第五十四話 男子高校生はお尻で感じる
前話のあらすじ
門倉の爺さんを騙して俺たちの婚約を認めさせるために俺は女生徒として学校に通うことに。ホントにこの作戦で良かったのか? でも嬉々として俺に女子の制服を着せようとする樹里亞。女物の下着までつけて完全に女子高生と化した俺は、ついに学校の門をくぐる。
◇◇◇
俺は焦っていた。
この焦燥感は以前にも経験したことがある。
すべての人間に等しく訪れる生理現象……おしっこ……だ。
朝、樹里亞の家に寄った時に済ませてきたハズなのに、俺は現在猛烈な尿意に苛まれていた。
それは考えるまでもなく想像するまでもなく最初からわかっていたことだった。だけどその時まですっかり忘れていたのだ……女生徒であれば『女子トイレ』を使うという至極当たり前のことを……。
女装の達人。本年度新ミス東陵である俺にとって女子トイレに入ることなど造作もないことだと誰しもが思うだろう。当の俺だって、たかがトイレに入ることがそれほど難しいことだとは思わなかった。
しかし……である。
『女装すること』と『女の子として生活する』ことは同義ではない。程度の差でもない。両者はまるで違うことなのだ。
その上、俺は今まで女装したまま女子トイレに入ったことはないのである。いや、もちろん女装じゃない時だって入ったことはないけれど……。
正確に言うなら、女性用のトイレに入ったことはある。それは例えば水着姿で入るビーチの仮設トイレだったり、コーヒーショップやレストランなどの小さい店舗のトイレだったり……ドアを開ければすぐ個室になっているタイプのトイレだ。そういうトイレは便宜上『男子用』とか『女子用』と明記されてはいるけれど、実際には誰が使っても文句は言われないし抵抗感も少ない。
しかし、デパートとか駅とか公共の建物に設置されているトイレは、まず男女別の洗面所エリアがあって、その中に個室が並んでいる。
これは意外とハードルが高いのだ。
それはなぜか?
個室に入ってしまえばそこはもう個人の占有する空間である。しかし、その手前……洗面台が並んだスペースは『女性しか入ることを許されない公共の場所』だ。これが非常に大きな問題なのだ。
夏休み、みんなで出かけた温泉宿で俺は不覚にも女風呂に入ってしまったことがあったけれど、お互い裸というシチュエーションの温泉に比べたら、女子トイレの方がずっと敷居は低い。しかし、学校のトイレというものはほとんど毎日使うのだ。しかも、俺が男だったと知っている同級生たちと一緒に……。
なかなか踏ん切りがつかないうちに二時限目の中頃になって我慢しきれなくなり、三時限が終わった今は、もう立ち上がるだけで何かが漏れ出てしまいそうになっていた。
これは早急になんとかしないとならない。
できれば誰にも見られずに……。
俺は利用者が少なそうなトイレの場所を思い浮かべる。この時間だったらプール前の更衣室横か、渡り廊下を通った旧校舎だ。プールは水泳の授業があったらアウトだ。そうなると残された場所は一つ……俺は教室を飛び出して渡り廊下を目指した。
「あれ?
誰かの呼ぶ声が聞こえる。その言い方に違和感を感じたけれど、今の俺には返事をする余裕は微塵も残っていなかった。
東陵高校の校舎は校長室や職員室、保健室と各クラスの教室が配置された新校舎と、各学科の準備室、美術室、音楽室、図書室などがある旧校舎が中庭を挟んで建ち、その間を一階と二階の二本の渡り廊下で繋いだ構造になっている。
使用頻度の高い設備を新校舎側に配置した……というわけではなく、老朽化した教室棟がわりと最近建て替えられたために『新校舎』と呼ばれているだけだ。建て替えられるたびに『新校舎』と『旧校舎』の呼び名は入れ替わることになる。
名称は比べるべき対象によって変化するが、その本質が変わるワケじゃない。
二階の渡り廊下を通って入った校舎は、年代が古いために『旧校舎』と呼ばれているだけで、清掃が行き届いた建物は内装も設備もまったく古さを感じさせない。
廊下の片方の端に階段があって、もう片方にトイレが設置されている。目の前の壁には人の形をかたどったブルーとピンクのマークが描かれている。ピンクの方はご丁寧にスカートを履いている。説明するまでもなく、そちらが女子トイレだ。
俺は迷うことなくブルーのマークを選んだ。女子トイレに入りたくなくてこんな辺鄙な旧校舎までわざわざやってきたのだ。
しかし、その選択は失敗だった。俺と同じことを考えるヤツがこの学校にはもう一人いたのだ。
男子トイレのドアを開けて身体を滑り込ませると、洗面台の前に一人の女生徒が立っていた。彼女は俺と同じ女子用の夏服を着て、短い髪を手ぐしで整えるポーズのままビックリした顔で俺を見ていた。
モエモエ王子……
確かに早瀬が女子トイレに入る姿は想像できない。つい最近まで俺はヤツのことを男だと思っていたし、ヤツの制服姿も見たことがなかったからだ。
だけど中身がどうだろうと、女子の制服を着た生徒が小便器の並ぶ男子トイレを当たり前のように使っているのはやっぱり違和感がある。
「なっ! 東條……なのか? お前いったいなんで……そんな……」
シドロモドロになった早瀬を初めて見た。
こんな辺鄙な場所で出くわしたせいか、それとも俺の女生徒姿に驚いたのか。
「えーと、ちょっとトイレに……」
「新校舎のトイレは入りにくいか?」
いきなり心の中を読まれて驚いた。
新校舎とは教室棟だ。つまり、ほかの女子と一緒にトイレに入れないってことがバレている。エスパーかよ、お前!
