第九話 男子高校生は乳首がこすれて……

 スチール製のロッカーが整然と並び、着替えるために使えるスペースを圧迫している。ここは東陵高校の校庭側更衣室……男子用だ。

 一部の運動部も部活の際にここを使用するため、思春期真っ盛りの男子生徒の汗と、手入れされていない道具たちが発する異様な臭気で満たされた、腐海のように過酷な空間である。

 冬場ならまだ我慢して使うこともできるが、猛暑を記録した今年の夏はヤバかった。昼食後の授業では更衣室のあまりの異臭に気分が悪くなる生徒が続出し、ことの重大さにようやく重い腰を上げた学校側が専門の業者に清掃を依頼する事態になった。

 業者の本格的な清掃が功を奏して現在は問題なく使用できているようだが、あの臭いを思い出すだけで胸がムカついて今でも何かが込み上げてくるような気がする。

 そんな更衣室で、体育の授業を終えた俺たちは着替えの最中だった。


 スキー合宿の際に宏海ひろみに下半身を見られて以来、なんとなく彼の近くで着替えるのに抵抗があった。もちろんパンツまで脱ぐわけじゃないけど、気がつけば無意識のうちに距離を取っていた。

 宏海はそういう細かいことに気がつくタイプじゃないから、彼に対して俺もそれほど気にする必要はない。

 そしてもう一人、そういう心の機微に疎いヤツがいた。


東條とうじょう、まだ終わらないのか? もう鍵閉めるぞ」


「なっ! ちょっ! おまっ! まだ着替えてんだよ。ちょっとくらい待てよ」


 夕夜ゆうやは相変わらずだ。

 大切な彼女が、俺にベタベタしてくることが気に入らないのだろう。哀れなヤツめ。その理由を知ってる俺は素直に喜べないけど……。

 昨今の防犯意識の高まりで、昼休み前や放課後などは更衣室も施錠する決まりになっていた。鍵を管理するのは体育委員の彼なのだ。そんなもの俺に預けてさっさと行ってくれた方がありがたかった。まあ、妙に真面目で融通が利かない夕夜には無理な相談だろう。文句を言いつつも待ってくれているところを見ると案外良い奴なのかもしれない。


 それにしても着替えにくい。

 さっきから夕夜がドアのところに立って俺の着替えをじっと見ているのだ。

 見られて困ることなどないけれど、こんな状況でなにも感じずに無邪気に着替えられるほど俺の神経は図太くない。

 あの多岐川たきがわ医師の宣告以来、自分の身体を嫌でも意識してしまう。

 まさか、るちあが抱いていた疑惑をコイツも感じているんじゃないだろうな。俺に興味を持った理由を彼女に聞かされて、夕夜までもが俺を『性同一性障害の女』だなんて疑ってたら……。

 嫌な考えが頭を駆け巡り、着替える手がさらに遅くなっていく。


「何やってるんだ? 本当に着替えてるのか?」


 夕夜がそんなことを聞いてくる。

 もしかして見えてない? まさかコイツ、単に目が悪いだけ……なのか?


「今日はバスケだったから眼鏡は教室に置いてきたんだ」


 そういうことは先に言え、馬鹿野郎。

 俺は、ほっとして着替えの続きにかかる。

 しかし、体操着の上着を脱ごうとした時、胸に鋭い痛みを感じた。


「痛てててっ!」


「どうした東條。ファスナーにでも挟んだか?」


 なにをだよっ!

 襟元を広げて痛かった部分を覗いてみると、なんと両方の乳首が真っ赤に腫れて熱をもっていた。


「なんだこれ?」


 思わずつぶやくと、目の前に夕夜が迫っていた。


「うわっ! ビックリした」


「なんでだよ! どうした? 見せてみろよ」


 そう言って夕夜は俺の体操着をめくり上げる。あまりの自然な動作に抵抗することもできなかった。

 俺の乳首を凝視し続ける夕夜。しかし、ヤツはなにも言わない。

 やっぱり、俺の性別を疑っているのか?

 はたして俺の乳首は男のものに見えているのだろうか。今までに見たヌード画像や男性下着の広告写真を思い返す。でも自分じゃよくわからない。

 あれから毎日のように考えているけれど、やっぱり身体のことは知られたくない。『身体が少しづつ女になっている途中』だなんて周りの連中に知られていると思ったら、普通の顔をして学校になんか来れるワケがない。

 俺は自分の身体のことを秘密にしたまま高校三年間を過ごして、男子生徒として卒業したい。そして、樹里亞じゅりあにプロポーズするのだ。


「コレ、なにか塗ったのか?」


 頭に浮かんでいた愛しい幼馴染の映像が突如として真っ赤に染まる。

 なんだって?

 夕夜の言ってるのが俺の乳首のことだと理解するのにちょっとだけ時間がかかった。


「そんなわけないだろー!」


 人の乳首をなんだと思ってるんだ。普通、男は乳首を赤く塗ったりしないよ! 女だってしないけど。 いや……しないよな? それともまさか俺が知らないだけで、赤く塗ることってあるのかな? おまじないとか?


「じゃあコレ。スレたんだな」


 は? 『スレタン』ってなんだ?

 疑問だらけの俺に夕夜が解説を始める。


「長距離ランナーとかだと、お前みたいに乳首が服に擦れて痛くなることがあるんだよ。中学で陸上やってた奴から聞いたことがある。酷い場合だと出血してシャツが真っ赤になったりするらしいぞ」


「恐っ!」


「とりあえず保健室行って軟膏もらって塗っとけ。すぐ治る。それから、体育の時は乳首に絆創膏を貼っておくんだ。そうするとスレて痛くなることもなくなる」


 その的確な状況分析とアドバイスに俺は舌を巻くしかなかった。

 夕夜め。なんて博識なヤツなんだ。

 しかも、嫌っているハズの俺にそこまで親切にしてくれるなんて……。俺はコイツのことを誤解していたのかも知れない。


「夕夜。東條くん。中にいるの? そっちのクラス、ホームルーム始まってるよ」


 聞き覚えのある声が更衣室の外から聞こえる。


「るちあ?」


 俺はつられて返事を返すと、開いたドアから彼女がひょこっと顔を出した。彼女のクラスはすでにホームルームが終わって清掃に入っているようだ。しかし、るちあは顔を覗かせたまま動かない。彼女の大きな目と小さい口がまん丸に開かれていた。


「あなた達、いったいなにしてるの?」


 そんなの、見ればわかるだろう?

 そう言おうとして自分の姿をもう一度確認する。

 俺は着替えの途中で、下は制服のズボン、上は体操着。そして夕夜は、その俺の体操着を捲り上げて乳首に顔を近づけ……。

 え? 待てよ。俺がやってることって変かな? 男って普通は同性に乳首を見せないものなのか? いやいや、見せる見せないというレベルでの判断自体がおかしいよな?

 俺は急に恥ずかしくなって体育着の裾を引っ張って降ろす。


「東條くん。なんで赤くなってるの?」


 いや、それは、服とスレたからで……。


「あなた、自分は男だって言ったじゃない!」


 確かに、俺を性同一性障害の女だと誤解していた彼女に、間違いを訂正したけど……。

 男だって言ったけど……俺にだって、自分が男だって言う権利はあるよな?


「それなのに、どうして夕夜におっぱい見せてたの?!」


「おっぱ……え?」


 俺と夕夜は驚いて同じセリフを返す。

 るちあは何かとんでもない思い違いをしている。俺は自分のぺったんこな胸に対して『おっぱい』だという認識を持ったことは今まで一度もないぞ。というか、普通の男はそうだよな?


「夕夜も夕夜だよ! なんで東條くんのおっぱい凝視してるのよ! あたしのじゃ不満だっていうの? 好きって言ってくれたのは嘘なの?!」


「ちょっとまて、るちあ。お前なにか誤解してるぞ。東條は男だぞ」


「そういうことを言ってるんじゃないのよ! 夕夜があたし以外の人のおっぱいに興味持ってるのが嫌なの!」


「興味なんて持ってないよ。東條が乳首が痛いっていうから……」


 夕夜が途端に慌てだす。

 これは面白いことになってきた。ストーカー事件の時の借りをここで返してやる。

 乳首擦れのアドバイスには感謝しているが、それとこれとは話が別だ。こんなに面白いシチュエーションにはそうそうお目にかかれない。


「そう。乳首が痛いって言ったんだよ。そうしたら夕夜が近づいてきて……無理やり俺の服を……」


 そう言って、俺は両手で自分を抱きしめて肩を震わせる。

 どうだぁ? リア充野郎! これでお前はおしまいだ!


「ホントなの? 夕夜」


「いや、その……違うんだよ、るちあ」


 違わないだろう? お前が服を捲ったんだろう? 忘れちまったのか? まあ、別に俺の乳首に興味があって捲ったわけじゃないだろうけどな。


「あたし、こんな胸で小学校のころからずっと悩んでたのよ。男の人にはジロジロ見られるし、女の人には嫌味を言われるし、重くて辛いし、服も下着もぜんぜん選べないし……だけど、夕夜がそんなあたしが良いって言ってくれたから! それなのに……!」


 るちあが声を震わせて俺たちを睨んでいる。


「何言ってるんだ。コイツの胸には魅力なんかないよ。こんな真っ平らな洗濯板になんか、母性も癒しも、およそ女性の優しさというものを何も感じることはない。俺にとってお前の胸が最高だよ」


 歯が浮くようなセリフが次々と夕夜の口から飛び出す。

 それにしても、俺に胸がないことはごく当たり前のことのハズなのに、そこまで言われると人間的な価値まで否定されているみたいでなんだかわからないけど腹が立つ。


「あたしの……胸だけ?」


「とんでもない! るちあの全てが俺の理想だよ」


「あたしのこと、どう思ってる?」


 るちあがじっと夕夜を見つめる。彼女の瞳はわずかに左右に振れ、揺れ動く彼女の心を表しているようにも見えた。


「好きだよ、大好きだ。お前は最高の女だ。俺にはお前しかいない」


 夕夜のその言葉を聞いた瞬間、怒りと悲しみに支配された表情が消えて、彼女は満足そうに微笑んだ。


「わかったわ。許してあげる。後で迎えに行くから一緒に帰ろうね」


 は?

 ナニソレ。これで終わり?


 俺はこのとき、さぞマヌケな顔をしていたことだろう。


 ◇◇◇


 学校からの帰り道、樹理亞じゅりあにこの話を聞かせた。

 俺にはるちあの振る舞いが理解できなかったのだ。


「るちあが本気で怒ってると思ったの?」


 さも当たり前だと言うように樹理亞が応える。


「柘植くんって筋金入りのおっぱい好きらしいわよ。それは、るちあが一番良く知ってるでしょ」


「でも、すごく怒ってたし悲しんでた。その……大きい胸にずっと悩んでたって」


「あはははは。そういう風に言えば褒めないわけにいかないでしょ? 普段は恥ずかしがって『好きだ』って言わないんじゃない? だからたまにそうやって口に出して言わせてるのよ」


 そう言って樹理亞は笑った。

 女って……。

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