第四十九幕 ―― 心の在り方
天敵――本当にそんな存在がいるならば、間違いなくこの癇に障る幼女のことだ。
と、マツリカは目の前に立ちはだかるカミツレを睨んだ。
脇腹から滴る血を押さえて己の状況を冷静に判断する。半減した力でアイリスとやり合い、想像以上の深手を負ってしまった。元々、死を覚悟してカミツレと対峙するつもりだったが、もはや満身創痍となったこの体では数秒も待たずして確実に殺されるだろう。
己の願望を成就させるために犯した罪と、向き合う時がついにきてしまった。
マツリカは最後にカシアのことを想い、今後どのように彼が成長していくのかを想像すると少し口元が緩む。覚悟はできた……ブリュンヒルデを強く握り直し、マツリカは幼女の皮を被った怪物に鋭い矛先を突き付けた。
すると、カミツレはその様子を呆れた顔で見澄まし、ため息を漏らしてこう言った。
「もう終いにせんかね? あちらも鉄門を破ってジュークに辿り着いたようだ、これ以上の戦いは無意味。今のキミでは勝負にもならんよ」
つい先刻、自分がシキミにかけた言葉をそのまま返され、急に笑いが込み上げてきた。あの子もきっとこんな絶望を味わってたのだろうと。
一つだけ違うのはアイリスはどんなに追い詰められようとも、決して挫けなかったことだ。それに比べてマツリカは、カミツレと対峙した時点で全てを諦めてしまっている。
いや、三ヶ月前にカシアを連れてシーヴァを脱出した、あの日――。
カシアが頭に銃を突きつけ己を犠牲にしようとしたあの時から、すでに敗北していたのかもしれない。
全てはカシアのために――。
それだけを想い、危険を冒して今日まで計画を進めてきた。
しかし、どこで間違ったのだろう?
カシアのことは何でも理解しているつもりだった。彼が受精卵の頃からずっと見守ってきたのだから。それが母性や愛情と呼べるものだったかは、今もまだ答えは出ない。
しかし、一つだけ確かなことがある。まだ幼いカシアがこの手を握って微笑んだ時。それまで人形に過ぎなかった自分に《喜び》という人の感情を与えてくれた。
あの時に感じた胸の温かさは今でもハッキリと覚えている。
だから、彼を誰にも渡したくはなかった。
だからこそ、アイリスが妬ましかったのだ。
カシアに拒絶されてしまったあの日……。
すでに役目を終えていた。
彼はこの手から巣立ってしまったのだと。
さぁ、これで終わりにしよう――。
マツリカは凍てつく冷気を発してカミツレを睨む。
「そうね、ここまでのようだわ。さぁ殺しなさい、私の代わりは既にいる。彼があの子を選んでくれれば、私の想いは成就できるのだから。それで……充分よ」
それを聞いたカミツレは眉を曇らせた。
「ヒマワリのことかね? 彼女を診た時にもしやとは思ったが、なんて愚かな真似を。今のキミは、キミの体と心、二つを合わせてキミという存在を形作ってるのだ。どちらかが欠けてもそれはキミではない、別人なのだよ」
だが、そんなことは言われずとも薄々気付いていた。
だからこそ、マツリカは悔しかった。
「私達はバイオノイド……どんなに憧れても人間には成れないわ! 人でないモノが、彼を幸せにすることなんて出来やしない。子孫さえ残せない呪われたこの体を捨てるには、あの子に望みを託すしか他に方法がなかったのよ!」
誰にも明かしたことない胸の内を吐き出す。
悔しさも憎悪も全て、カミツレにぶちまけた。
それなのに彼女は、不思議そうな顔で首をかしげるばかりだった。
「何を言ってるのかね、ちゃんと持っているではないか。《マツリカ》という人としての名、その悩める心を。それが人間というものさ。人形だったマトリカリアは、もう何処にもいない。カシアはキミのことをなんと呼んでいたかね? それが答えだよ」
なんていい加減で傲慢な考え方……。
しかし、それはいかにもカミツレらしい答えだった。
「完敗ね……私はセヴンスとしても、カシアに対しても役目を果たせなかった。とんだ不良品だわ。あとは好きにしなさい、憎悪に満ちた人間達の中に放り込まれようとも、悔いはないわ――姉さん」
「愚妹よ、まだそんなことを言ってるのかね? まぁいい、私直々に説教してやろうと思ったのだが、先客が来たようだ。彼にその答えを問うてみたまえ」
彼女が指差した先に目を遣る。
その方角から一台のホバーバイクが現れて土砂の手前で停車すると、一人の男がまっすぐこちらへ歩いてきた。いつも後ろで結んでいた芥子色の髪が解け、前髪が顔にかかって少し別人のように見える。
だが、その口調は変わりはなく、いつもの軽い調子でマツリカに語りかけてきた。
「よう、久しぶりだな」
「セージ……今さら何をしに来たのかしら?」
「かぁ~っ、相変わらずだな。お前を迎えに来たんだよ」
「何を言っているのか分からないわ? 記憶力が無いの? 私はお前を捨てたのよ」
「だから俺は、お前を拾いにきたのさ」
相変わらず図々しい男だった。
「理解できないようね、私が、アナタを、見限ったのよ。早く立ち去りなさい!」
マツリカはいつになく厳しい表情でセージを突っぱねる。
しかし、以前の彼ならここで土下座をして許しを請うはずだが、今の彼は毅然として一歩も譲ろうとはしなかった。
「――マツリカ、お前がどれだけ酷いことをやってきたかは俺も知ってる。そいつはいつまでも、人の心に刻まれて消えはしないだろう。だがな、俺がお前の全てを許す! カシアの奴だってきっと同じことを言うぜ。お前がその気になったら、いつでも俺やカシア、ヒマワリのところへ帰って来い。また四人で……いや、今じゃもっと大所帯になっちまってるが。とにかく、お前は大切な家族の一員なんだぜ。居場所なら俺がいくらでも作ってやるよ!」
その
何かを言い返そうと口を開いたが、どうしてか言葉が出てこない……。
すると、セージの後ろで物悲しそうな乙女の声が聞こえた。
「セージさん……その中に、わたしもちゃんと入ってますよね?」
「おうおう、泣くな泣くな。ヨモギもちゃんと頭数に入ってっからよ」
「……はいっ!」
そうして最後に、ニヤついたカミツレが一言だけ告げる。
「――――だ、そうだ」
どうしても抑えられない。
今まで流したこともない、熱いモノが目元から溢れて止まらなかった。
「……本当に、馬鹿な男」
「あの子たちは、もう自分の足で歩いていける。いつまでも手を貸していてはダメなのだよ。私とキミの本来の役目は次世代の子供たちを育て、見守ること。キミは愛情というものを見誤った。愛情は押し付けるものではない、分かち合うものなのだよ。キミもまた、この歪んだ世界に翻弄された犠牲者だったのさ」
悔しい反面、実に清々しい――。
孤独という、胸の内に築いた壁が音を立てて崩れていくのを感じる。
そしてこの日、マツリカは初めて人の暖かみを理解した。
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