第六十七話 男子高校生は幼なじみに再会する
前話のあらすじ
地方検事から戸籍の性別変更を頼まれて戸惑う俺。男である未練はもうないけれど、このまま女になるのは恐い。宏海に反対して欲しかったけど、どうやら俺は昔から女らしいヤツだと認識されていたようだ。それを知ってしまった俺はついに戸籍を変える決心をする。
◇◇◇
到着ロビーの長い長い真っ直ぐな廊下を、まるでランウェイを歩くファッションモデルみたいに背筋と膝をピンと伸ばした彼女が近づいてくる。ゲートを通過した後、ゆっくり辺りを見回し俺を見つけて駆け寄ってきた。
『
彼女の長い睫毛が見開かれ、唇から溢れる無声音が俺の名前を囁く。引っ張ってきたスーツケースを放り出し、広げた両腕で俺に抱きついた。彼女は俺の幼なじみであり元カノでもある『
俺の身長は159センチ。対する彼女は170センチ。ちょっとヒールの高い靴を履いた彼女に頭を抱きかかえられると、必然俺の鼻先は柔らかな膨らみに押し付けられることになる。
久しぶりの彼女のハグはとても柔らかで、時間を巻き戻してあの頃に戻ったように錯覚してしまう。
でも、もう俺たちは恋人同士じゃない。
俺はもう男じゃないし、彼女は俺の婚約者じゃないのだ。
それでも、彼女は帰国の日時を俺に連絡してくれた。
「事件のこと……聞いたわ。すぐに帰りたかったんだけど、遅くなってごめんなさい」
そう言って樹里亞はもう一度俺を強く抱きしめた。
◇◇◇
樹里亞が出かけていたロサンゼルスから羽田空港までは直行便でも十二時間前後かかる。機内でも渡米中に片付かなかった作業の続きをしていたらしい。高校生の彼女がどうしてそんなに忙しいのかと不思議に思ったけれど、ある出来事のせいで、やらなくてはならない作業に追われていた。その出来事とは……。
「門倉の爺さんが死んだって?」
俺は空港のカフェの椅子を蹴り倒して立ち上がっていた。樹里亞が静かに目を伏せて頷く。彼女の結婚相手に厳しい条件を出していた祖父『
「以前、ホテルでお爺様に会ったでしょ? あの頃にはもう心臓がかなり悪くなっていて、お医者様には既に余命宣告を受けていたの。でも、ロサンゼルスに新しい治療法を試してる専門の医師がいて、一縷の望みをかけてあの日に渡米したの。日本での認可を待ってる余裕がなくて、治療を受けるには海外に行くしかなかったのよ」
長い睫毛を伏せて、彼女はカプチーノのカップを両手で包むように掴む。
門倉の爺さんは世界数カ国に展開する巨大ホテルグループを一代で築き上げた総帥であり、孫娘の結婚相手に厳しい注文をつけるようなワンマンな人物でありながら、本人はカジュアルなファッションを好む気さくで穏やかな年寄りだった。
爺さん個人の持ち物だと言うスイートルームで、苦手な酸っぱいコーヒーを飲みながら話したことを思い出す。爺さんはあまり時間が残されてないって言ってたっけ。あの時は飛行機の出発までの時間だと思っていたけど、こういう意味だったのか。
「お爺様はロスについてすぐにその医師に診てもらったの。即日入院してすぐに治療が始まったのだけど、その時にはもう手遅れだったみたい。あたしが早退した日を覚えてる?」
忘れるハズもない。それは樹里亞が俺の目の前から消えてしまった日だ。
「ロスの病院からお爺様が危篤状態だと知らされて、家に帰って取るものもとりあえず家族で飛行機に乗ったの。詳しい事情もわからなかったし、お爺様にもう会えなくなってしまうかと思って恐かったわ」
そう言って彼女は俺の瞳を覗き込む。
俺が会った時にはまだピンピンしていたのに、いや、それどころか俺に、ホントは樹里亞のことを好きじゃないだろう……なんてとんでもないことを飄々とした顔で言い放っていたのに。
「樹里亞は、大丈夫?」
「あたしは、向こうでいっぱい泣いてきたから……」
爺さんは今、ロサンゼルスの墓地に眠ってるらしい。日本では実務的な社葬だけに留めて、親類と親しい友人たちに囲まれた葬儀は本人の遺志でアメリカで行われたという。
一度しか会ったことがない爺さんが死んだと言われても、俺には今ひとつピンとこない。目の前の樹里亞がそれほど悲しそうな顔をしていないから、余計にそう感じるのかもしれない。それでも、なんとなく寂しい気がして、俺はなにかを探すように店内を振り返る。
「でもさ……」
爺さんが死んだのなら、樹里亞の結婚相手の問題は無くなるんじゃないのか?
そう思ったけれど、今さら俺がそれを聞いても意味がないことに気がついて、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「あたしたちが病院に着いた時にはベッドで静かに眠っていたの。目が覚めたら今度こそ雪緒とのことを認めてもらおうと思って病室に泊まり込んで待ってたのに、お爺様はそれっきり一度も目を覚まさずに逝ってしまった……」
ロスに置いてきたと言う涙が、彼女の瞳を縁取る。
「お爺様はまだ自分が死ぬことなんて全然考えてなくて、抱えていたいくつもの案件が残されたままだったの。グループ企業内でもオープンにできないような機密事項が含まれていて、お父様と一緒にその後始末に追われて、なかなか連絡ができなかったの。ごめんなさい。でも、できることなら生きてるうちにお爺様に認めてもらいたかった。雪緒こそがあたしの生涯のパートナーに相応しいんだって……」
そう、俺が女生徒の制服を着ているのも、元はと言えば門倉の爺さんに俺たちの結婚を認めてもらうための超裏ワザみたいなものだったのだ。
今から考えてみれば突っ込みどころ満載のズサンなシナリオではあるけれど、俺自身の体が顕著に女性化していったこと。それと前後して学校側から女子用水着の着用を強制されたこともあって、その計画を実行するのが最適なんだと思ってた。
そうしなくても、遅かれ早かれ身体の秘密はバレて、俺は男子高校生としての肩書きを失うことになっただろう。最終的に転校したり退学したりせずに済んだのは、そんな環境を用意してくれた樹里亞やみんなのお陰だ。
でも、途方もなく高いハードルだった爺さんはもういない。
そして女になってしまった俺も樹里亞の婚約者としての資格を失った。
ああ、そうか。これでやっと彼女に真実を話すことができる。もう俺は彼女との約束を果たすことができないのだから。
そう考えると不思議と気分が落ち着いてきた。
「樹里亞」
「なぁに?」
「ずっと黙ってたことがあったんだ。去年の東陵祭のミスコンの時からの話なんだ。すごく長い話になるんだけど聞いてくれる?」
樹里亞は優しい表情のまま俺を見つめて静かに頷いた。
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今まで樹里亞にホントのことが言えず騙していたことを正直に話して、俺は彼女にこれまでの罪を懺悔した。
隠していたことの罪悪感と後悔で目頭が猛烈に熱くなって、途切れそうになる言葉を必死に紡いでいく。
「今まで辛かったわね。でも、もう苦しまなくていいのよ」
樹里亞はそんな俺の告白を聞いても怒りもせず、隣に座って俺の頭を抱きしめる。
その優しさに、嗚咽を抑えきれなかった。
◇◇◇
「俺、ちょっと外のコンビニでなにか飲みものでも買ってくるよ。樹里亞はここで
空港からの帰り、彼女を連れて宏海が入院している病院にお見舞いにきた。今日はどうやら妹の
空港から乗ったタクシーの中で、宏海がどれだけ頑張って俺を助けてくれたのか、彼がどれほど頼りになって、如何に格好良かったかを身振り手振りを交えながら熱く力説してやった。
宏海が樹里亞に好意を持ってるのは前から知っていた。でも、俺に遠慮して身を引いたのだ。もちろん、正々堂々と競い合ったとしても彼女を奪われる俺ではない。なんと言っても樹里亞の命のお恩人だからね……ぜんぜん覚えてないけど。
だけど宏海が遠慮したのは、俺のことを男だと思ってたからだ。女だとわかればもう遠慮する必要なんかなくなる。オマケに今の俺は樹里亞の婚約者としての資格を失って彼氏役を降板している。
俺としても彼女がどこの誰かもわからない男と一緒になるくらいなら、宏海と付き合ってくれた方が安心できる。それってとても傲慢な考え方だとは思うけど、そんなことくらいしか彼らに報いる方法が思いつかない。
正義感が人一倍強くて長身イケメンの宏海と、東陵の女帝とまで言われた才色兼備の樹里亞。お似合いのカップルじゃないか。
あとは名誉の負傷でベッドに横たわった宏海が積年の想いを樹里亞に告白すれば、彼女だって男前の彼を意識せざるを得ないハズ。小さい頃から俺とずっと一緒だった樹里亞だから、そうカンタンに他の男には目が行かないかも知れないけど、そんな時は俺がもうひと肌脱いだって構わない。
病室を出てエレベーターホールに向かう。エレベーターは患者や医者などが使う一般用と、車椅子やベッドを運ぶ大型とに分かれていて、俺が乗った一般用は内壁の一部が大きな鏡になっていた。髪は少し伸びたけれど、真っ黒いTシャツにカーゴパンツ姿の俺は見方によっては十分男の子に見える。
病院のロビーを足早に横切って出入り口の自動ドアを抜けると、空はグレー色の曇天だった。
喧嘩っ早いワルを気取ってるけれど、宏海はああ見えて超奥手だ。親友の俺は良く知ってる。チャンスがあってもなかなか踏み出すことができない。だから、とにかく二人っきりの時間を十分に確保する必要がある。
飲み物を買うだけなら病院内の売店で事足りるけど、それではあっという間に用事が済んでしまう。俺は一旦病院の敷地を出て表通りの角のコンビニに向かった。可能な限り、ゆっくりと。
なにを飲もうか考えながらコンビニの自動ドアを抜けると、レジの横に鎮座している大きな機械が目についた。コンビニチェーンの大型コーヒーメーカーだ。
そうだ。今日はコーヒーを攻略するのに絶好の機会かもしれない。
喫茶店で出されたコーヒーが飲めなかったら目も当てられないけど、テイクアウトなら気軽に捨てられる。
店員にサイズを言って硬貨を渡し、カップを受け取る。巨大なコーヒーメーカーにカップをセットして、少しだけマゴつきながら目的のボタンを押す。コーヒー豆が挽かれる音がして、しばらくすると熱くて真っ黒な液体がカップを満たした。
病院の駐車場に設置されたベンチに座ってコーヒーのフタを開けてみる。機械が淹れたコーヒーなのに、今まで感じたことがない濃厚な香りに包まれた。
店員の目を気にしながら多めに持ってきた砂糖とミルクを入れてかき混ぜると、なんだかとても美味しそうに見えてくる。
火傷しないように気をつけながら一口すすってみると……やっぱり苦い。でも不思議とイヤな苦味じゃなかった。
なんだ。ずっと苦手だったコーヒーだけど、飲んでしまえば案外美味いじゃないか!
これが『大人の味』ってヤツなのだろう。
大人に一歩近づいた喜びに、なんだか気分がウキウキしてくる。
今ごろ宏海は樹里亞とどんな話をしてるだろう。彼のことだから告白する時は直球勝負で行くだろうけど、投げるまでに時間がかかりそうだからなあ。俺がこのコーヒーを飲み終わる頃には、樹里亞の心をガッチリ掴んでくれるといいんだけど。
そんなことをぼおっと考えていたら、ポツポツと小雨が降り出してきた。見上げると空は暗くなっていて、これから雨が強くなりそうな気配。
でもまだ陽気は暑いし、黒のTシャツに厚手のカーゴパンツ姿だから少しぐらい濡れても大丈夫。コーヒーを持ったまま病院に入るのは気が引けるし、なにより宏海がグズグズしている可能性もある。
「秋雨じゃ。濡れていこう」
クスクス笑いながら、そう独りごちる。
「それって『春雨じゃ』じゃないの? 雪緒ちゃん」
突っ込む声に視線を上げると、自分の表情が強張るのを感じた。
真っ黒の傘を差して目の前に立っていたのは宏海の妹『真琴』だった。傘の内貼りは真っ白の雲がいくつか浮かんだ突き抜けるような青空で、なんだかちょっと可愛い。
以前、取っ組み合いのケンカをしてから俺たちは仲良しになった。彼女に言わせると、俺は宏海に大事にされていて、妹の自分も大事にされてる。だから、真琴と俺は仲間……ということらしい。女子中学生が考えることはイマイチよくわからん。
巨乳だけど……。
でも、コイツと宏海の病室で鉢合わせした時、初対面の女である俺――自分を女と定義するのは未だに抵抗あるけど――に敵意をむき出しにしていたっけ。もしかしたら重度のブラコンなのかも知れない。
だとしたら、今こいつを病室に行かせるのはマズい。
今頃は頑張って清水の舞台から飛び降りただろう宏海が、着地に失敗して即死してしまう。
とりあえずしばらくの間、彼女をここで足止めしなくちゃ。
「真琴は今日も見舞いきたのか? 学校もあるのに毎日大変だなあ」
「はぁ? なに言ってんの? 雪緒ちゃんだって毎日きてるじゃん。あたしと代わりばんこにヒロにお粥食べさせてるじゃん。最初の頃なんかヒロのオチ……えぇと、しなくて良いことまでやろうとしたじゃん」
その話題をこんな場所でするか?!
