第十四話 男子高校生は口づけをする

前話のあらすじ


 初詣の帰り道。甘味処でクリームあんみつを楽しんでいた俺たちだが、樹里亞との仲をまだ気にしていた宏海に俺たち付き合ってる宣言。ホテルの件をバラされた夕夜がキレて俺はキレ痔高校生に決定。みんなと別れた後、思い出の場所で俺は樹里亞に真相を問い詰められて絶体絶命。


 ◇◇◇


 生まれてこのかた嘘をついたことがない……そんなことを言うヤツは大抵のところ嘘つきだと言うのは誰でも知ってることだ。

 でも、俺は、樹里亞じゅりあを相手に……という注釈付きではあるものの、今までホントに嘘をついたことがなかった。


 その理由は二つある。

 一つは樹里亞が小さな頃から持っていた特殊な能力に由来する。彼女は相手の言葉の真偽を見抜く天才なのだ。もちろんそれは、魔法とかテレパシーとかそんなファンタジックな力じゃなくて、記憶力と観察眼、それと驚異的な洞察力によって実現する能力なのだ。

 事実、彼女に嘘をついてきたクラスメイトや大人たち、そして家族を含む全員がそれを看破されている。その能力を小さい頃からすぐ近くで見てきた俺にはそのスゴさがわかる。

 そして、その悲しさも。

 幼少期から彼女を取り巻いていた打算と欺瞞に満ち溢れた環境こそが、驚異的な能力を開花させる原因だったと思うと、俺は樹里亞に対して嘘をつこうという気にはなれない。

 そしてもう一つ。俺は彼女に嘘をつく必要がなかったのだ。

 小さい頃から華奢で小柄だった俺は、歳の近い近所の子供や同級生たちと対等に渡り合うために虚栄に頼って生きてきた。昔のことだから正確な内容は覚えていないけれど、俺は自分を守るための盾としてたくさんの幼稚な嘘を並べ立ててきたのだ。

 でも樹里亞は俺にとって、そんな盾を必要としない存在だった。

 彼女は俺にとって唯一嘘をつかなくて良い相手であり、同じように樹里亞にとって俺は唯一嘘をつかない存在だったのである。


 つまり、何が言いたいのかと言うと、そんな理由で俺はどうしても樹里亞に嘘をつくことができないのだ。


 ◇◇◇


「痔なわけないでしょ? ホテルでいったいなにがあったの? ちゃんと話して」


 あの思い出のブランコに腰掛けて、今俺は幼馴染みにマフラーで首を締められながら脅されていた。


 もちろん、痔の話は夕夜ゆうやたちを欺くためのもので、その程度の出まかせが樹里亞に通用するハズがない。聡明な彼女のことだから、俺がその話題に触れたくないこともわかっているハズだ。それなのに問いただそうとするのは、大きな不安を感じているということだろう。

 鈍感な俺だってこのくらいのことはわかる。樹里亞とは物心ついた頃からの付き合いだ。だから俺は樹里亞を安心させるために、ちょっとだけ息苦しいけれど瞳を見つめて真摯に話しかける。


「俺は大丈夫だよ。心も身体も健康。ただ、ちょっとだけ専門家に相談しなきゃならないことがあって、大学病院に通ってる。繰り返すけど、病気じゃないよ。たぶんすぐにケリがつくだろうし、そうしたら必ず話すから、それまでちょっとの間だけ待ってて。俺はどこにも行かないよ」


 それだけ聞くと、彼女はマフラーを握る手を緩めて俺の首に両腕を回す。

 俺の言葉に安心して、納得してくれたのだ。誰よりも美しくて強くて、そして聡明な彼女が俺の態度に不安を感じて動揺し、そして今、俺の言葉を無条件に信じて理解してくれる。


 こんなに素晴らしい女性が他にいるだろうか。

 樹里亞が最高に愛おしい。

 俺は体の内側から湧き上がる感動に押し流されて、彼女の腕を解いてその頬に両手をあて、柔らかな唇に顔を近づける。


 あと20センチ。


 10センチ。


 もう少しでキス……というところで俺の情熱が阻まれた。樹里亞の手のひらが俺の胸を押し返している。

 視線を上げると彼女はクスクスと笑っていた。


「なぁに? 雪緒。どうしたの急に」


 えーと、その女神のように優しい微笑みと、綺麗な指先が俺に突きつける拒絶とは矛盾してはいないだろうか?