「女子トイレなんかに入れるか。俺は男なんだから」
「ん? お前、
さも面倒くさそうに早瀬は言う。
やっぱりみんなには俺が性同一性障害だと説明されてるのか。一瞬、診断書はどうしたのだろうと気になったけれど、脳裏に浮かぶ樹里亞の顔がそんなこと些事だと言って微笑んだ。
もちろん『心が女』だって言うのは俺と樹里亞がでっち上げた嘘だ。学校側や他の生徒はどうでも良い。でも、早瀬にはそう思われたままにしておきたくはなかった。
「実はアレ、嘘なんだよ。ちょっと事情があって……」
説明しようと身を乗り出した俺の目の前に、ヤツは人差し指を突き出す。
「ああ。わかってるよ。ホントのお前は男だって言いたいんだろう? つまり俺とお前は同じってことだ。女の身体に男の心。俺たちは立派な異性愛者だってぇのに世間の風当たりは冷てぇよなぁ」
ん? 早瀬は俺がFtM(身体が女で心が男)のGIDだと勘違いしているのか?
確かに俺の心は男子高校生だし、遺伝子的には完全に女で体型もどんどん女に近づいている。でも俺は産まれた時から自分を男だと思い込んでいたし、女だとわかったのは高校生になってからだ。だから俺は自分を性同一性障害だとは思っていない。
だいたい俺は男として樹里亞を愛してるんだ。
レズじゃないぞ。
「お前と一緒にするな!」
「つれねぇなぁ。俺たち親友だろう?」
「元親友だ」
「ひでぇなぁ!『元親友』ってことは『元彼』みてぇなもんじゃねぇか」
「全然違う!」
早瀬の軽口に突っ込む。
女子の制服を着た俺たちが男子トイレでこんな会話をしてるのは妙にシュールだ。早瀬相手だとこんな会話もなんだか楽しい。
「違うってんなら堂々と女子トイレに入れば良いだろ!」
「だから俺は男だって、何度言ったら……」
そこまで言った俺の目の前に、スマホの液晶画面が突きつけられる。肌色で埋め尽くされている写真。
トイレの便座に腰掛け両脚を目一杯広げて撮影した俺の股間のアップ写真。それは先日、ホテルのトイレで撮って
「コレ、お前だろ?」
早瀬がニヤニヤ笑いながら問いかける。
「
ヤツはドヤ顔でそう言った。
その論理に俺は何も答えることはできない。理屈はどうあれ正解だからだ。
「違う! 俺は……」
俺は一瞬躊躇した。
自分の股間写真を早瀬にも送ったのは、あの緊急時に俺のアソコが『男』か『女』かどちらに見えるのか判断させるためだった。
結局、あの豪華でロマンチックなホテルのスイートルームには泊まらずに帰ってきちゃったけど、樹里亞とお泊まりするチャンスがこの先もないとは限らない。その時のために、俺がまだ男なのかどうかは非常に重要な問題だ。
「早瀬、その写真……見て、どう……思った?」
多少の羞恥心を感じながらも早瀬にそう問いかける。
コイツは体こそ女の子だが、心は男。俺から見れば同性だけど股間の写真を見せた事実はやっぱり恥ずかしい。
「うーん。そうだなぁ」
早瀬は俺の目を見つめながらゆっくりと近づいてくる。
「ちなみに俺は自分のことをレズだと思ってねぇ。こんなナリしてるけど、俺の心は男だからな。付き合ってる女の子たちはみんな俺にとっては可愛い異性だ。東條、お前は俺にとって同性だから、お前に対して感じるのは友情だと思ってたんだ。でもなぁ、こんな写真を見せられたら宗旨替えしてもいいかなって……思っちまうだろう?」
早瀬はスマホの写真を見せるようにかざすと、俺を見つめたまま小さな唇から真っ赤な舌を伸ばしてその画面をペロリと舐めた。
エ? ナニソレ!
