第二十二話 男子高校生は女医と保健室で二人きり

前話のあらすじ


 バレンタインパーティは、俺のなにも考えずに選んだプレゼントでグダグダな展開に。そこで、るちあがビキニを着て見せてあげると提案した。嫉妬心を抑えて樹理亞もそれに参加することを了承すると、なぜか俺までビキニ着用候補にされて、宏海は頭を抱えてしまった。


 ◇◇◇


「いいと言うまで両手を降ろしちゃダメよ」


 耳元で囁くように指示される。

 上気したような色の指が、俺の二の腕から裸の脇をなぞりながら降りていく。職業柄なのか短く揃えられた淡い桜色の爪が細い指先で小さく輝いた。

 彼女の指は上半身裸の俺の体を撫でまわす。それがなんとも言えずくすぐったい。思わず背中がゾクゾクとしてしまう。

 胸からウエスト、腰骨と降りてきたところで指の動きが止まる。そしてまた、胸へと戻る。その度に冷たい指先が俺の乳首のすぐ近くを無遠慮に通過していく。


「んー?」


 俺の身体をまさぐっているのは我が校の保健医……高崎たかさき 燐子りんこの指だ。

 背が高くスタイルがいいところは幼馴染の樹理亞じゅりあに似てるけど、華やかな雰囲気を纏う彼女に比べて高崎先生はどこか凄みとでも言うような、ある種近寄りがたい危険な匂いを感じさせる。ストレートの長い髪、前方に突き出した胸も魅力的ではあるけど、彼女の外見を最も印象付けているのはその整った美しい相貌の左目を覆う真っ赤な眼帯だ。

 噂では、数年前までNGOが組織した医師団に参加して中東の紛争地帯で活躍していたらしい。そんな人がこんななんの変哲もない学校の保健医なんかやるものだろうか。

 とにかく、東陵高校の保健室にはそんなミステリアスな保健医がいて、新年度の今日は丸一日かけて全校生徒の健康診断をしているのだった。

 いや、正確に言うなら『していた』だ。今、保健室には俺と高崎先生しかいない。


「あなた……本当は女の子でしょう?」


 彼女は眼帯で隠されていない右目で俺をじっと見据え、なんの感情も見出せない表情でそう言った。


 ◇◇◇


 桜の季節が過ぎて俺たちは二年生に進級した。クラス替えはあったけれど『我が愛しの幼馴染』樹理亞と『親友』宏海ひろみは嬉しいことに同じクラスのままだ。あまり嬉しくないけれど俺の『数少ない友達』夕夜ゆうやも一緒だ。それから違うクラスだった『夕夜の彼女』るちあもクラスメイトに加わった。東陵のクラス替えは二年に一度だから、このクラスは卒業まで一緒なのだ。

 やっと同じクラスになれたと喜んだ彼女は、あろうことか彼氏ではなく俺に抱きついてきた。新年度早々、夕夜の嫉妬の視線が俺に飛んでくるのを感じる。ざまあっ!

 ちなみに担任教師も、去年と変わってはいない。教室だって階段を一階上がっただけで、窓から覗く空の色さえ変わらなかった。

 そうそう、1月に俺を拉致監禁したあの男……餅つき先輩だったか、つき指先輩だったか忘れてしまったけど、無事生徒会長に当選したらしく始業式で壇上に立って挨拶をしていた。


 新年度の面倒なイベントの諸々をこなし教科書やらの配布が済むと、毎年度恒例の身体検査が待っている。女子生徒にとってはいろいろ憂鬱な行事ではあるのだろうけど、男らしい体つきに憧れている俺にとってもすごく重要な通過儀礼なのである。

 生徒はその日一日、体操着に着替えたままで通常の授業を受け、自分のクラスの順番が回ってきた段階で授業中でも構わず男女に分かれて保健室に向かう。俺はもちろん男子のグループだ。


 去年の俺のスペックは。

 身長……158センチ、体重……47キロ。

 今年は喜ばしいことに身長が1センチ伸びた! それに合わせて体重も若干増えたけど、そんなことはどうでもいい。もっとも憂慮すべき問題は、おそらく俺の体が第二次性徴を迎えたせいだろうけど……胸囲が……大きな脅威になっていたことだ!

 いきなりのオヤジギャグで申し訳ないが、それくらい俺にとってショックな事件だった。

 女子の場合はどうやって計るのか知らないけど、男子の胸囲は乳首のすぐ下の胸回りを計測する。つまり『胸囲』イコール『バストサイズ』なのである。

 見た目にはまったく変化がないと思っていた俺の胸だけど、数値はその変化を雄弁に物語っていた。入学時にあつらえた制服のシャツはまだまだ余裕がある。しかし、ズボンの尻の辺りは最近窮屈に感じるようになってきた。これが女の体になっていく予兆なのか、それとも甘いものばかり食べていたツケなのか一概に判断することはできない。

 去年のうちにヒップサイズを計っておけば比較できたのだけど、その頃の俺はまさかこんな事態になるだなんて想像すらしていなかった。


「あら。まだ女子の番じゃないわよ」


 心音検査の際に、聴診器を当てるため体操着を捲り上げて胸を晒した俺に高崎先生が放った言葉だ。

 それを聞いてクラスの男子連中がドッとウケる。クラスメイトは面白がっているけれど、生物学的に女である俺としては秘密がバレてしまうのではないかとヒヤヒヤする。


「あぁ。キミが去年の新ミス東陵かぁ。なるほどねー」


 意味ありげに俺の顔を眺めて言うと、高崎先生は今度はクラスメイトを睨みつける。


「ほらぁ。みんなが笑うからちゃんと心音聞けないじゃない! 仕方ないわね。女子の検査の前にキミだけ残ってやり直し!」


 そう言って俺は保健室に一人残され、彼女に問い詰められるハメになったのである。

 それにしても、保健医とは言えさすがプロである。動画サイトの荒くて小さな画像から俺の本当の性別を見抜いた多岐川たきがわ医師もスゴイけれど、この人も侮ってはいけない! 体を触って判断したと言うことは、俺の骨格には女子の特徴が出てしまっているということだ。


「あなたやっぱり……女の子でしょう?」


 高崎先生は同じ質問を繰り返す。

 そして、凄みのある美貌で俺のすぐ目の前にまで近づいてきた。


「男子生徒として通学する事情があるみたいね。でも学校からはなにも聞いてないのよ。もし、先生方が知らないのだとすると、ちょっと面倒なことになるの。わかるでしょう?」


 これはヤバい状況だ。イイカゲンな答えをしたら取り返しがつかないことになる。

 『男のカン』が激しく警鐘を鳴らしている。

 しかし、本当のことを不用意に話すわけにはいかない。身体がほぼ女子だとわかってしまったら、俺は学校で女生徒として扱われかねない。少なくとも樹理亞が俺のことをどう思ってるのか確認するまでは、おいそれと女になんかなってはいられない。

 俺の心は間違いなく男なのだから……ん? 心だけが男だということは……。


 今の俺の状態はGID……つまり『性同一性障害』に非常によく似ているんじゃないか。

 それを装えば、真実を言わずに先生を納得させられるかもしれない。体は女だけど心は男で、GIDの診断を受けて男子生徒として学校に通っている。そして近々に性転換手術を受けて完全な男性になる……という設定だ。


 ……いや、まて!


 GIDの診断は簡単ではない。診断の結果が性転換手術や戸籍の書き換えにも影響するから、二人以上の医師の診断が必要なのだ。

 俺は男子の戸籍を持ち男子生徒として学校に通っているが、GIDの診断をもらって役所や学校に届けないかぎりそんなことはできない。これでは辻褄が合わなくなってしまう。それに、男性化の手術を受ける前に男子生徒と一緒に体育の授業や着替えをしているというのも無理がある。

 では、どうすればいい?

 どうすればこのピンチを乗り越えられる?

 考えろ、俺! 考えろ考えろ考えろ。


 そうだ!

 俺の脳は凄まじい計算を繰り返し、完璧な解答を導き出した。

 ここは逆転の発想だ。これなら絶対に間違いはない!


「先生、誰にも言わないでいてくれますか?」


 そう言って、伏せていた顔を少しだけ上げる。視線を彼女の胸の辺りで一旦止める。

 体の動きで高崎先生が頷いたのを確信すると、さらにゆっくりと視線を上げた。上目遣いで彼女を見上げる。


「よくわからないんですけど……わたし、ひょっとしたら性同一性障害なのかもしれません」


 自称を『わたし』に変える。

 GIDのキーワードを聞いて彼女の瞳孔がわずかに拡がる。俺の話に興味を示した証拠だ。


「そういう風に思い始めたのはいつごろから?」


 高崎先生の声のトーンが上がる。

 俺を詰問する姿勢が崩れ、問診する医者の立場になっている。思った通りだ。


「最初にそう感じたのはいつだったのか覚えていません。でも、近所の男の子たちと遊んでも楽しくなくて、いつも幼馴染の女の子とばかり遊んでました」


 これはほとんど事実だ、巧妙に嘘を吐くならば、その中に真実を混ぜて話す。それがバレない嘘の鉄則だ。


「小さい頃は親に女の子みたいな服を着せられていました。その頃はまだ性別なんて気にしたこともなくて、自分が男だとか女だとかそういう認識は持ってなかったと思います。それから小学校に入って……水泳の授業の時でした。仲が良かった幼馴染の女の子と同じ水着を着ることができないと知って……。たぶんあの時が最初だと思います」


 そう、俺はGIDのしかも男性の体に女性の心を持つ症例……『MtF』を装っているのだ。これなら俺の戸籍上の性別の問題と、今現在男子生徒として学校に通っている事実、そしてGIDの診断を受けていないことの辻褄が合う。

 しかし、問題が一つだけある。


「じゃあ、この体型は? この骨格は女性特有のものなのよ」


 そう、高崎先生が最初に気づいたであろう俺の骨格に矛盾が出てくるのだ。

 そこで、俺はこう答える。


「父の知り合いのお医者さんにそういうのに詳しい人がいて、錠剤の薬をもらってずっと飲んでました。それを飲んでいれば男っぽい体つきにならずに済むと言われて……。両親もわたしの気持ちを尊重してくれています。幸い、今のところ男子生徒として扱われることにそれほど苦痛を感じていないし、クラスメイトに知られるのは抵抗があるから、男子として高校を卒業してから性同一性障害の診断をしてもらおうと思ってるんです」


 俺はふたたび目を伏せると、ゆっくりと一呼吸する。


「ですから、学校にもみんなにも内緒にしておいて欲しいのです。お願いします。高崎先生」


 ゆっくりと視線を上げる。

 息を止め、顔色をわずかに紅潮させる。苦しくて目が潤む。

 思い返せば、小さい頃からこの見た目と体格のせいで男の子たちの遊びに混ぜてもらえず、いつも樹理亞とばかり遊んでいたんだ。

 ひょっとして、俺ってホントに性同一性障害なんじゃないのか? 自分では気づかなかっただけで、俺の心は男でいることに悲鳴を上げ続けていたのではないのか?

 そう考えただけで目頭に熱いものが溢れて、視界がまるで水没する船窓の景色のように歪んでいく。耐えきれなかった一滴だけが、ほほを伝って落ちた。


「……わかったわ」


 高崎先生が少しだけ微笑んで、そう言ってくれた。この人は本当はとても優しい人なのだ。


「ちゃんと話してくれたから、先生も約束は必ず守るわ。それに、先生はあなたの力になりたいの。例えば……そうね、着替えの時とかに辛くなったら保健室を使っていいのよ。留守の時もあるから、ここの合鍵を作っておくわ」


 仕方ないとは言え俺はなんて良い人を騙しているのだろう?

 解決したら高崎先生にもすべて話して謝ろう。嘘をついていたことを許してもらおう。それで許してはくれないかもしれないけど、このまま騙し続けてはいられない。


 高崎先生は椅子から立ち上がると、両手で俺の手を握りしめた。


「なにも心配することはないわ。先生はスクールカウンセラーの資格もあるのよ。あなたもこの先、男子としての生活が辛くなることもあるかもしれないし……そうだ! 毎日放課後に保健室に顔を出しなさい。女どうしでお話しましょう?」


「え? えぇと、そこまでは、わたし大丈夫ですから……」


 いくら良い人でも毎日女言葉でガールズトークなんてやってられない!

 絶対どこかでボロが出てバレるに決まってる。冗談じゃないぞ!


「ダメよ。性同一性障害の生徒っていうのはとても不安定なの。それを学校に黙って通学してるのだから先生がしっかりみていないと、なにかあってからじゃ遅いのよ。あなたの場合はホルモン剤も飲んでるみたいだから余計に心配だわ!」


 高崎先生が俺を優しく抱きしめて言う。

 ツンと前方に突き出した胸が俺のほほを押し返す。


「放課後の都合が悪いなら昼休みでもいいわ。とにかく毎日顔をみせなさい。こなかったらこっちから行くわよ。いい? あなたを心配して言ってるの。これが先生の条件よ」


 なんてことだ! 名案だと思ったのに面倒なことになってしまった。

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