第十一話 男子高校生はついに女になる

 時間と言うものは、いつも残り少なくなってからその貴重さに気づくものである。少年老い易く学成り難しってヤツだね。

 俺は運命という大きな流れに翻弄されるまま今まで生きてきた。だから、突然目の前に突きつけられた重大な選択肢をそれほど真剣に考えてはいなかったのかもしれない。

 でも、仕方ないだろう。もう少し猶予があるものだと思い込んでいたんだから。


 ◇◇◇


 温水のノブを回して、まるで巨大な金魚鉢のような浴槽に湯を入れる。もちろん風呂に入るためではなく、入浴できるまでの時間を測るためだ。俺にそう説明しながら、夕夜ゆうやが腕時計のクロノグラフを睨んでいる。

 おまけに、ノブを回して湯温の微調整までしている。

 まったくご苦労なことだ。


「そこまでこだわる必要があるのか?」


 そう聞くと、夕夜は眉間にシワを寄せてこちらを睨む。


「少しは考えろよ。せっかくラブホに入ったのに、風呂が熱すぎてやけどでもしたら、ムードがぶち壊しになるだろう?」


「ムードがムードがって! ムードが大事なのって告白する時の話だろ? お前ら、もう付き合ってるんだから、そこまで気を遣わなくても良いんじゃないのか?」


 すると、夕夜が両手のひらを天井に向けてヤレヤレといったポーズをとる。


「付き合っていても、そこからエッチに持ち込むまでには高いハードルがあるんだよ」


 この時俺は、まるでお盆で頭を殴られたようなショックを受けた。もちろん平らな部分じゃなくて硬いフチのところでだ。

 だって、付き合ってる男女ってのはそのまま何の問題も苦労もなくエッチしまくってるものだと思ってた。ていうか普通はそう思うよな?


「そんな面倒なことやってられるか!」


「なんだ、東條とうじょう。お前、ひょっとして門倉かどくらとヤリまくりなのか?」


 は? 俺は目をパチパチさせて夕夜を見る。

 何言ってるんだ? コイツ。


「あー、わかったわかった。変な質問した俺が悪かったよ。……ってことはヤッパリ、お前らの間にもハードルがあるんじゃねぇか」


「ちょっと待て、俺と樹里亞じゅりあは付き合ってるわけじゃないぞ」


「う?」


 俺の返事に夕夜はまるで幽霊にでも出会ったような顔をする。

 リアクションさえもいちいち頭にくるヤツだ。しかも『え?』じゃなくて『う?』だと? 『う』なんて疑問符付けて使う言葉かよ!


「るちあがそう言ってたぜ。お前は門倉の彼氏だって。……って、あれはひょっとするとフェイクなのか? いや……でも……まさか! そんなハズは……」


 夕夜が一人でブツブツと何か言い出した。

 浴室から大きな水音が聞こえてくる。どうやら金魚鉢が湯でいっぱいになったようだ。しかし、夕夜は構わずにブツブツと言い続けている。

 そしてついにヤツは顔を上げた。


「東條。お前、今年の夏休みなにしてたんだ?」


「え? 今年は早々に宿題を片付けて、ジブリの映画を観にいって、プール行って泳いで、海で泳いで焼きそば食って、花火大会行って、神社の祭りに行って、えーと後はルミネに買い物行って、それ以外はだいたいバイトしてたなー」


 ただひたすらに暑かった今年の夏休みを思い出す。


「お前って、宿題先にやっちまうタイプ?」


 夕夜が俺にたずねる。


「うん? ああ、いや。いつもギリギリになってやるから今年は早くやれって、樹里亞の部屋で一緒にやったなあ」


「映画は一人で観たのか?」


「えーと、アニメだったんだけど、樹里亞が観たいって言うから。でも面白かったぜー。大人も子供も楽しめる超大作だったよ」


「プールとか海は、家族と行ったのか?」


「いや、樹里亞と行ったよ。新しいビキニの水着買ったって言うからさあ……」


「花火大会と祭りは?」


「樹里亞が浴衣着るって言うから……」


「買い物も門倉とか?」


「俺が自分のものを買うためにわざわざ電車に乗ると思うか?」


「ってことはバイトもか?」


「ああ。あそこのバイトは樹里亞に紹介してもらったんだ。いつも一緒のシフトだよ」


 矢継ぎ早にそこまで聞くと、夕夜は眉間に深く刻まれたシワを揉むような仕草でため息をついた。

 そして、数秒のあいだ息を溜めてから両手の拳を握りしめて叫ぶ。


「お前、それ。誰が見たって付き合ってるカップルだよ!」


「なんだって?!」


 お、俺と樹里亞は付き合っていたのか?

 俺の頭に再び、あの硬いものがぶつけられる。再三でまことに申し訳ないが、例のお盆のフチだ。


「お前らは付き合ってるんだよ。間違いない。うん、るちあの言ってたことは嘘じゃないんだ」


 夕夜が満足そうにつぶやいて、何度もうなずく。

 そうか! 俺と樹里亞はもう付き合ってたのか!

 夕夜に言われなかったらずっと気づかないままだった。コイツってホントはやっぱりいい奴だったんだなあ!