ナニヤッテルノ、オマエ!
テカ、キタナクネ?
そう思った瞬間。まるでホントに舐められたみたいな不思議な感じを覚えて、次いで腰から背中に電流が走った。
そして俺は思い出す……膀胱に溜まった大量の水分の存在を。
伸びてくる早瀬の手が届く直前、俺は体をかわしてヤツの腕をかいくぐり背後の個室に飛び込む。ヤツとの長話で膀胱が破裂寸前だ。
しかし、ドアを閉める瞬間、なにかにつまづいたように俺の体がバランスを崩す。
振り返ると右足首がヤツに掴まれていた。
片足が後方に引っ張られて、なにかが漏れてしまいそうになる。
離せっ!
俺はその足を軸にして上体をひねり、強烈なひじ打ちを個室のドアに叩き込んだ。
「ガッ!」
合板のドアがおそらく顔面にヒットして、そのままヤツはトイレの床に崩れ落ちる。頭蓋骨がタイルの床に激しく叩きつけられる嫌な音が男子トイレにこだまする。
早瀬は無力化したが、どういうわけかいくら引っ張ってもヤツの手は俺の足から離れない。
もう我慢の限界だった。
ドア下の隙間から突き出た手に右足首を掴まれたまま、俺はパンツを膝まで降ろし体をよじってなんとか便座に座った。
「ぎゃー!」
なんと、俺が腰を降ろした場所に便座はなかった。
誰かがこの個室で立ち小便をしたか、あるいは掃除当番が清掃した後に便座を降ろさなかったのか、便座は持ち上げられたままの状態だった。
俺の尻は洋式便器に落ちたまま身動きがとれない。右足首は床に転がった暴漢に掴まれたままだ。
夏だと言うのに陽の当たらない旧校舎のトイレの便器はヒンヤリとしていた。
このままじゃ出られない!
ノンビリしてたら次の授業が始まってしまう。エスケープごときに罪悪感を感じるほど優等生ではないけれど、トイレにはまって授業に出られないなんて誰かに知られたら情けなさ過ぎる!
それに、こんな場所じゃ樹里亞に助けてもらうわけにもいかない。
なんとか自力で脱出しようともがいていると、ドアの向こうに大勢の足音が響いてきた。
「おい! 女が倒れてるぞ!」
「大丈夫か?」
男子生徒らしき数人の声がトイレに反響する。
近くの教科準備室にきた生徒が俺の悲鳴を聞いて駆けつけたのだろうか?
そいつらは個室の前に集まって早瀬を助け起こそうとしてるようだ。コイツらが早瀬を引っ剥がしてくれたら、俺は無事にトイレから脱出できるかもしれない。
助かった。
「腕が抜けないぞ」
「どうなってんだ?」
俺はぎょっとした。早瀬の顔面に叩きつけたドアはわずかに開いている。おそらくヤツの頭か肩に当たっているのだろう。もちろん鍵なんかかかっていない。
急いで鍵を掛けようと必死に手を伸ばしたけど届かない。
ゆっくりと開きかけるドアに、唯一残った左足を押し付けて思い切り踏ん張った。
「開かねぇ。なんか引っかかってるみたいだ」
「おい! 中にも女の脚が見えるぞ!」
床に伏せて、ドア下の隙間から覗き込んだらしい男子生徒が叫ぶ。
見るんじゃねぇよ!
それに、俺は男だ。
「大変だ。お前、先生呼んでこい!」
そう言うが早いか誰かが駆け出していく音がする。
ちょっと待て。そんな
でも、焦った俺の口から言葉が音になってくれない。
俺はただ、トイレに入りたかっただけなのに、なんでこんなことになった?
女生徒として通学することになった初日から、人気の少ない男子トイレで女物のパンツを降ろしたまま、レズ女に足首を掴まれて便器にはまってしまった俺。
こんなことなら大人しく女子トイレに入るべきだった。
無理な体勢で左足でドアを踏みつけながら俺は後悔していた。
しばらくして、たくさんの足音が男子トイレのタイルに響き渡るころ、冷たくなった俺の尻になにか温かいものが触れるのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます