第十二話 男子高校生は祈りを捧げる
ポケットは、この日のために用意した五円玉でパンパンに膨らんでいた。
こんなに大量の五円玉をいったいどうするのかと言うと、投げるのである……賽銭箱に向かって。
うちの近所の神社の境内には社がたくさんある。最も大きな本殿から始まって、繁栄、事業、学業、安産あたりの割とメジャーなものから始まって、ありとあらゆる事細かな願い事のための
本来なら願い事に添った社にお詣りするものなのだけど、年に一度のことでもあるし、俺は小さい頃から順番にほとんどの社をまわることにしている。一番小さな社は『女性特有の病気』に関するお願いごとを聞いてくれるもので、境内の隅の目立たない場所にある。社そのものは両腕で抱えてしまえるほど小さい。今年は俺もあの社にお願いすることになるんだろうか。
まだ目に見えてわかるような身体の変化はないけれど、生理がきたことで俺の体内に女性ホルモンが急速に分泌され始めているだろう。
時限装置は動き出してしまった。これを止めるためには女としての臓器を摘出する必要がある。ただし、取ってしまったらもう元には戻せない。まだ結論を出せてないけど、新学期になったらまた
「明けましておめでとう」
「明けおめー」
「おめー」
「めー」
なんだお前らのその適当な新年の挨拶は。
おまけに一人、挨拶もせずに俺に抱きついている女子がいる。振袖の生地はピンクの花柄で肌触りがとてもいいのだけど、突き出した胸が乗っかっている帯の硬さが顔に押し付けられて痛い。
彼女は言うまでもなく巨乳童顔の天使『るちあ』だ。
残念ながら振袖ではない
今日は元旦。仲良くなったメンバーで初詣……という話になってウチの近所の神社に行くことになった。紅白歌合戦が始まる頃、るちあから連絡がきて急遽決まったのだ。
ということは、彼女をホテルに誘うという夕夜の作戦はどうやら失敗に終わったらしい。
夕夜はさぞ忌ま忌ましい表情をしているかと思ってたけど、そんなことは全然なくて……なんだろう? まるで同情するような目で俺を見ている。
冬休みに入ったある日。コイツに誘われてホイホイとラブホまで着いて行ってしまった俺は、ついに第二次性徴の証『初潮』を迎えてしまった。思っていたよりも早くやってきたそれに驚いていたら、夕夜にそれを見られて……。
ヤツの表情を見ていると、るちあに抱きつかれる俺を見る目が以前と違うのがわかる。やっぱり女だとわかってしまったんだろう。
◇◇◇
「それ、血なのか? 大丈夫か?」
濡れた床に座り込んだ俺を見て夕夜が叫んだ。
俺はその時、初潮がきてしまったことと、それを夕夜に知られてしまったことの二つのショックで頭の中がグチャグチャになっていた。
「だ、大丈夫……怪我じゃ……ないから……」
俯いてそれだけ言うのが精一杯だった。怪我じゃない……なんて『生理です』って言ってるようなものだけど、診せてみろって言われたら困る。
それを聞くと夕夜はなにも言わずにコンビニに走ってくれた。
その間に俺はバッグからパンツを出して履き替える。いつくるかわからない初潮のために母親が用意してくれた生理用ショーツだ。
部屋に戻ってきた夕夜が買ってきてくれたものはタオルと下着だった。それから、濡れたワンピースを乾かすのを手伝ってくれた。もちろん、俺が着替える間は向こうを向いてくれている。
さっきまで絶望の淵に立たされていたのに、夕夜の優しい気遣いでずいぶんと落ち着くことができた。
ああ、やっぱりコイツはいい奴だ。るちあが選んだだけのことはある。
買ってきたパンツは男物のトランクスだった。女性用下着とナプキンを買ってくるのが正解なんだけど、男子高校生が買うにはハードルが高すぎるだろう。コンビニの棚の前で生理用ナプキンの種類をじっくり吟味する夕夜。そんな姿を想像するとなんだかおかしくなってきて、今日初めて声を出して笑った。
服はなんだかゴワゴワになっちゃったけど、なんとか袖を通す。どこかから借りてきたものだと思うけど、気にしてる余裕はなかった。
帰りは俺の体調を気遣って夕夜がタクシーで送ってくれた。
「今日のこと、誰にも言わないでね」
車内では二人とも終始無言だったけど、これだけは言っておこうと重い口を開く。すると夕夜はこう言った。
「誰かとラブホに入った話なんか、言いふらす男はいないよ」
うーん。今日の夕夜のカッコ良さはいったいなんだ? やっぱり、普段から女の扱いに慣れているヤツは違うなあ。俺も見習わなくちゃ。
◇◇◇
「
晴れ着姿のるちあが俺の腕に抱きついて、耳元に唇を寄せて言う。
え? どうして俺の身体の事を知ってるんだ?
