心配なく。命に関わる病気ではありません。雪緒ゆきおくんの遺伝子の性染色体にはY染色体が無かっただけのことです」


 俺と母親の頭上が『?』マークでいっぱいになる。


「あの、先生。それってどういうことなんでしょう?」


「簡単に言えば、雪緒くんは女の子だということです。環境要因が大きい発展途上国なんかでは割と珍しくない症例なんですよ。日本でも非常に稀ですがいくつか報告されています。実は私はそういう症例の研究をしているんです」


 ◇◇◇


 学校で呼び出されたその日のうちに副校長から自宅に連絡があって、電話で説明を受けた母親は俺をその医者に診せることにした。

 医師の都合に合わせて医大の医療センターに行ってみると、詳しい話もないまま血液検査をされて、それから数時間待たされた。病名も何も聞かされず、悶々とした気持ちのままこの時間を過ごした。


 しかし、結果を聞かされた俺も母親もキツネに摘ままれたような表情で固まってしまった。それはそうだ。生まれてから十六年間男としてやってきたというのに、今さら女でしたなんて、冗談にしても趣味が悪すぎる。


「そんなハズないですよ、先生。この子が生まれたときに、ちゃんと確認したんです。いいえ。生まれる前から超音波でも見てたんですよ。産院の先生にだって『元気な男の子です』って言われましたし」


 母親が反論する。自分が初めて腹を痛めて産んだ子なのだ。性別を間違えるハズはない。そう信じているのだろう。

 もちろん俺だってトイレのたび、着替えのたび、風呂に入るたびに自分の股間を眺めてきたんだ。

 同年代の他の男と比べたことはないけれど、俺にだってちゃんとアレがついているのだ。


「それこそがこの症例の厄介なところなんですよ。性別というものはXとYの二種類の性染色体によって決まるものと言われていますが、実はこの性染色体というのは精巣や卵巣を作ることしかしてくれません。性器が形作られるのは、女の子の場合は卵巣の卵胞細胞から分泌されるホルモンによるものです。しかし、何らかの要因によってホルモンの分泌が阻害されると、性器は十分に発達せず、まるで男の子のように見える外性器で生まれてくることがあるんです。おそらくは雪緒くんもこの症例ではないかと思っています」


 多岐川医師は、俺と母親に交互に視線を向けながら、詳しく説明してくれた。しかし、俺は頭の中がぐるぐる回ってしまってまともな思考ができない。

 どうやらそれは母親も同じようだった。


「で、先生。それって治るんですよね?」


「ええと……ですね、お母さん……」


 母親は状況を正しく理解できていない。多岐川医師はそう判断して、より噛み砕いた説明を始める。


「厳密に言えばこれは病気ではありません。外性器の形成不全によって性別が誤認されていただけで、雪緒くんは生まれた時から……いや、生まれる前から女の子だったんです。海外の症例では十一歳から十四歳、いわゆる思春期と呼ばれる期間に本来の女性らしい体型になって発見される例が多いんです。しかし、雪緒くんの場合は卵胞細胞の発育がさらに遅れたために正しくホルモンの分泌がされず、未だに少年のような体型のままなのです。まずはいくつか追加で検査をさせてもらって形成不全の原因を見極めて、ホルモン療法を行う必要があるでしょう」


 そして彼は、満面の笑みを浮かべてこう言った。


「心配はいりません。ホルモン療法の効果があれば、成人するまでには立派な女性の身体になりますよ」


 多岐川たきがわ医師の言葉を聞いて初めて事態を理解した母親は、座っていた椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がるとマシンガンのごとく喋り出した。


「そんな……そんなの困ります! 雪緒は一人息子なんですよ。産まれた時から男の子で、今までだってずっと男の子として育ててきたんです。それを今さら女になれなんて……」


 母親の行動に驚いて俺は椅子に座ったまま何もできなかった。普段温厚で優しい母親が激昂するところを初めて見たのだ。

 多岐川医師の顔から笑顔が消えた。母親のこんな反応を想定してはいなかったらしい。


「落ち着いてください、お母さん。私はてっきり……ええと、もし、男の子として生きていくのであればもちろん方法もあります。とりあえず、詳しく診察してみましょう」


 そう言って母親をなだめると、医師は俺を診察用のベッドに座らせた。


「お母さんは待合室でお待ちください」


 母親が問診室を出ていくと、多岐川医師は俺に向かって話し始めた。


「これからちょっと君の下半身を診せてもらうよ。恥ずかしいかもしれないけれど、君の将来に関わる大事な診察なんだ。いいね。じゃあズボンと下着を脱いで、ベッドに横になって」


 俺はおとなしく履いていたデニムパンツとトランクスを下ろした。そして診察ベッドに横になって医師を見る。この時もまだ俺自身、自分が置かれている状況がまるで理解できていなかった。

 母親の胎内にいる頃から女の子だった? 成人するまでには立派な女の身体になる?

 耳に残った言葉を頭の中で反芻してみる。しかし、まるで聞き慣れない外国語のように脳内でなかなか意味を持つことができなかった。


 多岐川医師は、なにやらしきりに頷いたり感嘆したりしながら、診察用の手袋をした手で俺の下半身をいじり回し、超音波検査機を腹に当てて画像を眺め、最後には俺をCTスキャンに押し込んだ。


 ◇◇◇


「お母さん。詳しい検査の結果が出ましたよ」


 ふたたび呼ばれた問診室で俺と母親を前に、多岐川医師が口を開く。


「雪緒君の身体を詳しく診せていただきましたが、彼のお腹の中にはちゃんとした子宮と卵巣が形成されているのが確認できました。ただ、先ほども申し上げましたが、まだ排卵が起こっていません。外性器は幼児期にはペニスのように見えたかもしれませんが、ペニスの基本的な機能は持っていません。もしも、男性になるのでしたらホルモン療法と同時に性器の形成手術を行う必要があります。それから、これは非常に重要なことですが、雪緒くんには精巣がないのでもしも男性になった場合は子供を作ることはできません」


 それを聞いて母親の表情が固まるのが見えた。


「女性になる場合は、もっと敷居は低いです。ホルモン療法と簡単な手術で済むでしょう。戸籍の性別は、実際の身体が女性なので訂正は容易です。正常に排卵があれば妊娠して出産することもできると思います。この場合は雪緒くんの心が女性として生活していくことができるかどうかが問題となるでしょう。第二次性徴が始まれば男性化の処置は難しくなりますが、今日明日にどうこうなるということはないと思います。ご家族でじっくり話し合われるのがよろしいでしょう」


 ◇◇◇


 自宅に戻った俺は何も言わずに自分の部屋に閉じこもった。帰りのタクシーの中でも、始終黙ったまま。母親は独り言を繰り返すだけで話しかけては来なかった。

 帰り着くとすでに夕飯時を大きく過ぎてしまっていたので、途中のスーパーマーケットで弁当を購入したけど食欲はまるでなかった。


 しばらくして父親が帰宅すると、母親から検査の結果と医師の話を聞かされたようだ。俺の父親は役所に勤務する地方公務員で、最近では珍しい厳しい親だった。


「雪緒。母さんから話を聞いた。正直言って驚いたが、お前が一番辛い思いをしていると思う。男としてやっていくか女になるのか、両方のメリットとデメリットも聞いた。親としても考えるところはあるんだが、まずはお前の気持ちはどうなんだ? ちょっと部屋を出てきて話を聞かせてくれ」


 ドアの向こうから父親の声が聞こえる。でも、俺には何を言っているのかわからなかった。


 終わった。

 俺の人生は詰んだ。


 そんな言葉しか頭に浮かばなかった。

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