第三十四話 男子高校生は夜中に目覚める2

前話のあらすじ


トイレ行きたい!


 ◇◇◇


 ジットリとした湿気が肌にからみついてくる熱帯のジャングルをトイレを探してあっちこっち歩き回るみたいな変な夢を見ていた気がする。ジャングルなんだからその辺にでもすれば良いのだけど、なぜかトイレにこだわって延々と探し続ける夢だった。

 そして目が覚めれば俺の膀胱はすでに満タン状態になっていてもう猶予がなかった。るちあと樹里亞じゅりあの二人に抱きつかれたまま旅先のベッドでお漏らしだなんて、夕夜ゆうやが知ったらバカにされるのは間違いない。バカなヤツにバカにされるほどの屈辱はない。それに、樹里亞にだって嫌われてしまうかもしれない。

 オネショならまだいくらか可愛げがあるかもしれないけれど、いい歳した高校生が目が覚めてる状態での失禁なんてトラウマものだ。


「ぅうぅーっ!」


 渾身の力でもがいてみたけどビクともしない。オフレコだけど……俺よりも体重がある女の子に左右からしがみつかれていたら、冗談抜きで起き上がることなんかできない。第二次性徴で筋肉が減ってしまったせいもあるだろう。

 でも、だからと言って、こんなところで諦めるわけにはいかない!

 力でダメなら頭を使えば良いんだ。

 俺は暗闇に慣れた目で部屋の中を観察する。ベッドの足元のあたりにバッグの取っ手らしきアーチが見えた。あの中になにか役に立つものが入ってるかもしれない。手は無理でも足が届けばバッグを引っ張り上げることができる。

 両腕は動かないが肩や背中を巧みに使ってベッドの足元に向かって体を少しづつズラしていく。

 もう少し。あともうちょっとでバッグの取っ手に足の指が届きそう。

 でも、無情にも指先は空をかいた。背筋がツリそうになるほど脚を伸ばしてみたけど、バッグの取っ手に届きもしなかった。

 今の動きが俺の膀胱にじわじわくる。

 ヤバイ! 早くなんとかしなければ……。


 腕が抜けないのならば彼女たちを起こせば良い。そう思うのが普通だろう。俺だって最初はそう考えた。しかし、目が暗さに慣れて辺りの様子が見えるようになると、問題はそれほど簡単じゃないとわかってきた。

 今現在、俺の右腕はるちあに抱きつかれていた。しかもどういう経緯でこんなことになったのか、彼女が着ているキャミソールの胸元から腕が突っ込まれ、服の中を通過して裾部分……おへその辺りから指先が出ているのだ。もちろん腕には柔らかで豊かなふくらみがじかに押し付けられていた。俺はもともと寝相が悪い方じゃない。寝ていてこんな体勢になるなんて信じられない。

 そして反対側の左腕は直接触れてはいないものの、コットンワンピースの寝間着を着た樹里亞の胸に抱きしめられ、太ももに手首から先を挟まれていた。問題はその位置で、樹里亞の太もものつけねに近い場所だ。いや、正確に言えば俺の小指の辺りが下着越しに彼女の股間に完全に触れていた。

 さすがにこれは寝相の悪さとは無関係だと思いたいけど……。

 どちらにしろ彼女たちがワザとやったのでなければ、今起こすのは得策ではない。特に樹里亞が先に目を覚ます事態はどうしても避けなくてはならない。自分の彼氏が他の女の子の胸に手を突っ込んで寝ていたなんて、常に冷静な樹里亞でも怒るに違いない。


 俺はふたたび室内を観察した。すると今度は樹里亞の枕元になにかあるのに気がついた。首をねじって見てみるとペットボトルのようだ。

 おそらく、夜中に目を覚ました彼女がミネラルウォーターかなにかを飲んでそのまま枕元に置いたのだろう。ベッドを動かしたためにサイドテーブルは部屋の隅に移動していた。

 この瞬間、脳内のシナプスが光の速度で接続を開始し、俺に素晴らしい天啓をもたらした。そうだ。あのペットボトルがあれば危機を脱出できるかもしれない。


 人間というものは時としてトンデモナイ解決法を思いつくものである。そう、あのペットボトルを空にして、そこに用を足せばいいのだ。

 思いついたら善は急げだ。俺の膀胱はすでに悲鳴を上げていて、あと少しの猶予も残されていない。

 ペットボトルは樹里亞の頭の向こうにあるから口では届かない。ならば……。俺は女の子たちに掴まれたままの両腕に慎重に体重をかける。脚をそぉっと振り上げ、腰を折り曲げて頭の上までもってくる。ちょうどヨガでいう『すきのポーズ』と言うヤツだ。

 このままなんとか足でペットボトルをキャッチして、指先が自由に使える右手でキャップを開ける。それを口元に持ってきて残っている中身を飲み干してから、ふたたび右手に持って股間にあてがうのだ。

 このミッションには非常に慎重な作業と、強靭な精神力が必要とされる。俺は腹筋に力を込めながら、腰を捻って両足を樹里亞の頭の向こうに移動させる。腰を屈めているために圧迫された膀胱が苦しい。急がなければ危険だ。身体を折り曲げたために視界から外れて見えなくなったペットボトルを足先で探り当て、そっと挟んで持ち上げた。