 心が途方もなく温かくて優しいものに満たされて、つらい現実を受け止めたあの日から、ずっと忘れていたものが自分の頬を伝うのを感じていた。

 そして俺の足元も少しづつ温かいもので満たされていく。

 ふと見ると、絨毯が敷かれた床一面が金魚鉢から溢れ出た湯でびちゃびちゃになっていた。


 ヤベェ! 早く止めろ!


 ◇◇◇


「なあ、夕夜。これってフロントに電話しないとダメなんじゃないのか?」


「バカ言うな! 弁償させられるぞ。それに万一、学校に連絡されたらどうなる? 女装男とラブホに入ったって噂になって俺の人生は終わるぞ!」


「なんだと! お前が誘ったんじゃないか!」


 俺は夕夜のシャツに掴みかかった。


「待て待て! まず先にコレ片付けないと……」


 そりゃそうだ。

 喧嘩はとりあえず置いておいて、夕夜と手分けして溢れた湯の処置を続ける。部屋に用意されていたフェイスタオル、バスタオル、バスローブなんかをかき集めて床に敷いて湯を吸わせ、トイレで絞ってから、また吸わせる。それの繰り返しだった。


「なあ、東條」


 手を動かしながら夕夜が聞いてくる。


「門倉ってなんで女帝なんて呼ばれてるんだ? 昔からあんななのか?」


 暇つぶしの何気ない話題が振られる。

 夕夜が言う『あんな』が具体的にどんな状態を指すのかわからないが、聞きたいことはなんとなくわかる。

 でも、そんなこと聞いてどうするんだろう。樹里亞の武勇伝と比べて、自分の彼女がいかに女らしいかを再確認したいのだろうか。

 まあ、話して困るようなことはない。

 俺は樹理亞との出会いから中学での出来事までをかいつまんで聞かせてやった。


「中学の生徒会ってのはさあ……俺の中学だけがそうなのかもしれないけど……委員会の総まとめみたいな組織でさ。先輩たちの代までは、用意されているイベントの運営を教師の指導に従ってやってるだけの存在だったんだよ」


 高校のクラスメイトに中学の頃の話をするのはなんとなく抵抗がある。自分たちがまだまだ幼稚だった頃の考えとか行動を知られるのは恥ずかしい。

 でも、樹里亞のエピソードは別だ。中学時代の彼女が他のどんな中学生よりも優秀だったことは俺が一番よく知っているのだ。


「樹里亞が生徒会長になるって言い出した時は、一体何を考えてるんだって驚いたよ。でもな。彼女は任期半ばで辞任した前の生徒会長に代わって、問題になっていた不良グループを更生させたり、イジメ問題を解決したり、特定の生徒にイタズラしていた教師を免職に追いやったりして大活躍したんだ。生徒会長に就任して数ヶ月で学校が抱えていた問題の大半を解決しちゃったんだよ」


「なんだその漫画みたいなテンプレスーパー女は?」


 夕夜が胡散臭そうな目で俺を見る。


「嘘みたいな話だろ? でも事実なんだぜ。まあ小さい頃から正義感は強かったんだけど、すごかったのはやっぱり中学時代だなあ。ああ、そうそう。その時、不良グループにいた一人がウチのクラスの松崎まつざき 宏海ひろみな」


 夕夜の表情が驚愕へと変化する。


「まあ、『女帝』っていうのは宏海がつけたあだ名なんだけど、樹里亞の活躍を知ってる先輩たちにもそう呼ぶ人はいるみたいだ。俺はその呼び方、好きじゃないけどね。俺はあの頃の彼女を心の中で『ジュリア・スーパー』って呼んでるよ」


「ジュリア・スーパー? スーパージュリアじゃなくて?」


「そう。ジュリア・スーパー」


 ◇◇◇


 結局、予行演習は床に溢れた湯を拭き取る作業でほとんど終わってしまった。湯が溢れたらどういうことになるかのテストができたから、決して無駄じゃなかった……なんて強がりを言う夕夜だったが、今まで謎のままだった樹里亞の気持ちを知ることができたのは最高にラッキーだ。

 今日はラブホについて来てホントに良かった。


 そして近い将来、俺は樹里亞を誘ってここに来よう。彼女にキスしながら優しくベッドに誘う。そしてついに俺も男になるんだ!

 自分が薄笑いを浮かべていることを自覚して、急いで下を向いた。

 危うくヤバい顔を夕夜に見られるところだったぜ。

 ふと落とした視線の先。床に敷かれて湯が染み込んだバスタオルに、目を惹く鮮やかな赤い点が幾つも滲んでいた。


 なんだ……これ?


 よく見ると俺の左足にも赤いものが纏わり付いて、バスタオルにまで染みている。

 俺は履いていた借り物のワンピースのスカートを捲った。


 嘘だろ?!


 不覚にも俺は大声をあげてしまった。ふいに膝の力が抜けて濡れた床にへたり込む。浴室にいた夕夜が、驚いて俺の方にかけて来る。


 頼むからコレを見ないでくれ!


 俺は必死にスカートの裾を広げて、血の跡を隠そうとした。でも、彼には見られてしまった。

 なんてことだ! 今日、こんな場所に来なければよかった……。

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