「え? いや……あの、キス……しようと思って……」


 しどろもどろになりながら、それでも俺は正直に言ってしまう。彼女に嘘はつけないのだ。

 すると樹里亞の瞳がわずかに見開かれた。


「キスってなんだか知ってるの? もう、小さい頃とは違うのよ」


 うん、知ってるよ。唇と唇をくっつけて……って、樹里亞はそういうことを聞いてるんじゃないだろうな。俺だってそのくらい理解している。


「恋人同士がするものだろう?」


 あえて言葉にするとメチャクチャ恥ずかしいけどね。


「あら。あたしたち、いつ恋人同士になったのかしら」


 え?

 夢も希望も救いもない答えが樹里亞の可愛らしい唇から飛び出す。

 恋人同士じゃなかったの?

 だって夕夜が言うには、俺たちはもう付き合ってるって……。


「ああ、そうか。付き合ってるけど恋人未満の微妙なニュアンスのアレだよね……」


 樹里亞の言葉があまりにショックで、俺はもう自分が何を言ってるのかわからない。


「けっこういつも一緒にいるけど、付き合ってるってゆーのも違うかなぁ。てゆーか『恋人』も『付き合ってる』も意味同じじゃない?」


 そう言って彼女は笑う。

 俺が勝手に勘違いしていたのか?

 いや、勘違いしていたのはアホ馬鹿夕夜ゆうやで、俺はそのアホに騙されて……って、ダメだ。これじゃあ俺が夕夜よりもっとアホだと証明するようなものだ。

 それに今日、宏海にも付き合ってるって言っちゃったし。

 夕夜はいいとしても、るちあは今日の話をもう聞いてしまっているかな? どうすれば問題なく訂正できるだろう? いや、これはそもそも訂正が必要なことなのか? でも、樹里亞本人が付き合ってないと言ってるのに、俺が勝手に勘違いをしてるなんて恥ずかしい状況には耐えられない。いや、それともこれって俺が我慢すればいい問題だったっけ?

 ああ、もう。頭の中がグルグル回って冷静に考えられない!


「付き合ってるとは言えないけれど……雪緒がしたいならしてもいいわよ……キス」


「え? いいの?」


 俺は、もうこの日何度目だよ……と突っ込まれそうな間抜けな質問を返したけど、彼女はちょっと首を傾げてから俺の目を見て小さく頷いた。


 してもいいんだ……キス。


 あれ? でも、どういうこと?

 だったらなんで、さっきは拒絶されたの? 俺。

 てか、恋人同士じゃなくてもしていいの?

 女の子ってそういうのこだわらないのかな。

 それとも樹里亞が変わってるの?


 いや、理由なんかどうでもいい。せっかくいいって言ってるんだから、彼女の気が変わらないうちにしちゃおうじゃないか……キス。


 正しい作法なんかわからない。とりあえず、同じ目線でしゃがんでいる樹里亞の背中に両腕を伸ばして、コートに包まれた彼女の意外に華奢な身体をゆっくり引き寄せた。

 それだけで唇はもう目の前だ。

 彼女の長いまつ毛が伏せられて、やがて静かに閉じられる。


 ここでまたなにか邪魔が入ると思うだろう?

 ところがそんなものは入らないのだ! 樹里亞の可愛い唇はもう俺のもの。今からはすべて俺のターン。


 唇がなんのためにあるのかご存知だろうか?

 哺乳類の赤ちゃんがおっぱいを吸うために必要だという説もあるけど、粘膜が表面に見えるほど露出しているのは類人猿のごく一部と人間だけらしい。そしてキスをするのも彼らと俺たち人間だけ。

 つまり、唇とはキスをするための特別な器官なのである。

 樹里亞のキスするための可愛い器官は、本来の目的を果たすべくツヤツヤと輝いて俺を待っていた。


 『据え膳食わぬは男の恥』とはまさにこのシチュエーションのためにある言葉。

 そう、ここでキスしないのは男の恥だ。男の……男?

 ここで俺は余計なことを考えてしまった。考えてはダメだと必死になって自分に言い聞かせるけど、そう思えば思うほど俺の思考は坂道を転がる石のように加速し始める。

 俺はこのまま樹里亞とキスしてしまってホントに良いのだろうか?

 もちろん俺は男だ。遺伝子はどうであれ俺はそう思っているし、それには何の問題もない。

 ところが、樹里亞の立場に立って考えると話は違ってくる。今の俺は男の外見をして男のように振舞っているものの、完全な男とは言い切れない。生物学的に見ればほとんど女だ。


 そんな俺が、樹里亞にキスをしても良いのだろうか。


 考えるまでもない。

 例えば俺が抱えている問題が、今の俺にとってどうしようもないことなのだとしたら、仕方がないとあきらめてこのままキスするのもアリだろう。でも、俺が男であろうとするためにできること……しなくちゃいけないことがまだいくつかあるハズだ。

 俺は完全な男になる。完全と言ってももちろん限界はあるけれど、男であるためにすべきことをしなくては、自分は男だと胸を張って言うことはできない。

 これは身体に限ったことではない。矜恃にかなった生き方が自分にできているかということだ。それができずして自分の欲求だけを通そうとする愚か者を男と呼ぶことはできない。

 男とはそういうものだと俺は信じる。


 正月休みが明けたら多岐川たきがわ医師のところへ行こう。手術を終えてすべてが解決したら、樹里亞に全部話して彼女をこの腕に抱きしめよう。ホルモン治療には少し時間がかかるかもしれないけど、それまでは彼女とのキスをしばらくの間、預けておく。


 近づけた唇が彼女の額に触れる。

 樹里亞がちょっとだけ驚いたような顔をしてまぶたを開けた。

 これこそ男の美学。ああ、俺って今最高にカッコいい! 自分で自分に惚れてしまいそうだ。


「あら? キスっておでこにするものだったの?」


 俺は黙って樹里亞の瞳を見つめる。


「ふふふ」


 彼女は優しく微笑んだ。


「可愛いわ、雪緒。あなたはそのまま変わらないでね。醜いヒゲも喉仏もダメよ」


 彼女が俺の頬に触れる。

 手袋の柔らかく滑らかなレザーを通して、樹里亞の指先の温度が伝わってくる。


 確かに俺は可愛い。自分で言うといろんな意味で気持ち悪いけど、今まで周りからそう言われてきたからこそ、大勢の人の前で平気で女装できるんだ。

 でもそれは不特定多数の赤の他人の意見であって、二人きりのときに樹里亞の口から囁かれるべき言葉じゃない。

 一言で言えば、嬉しくもなんともないのだ。


 俺が聞きたいのは……。

『男らしいわ。雪緒』 とか 『格好いいわ。雪緒』

 という言葉。

 しかも俺はたった今、実に男らしい決断をしたハズばかりなのに、それに対する彼女の評価が『可愛い』では、せっかくキスを我慢した俺の立つ瀬がないじゃないか!


 その上、彼女はこうも言った。ヒゲも喉仏もダメだ……と。

 確かに、体毛が濃い男に拒否反応を示す女の子は多い。でも、高校生にもなれば男はヒゲが生えて当たり前だろう。俺は生えてないからわからないけど、去年のスキー合宿の時には髭剃りを持ってきていたヤツだっていた。喉仏に至ってはカッコいい男の特徴だろう。それがダメだと言うことは、俺に男らしくなるなと言っているのも同然だ。


 樹里亞はいったいなにを言ってるんだ?

 『あんたなんか、その女々しい姿で生きていきなさい』……とかいう感じのサディスティックな意地悪なのか?

 いや、彼女はそんな女じゃない。

 ひょっとして俺は、今までとんでもない勘違いをしていたのだろうか。

 俺が目指していたものは、間違いだったのか。

 俺は……。


 そんな堂々巡りの思考は、突然中断させられる。

 男の美学にこだわってあきらめたばかりの誘惑……樹里亞のツヤツヤの唇が俺の唇に重ねられていた。

 そして、そのままゆっくりと押し付けられていく。


 俺はキスしていた。

 いや、正確に言うなら『されて』いた。

 樹里亞の唇はとても柔らかで……そして、最高に気持ち良かった。

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