 ペットボトルは意外に重かった。ひょっとして中身がたくさん残っているのだろうか。状況はあまり良くない。

 両足で掴んだペットボトルをるちあに当たらないように注意しながら尻の右手の辺りにそっと降ろす。俺の膀胱はもう限界に近い。

 ペットボトルを尻の下に挟んで固定し、まずゆっくりとキャップを緩める。それからまっすぐに立ててキャップを完全に外した。ここからはより慎重な作業が必要だ。足の指でペットボトルの口の辺りを挟み、ぶら下げるような感じで顔の横にゆっくり降ろす。るちあは俺の顔のすぐ近くいるため、樹里亞のいる左側だ。なんとかここまでは成功した。

 膝を曲げて脚を降ろそうとすると、マットレスが急激に沈んでペットボトルが俺の頬に倒れてきた。


 ……!!!!!


 絞り出されようとする声を必死にガマンした俺は、顔の筋肉を総動員してペットボトルを受け止めた。ホッと一息つく。

 ここで倒してしまったら中身がこぼれてびちゃびちゃだ。下手をすれば樹里亞が目を覚ましてしまう。

 ペットボトルを頬で支えた状態で顔を少しづつ後ろへ下げていく。こうしてペットボトルを傾けていくのだ。両手が使えないので難しいが、慎重にやればこれで飲み口を咥えることができるハズ。


 しかし、そこでまた予期しない事態が起こってしまった。

 ゆっくりと引いていた俺の後頭部が硬いものに当たった。るちあの額だ。彼女は眠ったまま身じろぎした。そのせいで急に身体が引っ張られ、顔の横でペットボトルがこちらに倒れてくる。

 ペットボトルにほぼいっぱいに入っていた液体が俺の鼻にこぼれてシーツに落ちた。

 一瞬の判断が明暗を分けることもある。

 中身が溢れ出てくるペットボトルの口を息を止めて咥えると、鼻で呼吸を整えてから中身を飲み始めた。幸いにしてこぼれた量はごくわずか。

 中身は予想通りミネラルウォーターだった。ぬるくなった硬水の味はイマイチだったけど、文句なんて言ってられない。必要なのは容器の方だ。

 水が気管に入らないように注意しながら、落ち着いて時間をかけて飲み下す。しかし、すでに膀胱が限界に達していた体に新たに水分を補給する行為は諸刃の剣だった。

 下腹部からゾクゾクとした違和感が這い上がってくる。

 あと少し。がんばって水を飲み干してから、それを足で挟んで移動させる。ついでに履いていた短パンと下着を右手の指だけを使ってなんとか膝の辺りまで降ろした。

 もしここで彼女たちが目を覚ましたら最悪なことになるけれど、時間を無駄にしていたらもっと悲惨な結果になる。俺はためらわなかった。

 ペットボトルを使って用を足す方法は、ネットかなにかで読んだ気がする。たしか、トイレに行く時間を惜しんだネットゲーマーが編み出した究極に下品なやり方だ。ペットボトルを空にして、口の部分を股間にあてて用を足すワケなんだけど……。


 『あてる』って、いったいどこに?


 ◇◇◇


「ユキオはオシッコがうまくできないみたいなの……」


 うつむいている女性の姿が記憶の奥から浮かび上がる。それをなだめるもう一人の女性。それが若い頃の母親と祖母であると気づくのに少し時間がかかった。

 洋式トイレは『おまる』の延長線上にある。そのまま座って用を足せばそれでいい。終わったらロールペーパーで拭いて流すだけだ。でも、幼稚園に入るようになって始めて見た男性用の小便器は壁から生えている変わったカタチの便器で、どうやって使うのかまるでわからなかった。トイレに付き添ってくれた先生に教わってズボンとパンツを降ろして小便器の前に立つ。

 でも、オシッコは便器の中に収まらず脚を伝ってズボンを濡らしていた。

 幼稚園から親に連絡がきて家でトイレの練習をするようになった。でも、何度やってもうまくできない。今から考えてみれば普通の男性と違うのだから、できなくても当たり前だ。でも、当時そんなことを知る由もない親たちは、何度練習してもできるようにならない『立ちション』を早々に諦めて、俺に座ってやるように教えた。その一件も俺の正しい性別がこの歳まで判明しなかった原因の一つでもある。


 ペットボトルで用を足す方法はもしかしたら男性器でないとできないのかもしれない。体の構造が違うのに男の真似をしようとした愚かな自分。なぜか鼻の奥にツンとした痛みが走った。

 今さら親を恨む気持ちがあるわけじゃない。だって、男として育てられたおかげで俺には男としての自我と戸籍が与えられたのだ。そして、近所の神社の敷地の中で一人でブランコに乗っていた時に樹里亞と知り合って、今はこうして付き合っているのだ。

 もっと小さい頃から女の子だとわかっていたら、俺は自分の意思もなにもないまま女の子として育てられたことだろう。他の女の子たちと楽しく遊んでいたら、あの時、樹里亞に出会うこともなかったかもしれない。


 そうだ。俺はいったいなにを心配していたんだろう?