そう思ったけれど、これは逆にチャンスだ。こんなどうでもいい会話でも十分な時間稼ぎになるかもしれない。オマケに、妹の証言で今まで謎だった宏海のアレのサイズが解明されれば一石二鳥。
にわか女子高生と巨乳女子中学生の下ネタトークが始まりだ。
「なぁなぁ、真琴ってさぁ。宏海のアレ見たことあるだろ?」
「なっ……?!」
俺のごく自然なネタ振りに、女子中学生が身体ごとドン引きして後ずさる。
あれ? 俺、失敗したか? もしかして女の子同士ってこういう話をしたりしないの?
男同士だと普通にするよな? 実際、俺も宏海や夕夜と彼女の胸とかあそこの色がどうだったとか話したことがある。
「雪緒ちゃんは……その、アレ……見たの?」
俺の質問に質問で返してきやがった。
それじゃ会話のキャッチボールにならないのだが、中学生にそんなことを言っても始まらない。
俺が宏海の裸を見たのはスキー合宿の時が最後だったかな? いや、違う。みんなで海に行って露天風呂に入った時も裸だった。
今年の夏休みの出来事なのに、なんだか遠い昔の思い出のような気がしてしまう。
「うーん、直接は見てないんだよなぁ。暗かったし。アノ時はそんな余裕なかったし……」
こんな言い方したら、ひょっとして誤解されちゃうかも……なんて自覚しながらも口にする。生意気なくせに純粋な女子中学生ってのは、からかい甲斐があって楽しい。それにどんなに誤解されようとコイツを病室に近づけるワケにはいかない。
今頃は宏海と樹里亞がイイカンジになってるハズだ。
ところが真琴は、引くどころかさらに顔を近づけ、鼻息を荒げて叫びだした。
「こんなことしてられない! ヒロに言ってやらなきゃ!」
ちょっと待て!
今行かれたら非常に困る。
「イヤイヤイヤイヤ! もうちょっと話そうぜ。宏海のアレの……」
しかし真琴は俺の言葉をガン無視したまま手首を掴んで強引に引っ張っていく。
落ちたコーヒーカップのフタが外れて、半分残っていた冷めた液体がコンクリートにぶち撒かれた。
「一番悪いのはヒロだったのね! あの鬼畜兄貴め。残ってる骨ぜんぶこの手で叩き折ってやるわ!」
激昂した真琴に引き摺られたまま俺はエレベーターに乗せられた。イライラとした調子で病室のある階のボタンを連打する。ドアが閉まると彼女はカバンを開けて可愛いキャラクターが描かれたミニタオルを俺に差し出した。
見るとTシャツの肩が少しだけ雨に濡れている。受け取ったタオルで拭こうとしたら、真琴が無言で鏡を指差した。
そこに映っていたのは中学校の制服を着て眉を吊り上げて怒る少女。そして黒いTシャツにカーゴパンツを履き、全身うっすらと雨に降られて泣いている少女の姿だった。
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