第四十二話 男子高校生は素敵な男の子と出会う2

前話のあらすじ


海水浴と誘拐未遂事件と婚約宣言と立て続けにヘビーなイベントが重なった夏休み。俺は水泳の補習があったことを思い出したが、エロビキニの日焼け跡に愕然。保健医から上着をもらって補習に行くと俺によく似た境遇のヤツと出会った。早瀬のおかげで辛い補習も楽しく乗り越えられそうだ。


 ◇◇◇


 一時限が短いとはいえ連日の水泳の授業は苦痛だ。毎日一時間の補習を受けるためだけに学校にくるのは辛い。暑いしダルいしメンドくさい。もはや拷問レベルである。つまりこの試練を乗り越えることで、もう二度と授業をサボろうなんて考えない真面目な生徒に洗脳しようという学校サイドの作戦なのだ。実によく考えられている。

 しかし、そんな地獄の補習にも関わらず、俺の脚は軽かった。


 それもこれも『早瀬はやせ』がいたからだ。


 ヤツが一緒に補習を受けるお陰で、面倒な通学だって教官のセクハラだってヘッチャラだ。

 そう……体育教官の菅野かんのは『セクハラ教師』……らしいのだ。『らしい』というのは俺自身がなにかされたり言われたりしたわけじゃなくて聞いた話だから。


「いいか、東條とうじょう。菅野のヤツには気をつけろ。あいつは気に入った生徒に付きまとったり嫌がらせをしたりする近接パワー型のセクハラ教師だ。すでに卒業した生徒も含めるとかなりの数の被害者がいるらしい」


 補習の授業中、早瀬が小声でそう警告した。

 菅野は水着紛失事件にも関わっている疑いがある変態野郎だけど、そこまで悪いヤツだったのか!


 ……けど、ちょっとまてよ。


「狙われるのは女の子だろう? なんで俺が気をつけるんだ?」


 そう言うと早瀬はぷっと吹き出し、途端にゲラゲラ笑いだした。

 あ、この野郎。そういう意味かよ! 俺の男らしさをディスりやがったな!

 許さねえっ!


「お前だって女顔じゃねぇか! それに色白だし、俺よりケツがデカイだろ」


 俺は怒りに任せて叫んでいた。

 昨日『煽られても頭にこない』って言っただろうって? そんなもの知るか! ヤツのケツがホントにデカイかどうかも知らない。

 でも、俺を女扱いするヤツはたとえ戦友と言えど許すわけにはいかない。

 そしてそれは早瀬も同じだったようで、ヤツの顔から笑いが消えた。

 凛々しい太めの眉毛が吊りあがり、みるみる顔が赤くなる。ケツがデカイと言われて恥ずかしがってる……ワケないな。

 自分から煽っておいて、人に言われたらブチ切れか?

 上等だ! やるか、この野郎!


 どちらが先かはわからない。いや、そんなことはどうでも良い。俺たちはパンチを繰り出し、キックを浴びせ、互いの襟首を掴んでどつき合った。

 顔面に、胸に、腹に痛みが走る。

 俺たちは掴みあったまま勢い余ってプールに落ちた。


 頭まで完全に水に潜ると、一学期にプールで溺れかけた恐怖が冷たい手で俺の心臓を掴もうとする。しかし、今日はラッシュガードがあるのだ。胸はしっかりと隠されている。大丈夫だ。


「ぶはぁっ!」


 俺は急いで浮上すると胸いっぱいに空気を貪った。同時に早瀬も浮き上がってくる。

 ヤツと目が合った。まだ怒りの炎は消えていない。お互いに両手を突き出し、手のひらを握り合って力くらべの体勢になる。口から容赦なく水が流れ込んできた。

 この辺りはプールの中程。水深が一番深いところで、俺たちの身長では足が届かない。俺は無意識のうちに立ち泳ぎをしながら、早瀬の頭を水中に沈めようとする。もちろんヤツだって同じことを考えていて、スキがあれば俺にのし掛かってくる。足の届かない水上での格闘戦だ。


 延々と続く水上戦が俺の体力を容赦なく奪っていく。

 実際には少ししか経っていないだろうけど、もう一時間以上戦っているような気がする。このままではまた溺れてしまうかもしれない。

 でも、敵に背中を見せてプールサイドに上がるなんて無様なマネはできない。逃げるくらいなら死んだほうがマシだ。

 その時、早瀬が俺の腕を振り払ってプールサイドに向かって泳ぎだした。


「逃げるのか? この野郎!」


 遠ざかるヤツの背中に罵声を浴びせる。だけど返事はない。

 早瀬はさっさとハシゴに取り付いてプールサイドに上がってしまうと、腕を組んで仁王立ちで俺を見下ろした。

 まさか、俺をプールから上がらせないつもりなのか? なんて卑怯なヤツなんだ!