 樹里亞はいつでも俺を信じて、俺を守って、そして俺を受け入れてくれる。

 樹里亞を起こそう。

 そう決心した俺は彼女の方に向き直り、抱きつかれている手を動かした。


「ぅ……ん?」


 樹里亞の唇からかすかな吐息が漏れる。

 でも彼女が目を覚ます様子はない。

 太ももに挟まれてほとんど自由が効かない左手をなんとか動かして、樹里亞を起こすために揺らし続ける。


「んぅ! あっ!」


 え? ちょっ待ってよ。

 吐息に紛れてなんだかセクシーな声が聞こえる。

 あの大人びた樹里亞の口からこんな声が出るなんて……なんていうか、ええと、その……すっごく嬉しい!

 なぁんてエッチな余韻に浸ってる暇はなかった。とりあえず彼女には目を覚ましてもらわないといけないのだ。

 俺は引き続き手を動かした。


「あっ、あっ、あっ、も、もう、それ以上は、ダメよ、雪緒ゆきお!」


 え?

 樹里亞の柔らかい部分に押し当てられていた俺の左手は、彼女に掴まれて今は頭上に掲げられている。


「起きてたの?」


「うん」


「いつから起きてたの?」


「夜中に喉が渇いてお水をとってきた時……かな」


 え? ちょっと意味ワカンナイ。


「気がついたら、あなた……るちあの胸に手なんか入れてるんだもの、悔しくってあたしもやってみたの。そしたら目を覚まして、暴れだしたから、なにするのかと思ってコッソリ見てたのよ。あなたも喉が渇いてたのね。ペットボトルを足で挟んでがんばって飲んでるものだから、なんだか可愛くて、笑いを堪えるの大変だったのよ」


 なんだって?

 樹里亞を起こさないように必死に耐えてがんばっていたというのに、笑いを堪えただとぉ!

 樹里亞はいつもそうだ! 今まで彼女にされてきた酷い仕打ちを思い出して、思わず怒りが湧き上がる。

 今日こそは樹里亞を糾弾して、その罪を償わせよう。彼女が涙を流して謝るまで俺は絶対に……!


 ……なんて息巻いてる暇は今の俺にはないのだった。

 自由になった左腕でるちあの腕を引き剥がし、彼女のキャミソールから右腕を引き抜くと一動作でベッドから飛び降りた。


「ちょっとトイレ行ってくる!」


 彼女に文句を言うのは用を足してからでも遅くない。俺は脱兎の勢いで洋室を飛び出した。


 ◇◇◇


 夜中だから当たり前だけど隣の和室は真っ暗だった。

 宏海ひろみと夕夜が布団を敷いて寝ているハズだけど、どの辺りにいるのかさっぱり見当がつかない。まぁ、アイツらなら踏んづけても怪我しないだろう。

 そのまま暗い廊下に出て、手探りでトイレのドアノブを回す。しかし……どういうわけかドアが開かない。パニックに陥ってドアノブをガチャガチャ回すと、中からノックの音がした。


 誰か入ってる!


 こんな夜中にいったい誰がっ?

 いや、普通に考えれば和室には男二人が寝ていたのだから、どちらかがトイレに入っているに決まってる。しかし、よりにもよってこのタイミングだなんて!


「ゴメン。ちょっとピンチなんだよ。すぐ出れるか?」


 そう言ってドアをノックする。

 俺の膀胱は限界をとうに越えて、もはやいつ漏れてもおかしくはないレベルに達していた。

 早く出るように急かすなんてマナーに反するけれど、そんなことを気にしている余裕はない。

 しかし、無情にもドアは開かずふたたびノックの音が返ってくるだけ。


 どうする? どうすればこの状況を乗り越えられる?

 小さかった頃、トイレを父親に占領されてガマンできなかった時、母親に連れられて用を足した場所があった。


 風呂場だ!


 露天の大浴場があるので補助的な役割のものなのだろうが各部屋にもシャワーがある。実際俺は今日、みんなが大浴場に行っている間に一人でシャワーを浴びたのだ。

 風呂場で用を足すなんてエチケットに反する……なんて話はこの際割愛しよう。

 トイレの先、廊下の突き当たりのドアが脱衣所になっていて、そこを抜ければすぐに浴室だ。

 俺は短パンを脱ぎ捨てて、脱衣所のドアを勢い良く開けた。

 すると、なんとそこにも先客がいた。


「よう、雪緒。お前もこんな時間に風呂か?」


 Tシャツを捲り上げ、これからまさに脱ごうとしていた宏海がそこに立っていた。

 ということはトイレに入ってるのは夕夜か。なんでこいつらこんな夜中まで起きてるんだ?

 そんな疑問もトイレで水を流す音に掻き消された。

 やった、これでトイレに入れる!


「そうだ雪緒。どうせなら露天風呂行こうぜ。24時間やってるからよ」


 そう言って宏海がニヤっと笑った。

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