「夕夜に聞いたのか?」
俺は驚いてるちあの腕を振りほどいた。
そんな……彼女にも話してしまったのか。
るちあと夕夜は付き合ってるわけだから、そういう話もするのだろう。でも、夕夜のヤツ、誰にも言わないって約束したのに……。
「いつまでここにいるの? そろそろ行かないと混んじゃうわよ」
樹里亞がみんなに呼びかける。
俺はなんだか裏切られたような気分のまま、人が増え始めた参道を一緒に歩き出した。
◇◇◇
本殿に続く参拝客の列に加わってそぞろ歩いているうちに少しづつ列が歪んで、横一列になっていた俺たちはバラバラになってしまった。周りを見回すが知った顔がいない。せっかく待ち合わせて来たのに、このまま一人で参拝することになるのかと思うと急に寂しさがこみ上げてきた。
樹里亞に連絡しようとスマホを見ると、驚いたことに彼女から何度も着信があったようだ。
そしてすぐにまたスマホが鳴る。
俺は急いで電話に出た。
「ゴメン! 着信音を切ってたみたい。樹里亞。今どの辺りに……」
言い終わる前に、俺の左手に優しい手の感触が。
「意外と近くで良かったわ。ほら、ちゃんと手をつないでないとはぐれちゃうわよ」
そう言って彼女は俺の指の間に指を絡ませてくる。
心細くてどうにかなってしまいそうだったのに、彼女の手から伝わる温かさに安心してしまう。
「みんなは?」
聞いてみるが彼女は首を振るだけ。やっぱりはぐれてしまったのか。
グループがバラバラになってしまったのは残念だけど、樹里亞と二人きりで歩く初詣も悪くない。
「樹里亞は振袖着ないの?」
今日の樹里亞は大人っぽいコートとマフラーに身を包んでいた。コートの胸元が少しだけ開いているけど、その下に何を着てるのかはわからない。
彼女はこちらを振り向くと不思議そうな顔をした。
「
樹里亞が俺の顔を覗き込む。
今年の初詣は見られなかったけど、彼女の振袖姿は最高に美しいのだ。去年まで毎年見てきた俺が言うんだから間違いない。
つないだ指から心臓の鼓動が伝わってしまいそうだ。
「でも、振袖じゃあホテルに入れないわよ」
え? それってどういう意味ですか、樹里亞さん!
振袖ってのは日本の未婚女性の正式な服装だから、どんなに高級なホテルであろうとドレスコードにひっかかることはないハズで……。
いや、わかってる。樹里亞がそんなことを言ってるんじゃないことぐらい。
彼女が言ったホテルって、つまりラブホテルのことで……いや、ラブホテルじゃなくてもいいんだけど、要は服を脱げるプライベートな空間という意味で……脱いでしまったら自分一人では着ることが難しい振袖だから、入れないということだろう。
ということは、つまりエッチをすることが前提の話であり……樹里亞は俺とエッチしたいと思ってるってこと?
あるいは、ニュアンスとして『エッチしてもいいわ』程度のものだろうか?
いやいやまてよ。俺にとっては『エッチしたい』と『エッチしてもいい』はまったく同義だ。樹里亞は俺とエッチしたいんだと言い切っても構わないだろう!
そうかぁ! 樹里亞は俺とエッチしたいのかぁ!
新年からなんて素晴らしい展開なんだ!