 プールサイドに上がれるハシゴはプールのカドの四ヶ所に設置されているが、ここから泳いで他の三つのどれかに移動するのは体力的に難しい。それに、泳ぐよりプールサイドを走る方が速い。ヤツが本気で俺をプールから上げないつもりなら、どこから登っても邪魔をされるだろう。もちろん、ハシゴなしでプールサイドによじ登れるほど俺の体力は残っていない。

 失敗した。こんなヤツは放っておいて先に上がってしまえばよかったのだ。


 このまま立ち泳ぎを続けていたら体力を使い果たして溺れてしまう。

 俺は意を決してヤツが待つハシゴへと向かって泳いだ。

 少しづつヤツとの距離が縮まる。すでにプールサイドで息を整えつつある早瀬と、泳いでハシゴに向かっている俺。彼我の戦力差は歴然だった。

 やっとの思いでハシゴに掴まると、頭上で仁王立ちしているヤツの足が見えた。

 やはり俺をプールから出さないつもりか? 良かろう。ならば、お前も道ずれにしてやる。

 そう考えて、早瀬の足首を掴もうと片手を伸ばした。


 すると、俺の手はガッシリと掴まれた。

 早瀬の手だ。

 俺の反撃が読まれたか。

 そう思う間もなく、俺は強い力で引っ張り上げられた。

 え? どういうこと?

 見上げればヤツが笑っていた。俺が殴った右まぶたが腫れていたけれど、それがちょっとウインクしてるようにも思えて面白い。

 張り詰めた緊張感と水の冷たさから突然解放されたせいか、俺もつられて笑ってしまった。


「早瀬。お前、強いな」


「お前こそ」


 コイツは強い。そして俺なんかよりもずっと大人だった。そんなヤツに『お前こそ』なんて言われて嬉しくないハズがない。

 今なら素直に認められる。お前は俺なんかよりもずっと男らしい男だ。


 早瀬に引き揚げられて、俺の体が水から上がる。


「東條。お前、ソレ……」


 早瀬が言いかけて絶句した。

 そのセリフは昨日から何度も聞いたものに酷似していて、嫌な予感しかしない。

 まさかと思って視線を下げると、ラッシュガードのファスナーが壊れていて、両肩からはだけてしまっていた。

 そしてもちろん見えていた。マイクロビキニの極小カップの日焼け跡と、水の冷たさでちょっとだけ尖った胸のトップが左右とも。

 俺は無意識のうちにハシゴのパイプから手を離すと、両手で胸を押さえなから背中から水中に落ちた。


 ぎゃー! 早瀬にこの胸を見られた!

 宏海や夕夜なら何度も見られているから変化に気付きにくいかもしれないが、今日初めて見たヤツにはわかってしまうかもしれない。俺の乳首がちょっと男と違うってことが……。

 おまけに、あんなエロビキニの日焼け跡まで! こんなことなら日焼けの言い訳を考えておくんだった。

 いや違う! そうじゃない。

 俺の最大の失敗は『胸を隠した』ことだ。

 伊豆の海であんな水着を着せられて見ず知らずの人たちの前で女のフリをさせられたせいで、胸を隠すクセが染みついてしまっていたのだ。


 せっかく仲良くなれたと思っていたのに、また嘘をでっち上げて騙さなくてはならないのか?

 冷たい水に頭まで浸かって俺はハッキリと目が覚めた。

 そう、早瀬は強くて立派な男だ。俺みたいな中途半端な人間とは違う。どうして俺たちが似てるだなんて思ったんだろう? 似てるのは見た目ぐらいのもので、中身はまるで別物だというのに。


 大きく息を吸い込んで頭まで水中に潜る。

 ラッシュガードの襟を掻き合わせる。力任せに引っ張られて壊れてしまったのかファスナーが閉まらない。

 顔を出して肺に新鮮な空気を吸い込み、立って泳ぎながら静かに振り返った。


 俺は男だ。いや、少なくとも自分では男だと思ってる。小さい頃、見た目が女っぽいという理由で仲間に入れてもらえなかったことがあった。男ではないと認識されたら男同士のグループには入れてもらえない。だから、少しでも男らしくなろうと必死だった。

 そして、俺は水泳の補習授業でやっと『男の友情』を語れる相手を見つけたと思った。でも早瀬にとって俺は『男のフリをしていた偽物』でしかない。ああ、俺はなんて馬鹿げた夢を見ていたんだろう。普通の教科の補習ならまだ良かった。でもこんな肌を露出するような授業で、どうして『男の友情』が築けるなんて思ったんだろう。


 惨めな気持ちになりながら、それでも諦めきれずに顔を上げる。するとそこには、相変わらずいたずらっ子のような笑顔で俺の方に手を伸ばす早瀬の姿があった。

 ああ、俺の正体を知ってもコイツは相変わらず優しいんだな。

 俺はその手をとった。


「遅くなっちまったぁ! わりぃわりぃ。お前らちゃんと準備たいそ……」


 筋骨隆々で赤いビキニパンツを履いた男がプールサイドにやってきた。体育教官の菅野だ。ヤツは振り返った俺たちの顔を見て絶句した。


 ◇◇◇


「いったいなにがあったのっ? 二人とも顔、こんなにしてぇ!」


 保健室に燐子りんこ先生の絶叫が響く。殴り合った顔を見て驚いた菅野は、補習を中止して俺たちを保健室へと連れてきたのだ。

 驚いた燐子先生は、のほほんとしている俺たちに鏡を差し出す。

 早瀬は酷い顔だった。右目の周りが赤く腫れていて、まるで漫画だ。いくらなんでも俺はあそこまで酷くはないだろう……そう思って、受け取った鏡に自分の顔を映してみる。


 東海道四谷怪談のメインヒロインの顔がそこにはあった。

 この間の警察署の時とは違う意味で足元がふらつく。


 俺の顔は早瀬と同じく片目の周りが腫れているのだけど、口内を切ったのか唇から血が垂れていてとても正視に耐えられるシロモノではなかった。

 コワスギル!


「二人とも、ほら、これで顔を冷やして」


 冷凍庫から取り出した保冷枕をタオルで包んで一つづつ俺たちに渡す燐子先生。それを熱をもった腫れに当てると冷たくて気持ちが良かった。

 顔はこんなだけど気分は最高だ。

 男同士、拳で殴り合う。そしてお互いの健闘を称えあって、二人は熱い友情で結ばれる。

 これこそ『男の美学』じゃないか!

 長いあいだ渇望し探し求め続けていたものが、こんなに身近にあったのだ。

 男友達と言えば『宏海ひろみ』の顔が思い浮かぶ。だけどヤツは絶対に俺を殴らない。殴ってくれない。宏海にとって俺は守るべき弟のようなものなのだろう。それではダメだ。俺と対等に語り合ってくれる相手ではなければ、真の友情とは呼べないのだ。


 『男の友情』

 その言葉を噛み締めてみる。それだけで全身に電流がほとばしるような気持ち良さに支配される。

 口に出すと、空気に触れたとたんに酸化して壊れてしまいそうな、そんな危うい価値観の中でしか存在できないロマンの結晶。

 もはやそれは単なる言葉のレベルを超えて、生き様へと昇華する。


 燐子先生の説教を聞き流しながら、俺と早瀬はアイコンタクトで語り合う。自然と笑みがこぼれてしまうのを抑えられない。


「顔に傷が残ったらどうするの? 本当にもう……」


 燐子先生は心配するけれど、そんなこと気にするものか。傷は男の勲章だ。


「それから、早瀬くんっ!」


 燐子先生は今度は早瀬に向き直り、いきなりヤツの頭にゲンコツを落とした。

 固いもの同士がぶつかる鈍い音が響く。

 早瀬は殴られた頭を押さえて呻き、腰を折ってうずくまる。


 え?


 ナニソレ?


 殴るの? 燐子先生って体罰容認派デスカ?

 てか、次は俺の番なの?

 あまりに予想外の出来事に俺の頭がついていけてない。俺は殴られた早瀬を呆然と見つめて、その痛みを自分のもののように感じていた。

 俺も殴られる……そう思って身構えていたが、一向にゲンコツがくる気配がない。

 それどころか、燐子先生はとんでもないことを口走った。


「東條さんは女の子なのよ! なのにこんなに顔を腫らせて……。女の子に暴力を振るうだなんて卑劣で最低の行為だわ。あなた、そんな生徒だったの? か弱い女の子を虐めるようなそんな子だったの? 先生は幻滅したわ。早瀬くんは優しい素敵な男の子だと思ってたのに! もしも一生消えない傷が残ったらどうするの? あなたに責任がとれるの? そういうことを考えなかったの?」


 早口でまくし立てる保健医。

 ちょっと待て!

 今『女の子』って三回も言ったな!

 さっき早瀬に煽られてブチ切れたばかりだというのに、先生まで俺を女の子扱いするのか?

 先生まで俺を……。


 あれ?


 そう言えば俺。先生の前では性同G一性I障害Dのフリをしているんだった。

 身体検査で彼女に女の体型だと見破られて、学校側に問題にされないように口から出まかせを言ったのだ。しかも、つじつまを合わせるために俺は『女性の心を持つ男子生徒』であり、性別適合の治療中だと説明した。

 そのせいで、保健室の中では俺は女の子として扱われることになったんだ……。


 でも、今日のコレはナシだろう?

 俺にとって長年の憧れだった『男の友情』なんだぞ!

 しかも……。


「先生! 体のことは誰にも言わないって……」


 そういう約束だったハズだ!


「ああ、ごめんなさい。でも早瀬くんなら大丈夫よ」


 サラッと答える保健医。

 大丈夫なワケないだろう! てか、大丈夫とかそういう問題じゃねぇーんだよ!

 ああ! 俺の『男の友情』がぁぁぁぁぁ!!!!!

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