◇◇◇
いつの間にか行列は拝殿の前まできていた。俺はウキウキとした気分でポケットから出した五円玉を賽銭箱に投げ入れてた。
初詣専用の巨大な賽銭箱が入り口付近をすべてカバーできるように設置されている。これはつまり、神様に祈ろうとする人々の声を細大漏らさず取り込もうという神社サイドの作戦なのだ。
賽銭箱を覗き込むと、驚いたことに五円、十円だけじゃなく銀色に輝く硬貨がたくさん入れられていた。所々にお札が入ってるのも目に付く。
もしかして五円玉程度では願い事は叶わないのかもしれない。あるいは叶ったとしても目標の下方修正を余儀無くさせられるか、あるいは後回しにされてしまうかもしれない。
ちょっと不安になりながら、樹里亞の真似をして鈴を鳴らす。
二回頭を下げてから、柏手を二回。そして一回頭を下げる。二礼二拍手一礼という参拝の作法だ。そしてここで神様に厳かに願い事を……。
そこで俺は大変なことに気がついた。
すでに樹里亞と俺は付き合っていて、ホテルでエッチをしたいと遠回しに言われるほどの関係なのだ。これ以上、俺はいったい何を神様にお願いしたらいいのだろう。
頭を必死に絞ってみても全然考えがまとまらない。時間だけがどんどん過ぎて行ってしまう。俺の後ろにもたくさんの人たちが、願いを伝えに行列を作っている。俺一人がここでゆっくりと時間を使うわけにはいかない。
ああ、困った困った。どうしよう。
俺がそうやって厳かな神前で一人追い詰められていると、隣で手を合わせていた樹里亞がポツリと言った。
「体、大丈夫なの? あたしも
なんですと?
夕夜のバカヤロウ! 樹里亞にも喋ったのか?
俺にだって秘密にしておきたいことがあるのに。いや、いつかは話さなきゃならないことなんだけど、十分考えて覚悟を決めてからにしたかった。
るちあならまだいい。でも、樹里亞は単なる友達じゃない。
「ごめん。樹里亞」
拝殿を抜けて階段を下りてから、俺は樹里亞に謝った。彼女は怒ってはいないし俺も悪いことをしたわけじゃない。問題は他にある。もうここまできたら秘密を抱えているのが辛くなってきた。
石畳の順路を外れて靴は砂利を踏みしめる。
「どうして謝るの?」
「この前、夕夜とラブホに行ったんだ」
「そうなんだ」
樹里亞は驚かない。やっぱり知ってたのか。
弁解は男らしくないけど、変に誤解されたらたまらない。
「夕夜がね、予行演習しておけば俺が樹里亞とホテルにいく時に戸惑わないって言うから……」
「なるほどね。そんなことだろうと思ったわ」
呆れた顔で俺の瞳を覗き込む樹里亞。
信じてくれるのか! なんて素晴らしい彼女なんだ!
「何処かで借りてきたらしい女物のワンピースを着せられて行ったんだけど、風呂のお湯が溢れて大変だったんだよ!」
俺が恥ずかしさをこらえてそこまで言うと、彼女は胸ポケットからスマホを取り出して耳に当てた。
「……だってさ。聞こえた? るちあ」
え? なんだ? どういうことだ?
事態が飲み込めずキョロキョロと周りを見回すと、いつもの顔ぶれがすぐ近くに立っていた。宏海に羽交い締めにされている夕夜。るちあは携帯を握りしめてこっちに歩いてくる。
「夕夜に似た男の子が女と歩いているのを見たって、クラスの子に言われたの。昨日、彼を問い詰めたんだけど『俺を信じてくれ』としか言わないのよ。まあ、浮気じゃないとは思ってたけど……気になっててね。樹里亞に相談したら、東條くんに聞いてみるから別行動しようって……」
はぁ?
この時の俺はさぞかし間抜けな顔をしていたことだろう。
俺はまんまと樹里亞に騙されて、夕夜との秘密を喋らされたのだ。男と男の約束だったのに。夕夜は恋人に疑われても何も喋らなかったというのに。
これは俺が怒っていい状況だよな?
「ごめんね東條くん。あたしが樹里亞に頼んだの。お願いだから怒らないで」
るちあがそう言って謝るけど、俺の中の怒りの炎は簡単には消えない。
樹里亞にはいつも助けられてきたけど、嫌な思いをさせられたことだって決して少なくはないんだ。俺が何も言わないものだから、何をしてもいいと思い込んでいるのだろう。残念だけど、そんな従順な俺はもうどこにもいない。
俺は彼女に一言文句を言ってやるために、肺いっぱいに澄んだ新年の空気を吸い込んだ。
「正直に話してくれた雪緒にはご褒美をあげないとね」
吸い込んだ息がピタリと止まる。
俺は今、怒っているんだ。そんな言葉で俺がコントロールできると思っていたら大間違いだぞ。
樹里亞をじっと睨みつける。
「何がいいかなぁ。ねえ、何がいいと思う?」
俺は怒ってるんだ。それをアピールするために返事をしない。
「あたしと予行演習のやり直しでもしよっか?」
なん……だと?
「演習じゃなくなっちゃったりして……」
そう言って樹里亞が笑う。
そんな餌でごまかされたりしないぞ。
そんな笑顔で、俺は絶対に騙されたりなんか……。
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