第十九幕 ―― 眠り姫

 急にしおらしくなったシキミは頬を赤く染めて俯く。シキミが夢の少女だったと確信した瞬間、降り積もった胸のモヤが吹き飛び、心の中に蒼い晴天が広がっていくのを感じた。


 でも、いざ彼女を前にしてカシアは気付く。

 自分には相手と繋ぐ記憶もない。

 夢を追うばかりで彼女に出会えた時、どんな言葉をかけるか考えていなかったのだ。


「えっと、その、どうしよう、何から話せばいいのかな?」

「…………」

「あ、う……その……」


 口籠もるカシア……だが、言葉など初めから必要なかった。いきなりシキミがカシアの胸元に飛び込んできたからだ。シキミが蹴飛ばされた器が畳の上を転がり、二人は後ろに倒れ込む。目を真っ赤に腫らし声を殺して泣く彼女の息遣い、少し遅れて大粒の雫がシャツに染み広がった。


「二度と……もう二度と逢えないと思ってた……」

「――僕もだよ」


 二人は畳の上に寝そべって天井の梁を見上げる。

 懐かしいラベンダーの香りを吸い込み、絹のように細い紫黒色の髪を優しく撫でてやった。


 ――ああ、そうだ間違いないこの感じだ。


 無くした過去と現在を繋ぐ鍵が、胸の鍵穴にスッポリと収まった。

 出てこなかった言葉が自然と湧き溢れてきて、カシアは長年胸の奥に溜め続けた想いを今やっとシキミに伝える。


「いつも夢を見てた、君の夢を。どうして君の名を思い出せないのかは分からない。でもあの日、君が現れた瞬間……僕の中で眠っていた何かが目を醒ましたんだ。今はまだ、全てを思い出すことはできないけれど、もう君を失いたくない」

「……うん」


 シキミは短く頷くと、言葉を書き足す。


「やっぱり、あの女に……記憶を消されてしまったんだね」

「あの女って? 誰のことを言ってるのさ?」


 彼女から飛び出したセリフにカシアは少し戸惑った。あの閉鎖された空間にいた14年間、シキミ以外の人間がいた記憶などなかったからだ。

 しかし、彼女は別の誰かがいたと告げた。背筋に凍えるような恐怖が走り抜け、カシアは思わずシキミの背中を強く握りしめた。


「大丈夫だよ、無理に思い出さないで……」

「……うん」


 シキミの優しい声に少しだけ不安が薄れ、カシアは軽く頷いて目と目を合わせる。

 すると、彼女は顔を赤くして別の話題を投げかけた。


「カシア……こんな物語を知ってる? 昔、美しいお姫様が悪い魔女に騙されて、毒リンゴを口にするんだ。その姫は永遠に眠り続ける呪いを受けてしまったけど、彼女を救いにきた王子様の口づけで、もう一度目覚めることができたんだって。ねぇ、その逆はどうなんだろう? 今、アナタに口づけしたら全ての記憶、取り戻せるかもしれないよ……?」


 大きなまぶたを伏せシキミが淡く艶がある紅色の唇を、そっとカシアの口元に近づけてくる。甘い吐息が混ざり合い、お互いの鼓動を感じ合った。

 サクランボみたいに柔らかな彼女の唇と今にも重なろうとした――その時。


「お嬢! 大変だ、森に仕掛けておいた罠に箱庭のスパイが……って。き、き、貴様ぁああああああああああああぁ~っ! 俺のお嬢に何をしたぁあああっ!」


 引き戸が豪快に開けられると、シキミと抱き合っている場面をニゲラに目撃されてしまい、錯乱した彼が唸り声を上げてカシアに襲いかかってきた。

 次の瞬間――シキミが畳を叩いて跳ね起きると、大きく右足を振り上げて袴からしなやかな太ももを露出させた。


「ノックくらい…………せんかぁあああああっ!」

「ぶべぇぇぇっ!」


 強烈な前蹴りがニゲラの顔面をえぐり、彼は引き戸と一緒にキリ揉みしながら庭先へ蹴り飛ばされる。宙返りして顔面で地面をワンバウンドしすると、海老反りになったまま勢いを止めた。

 シキミは両手で乱れた襟をキッと正し、その手をカシアの顔に差し出す。


「――さぁ、行くぞ」


 シキミがすっかり普段の口調に戻ったのでカシアはその急変ぶりに少し笑うと、彼女が伸ばした手をがっしりと握った。





 昼と夕の波間――西の空がほんのり赤みを帯びた頃。街ではちょっとした騒ぎになっていた。森に設置した狩猟用の罠に、箱庭のスパイが掛かったと口々に噂が広がっていたからだ。

 スパイ……その存在がカシアを取り戻したい何者かがいるということだ。未だ解けない呪縛。自分のせいでアキヴァルハラのみんなに迷惑がかかるのではないか? そんな不安が両肩にのしかかる。


 シキミはティオダークススのメンバーを招集すると、顔色を返ることもなく皆を引き連れて捕縛現場へと赴く。同行させられたカシアは馴れない茂みに足を取られると、顔に痣を作ったニゲラがドスっと左腕に肘打をしてきて、


「テメェには絶対、お嬢は渡さねぇ。夜道は背中に気をつけるんだな」

「アハハハハ……」


 なんて、不気味なセリフを耳打ちされた。


 腰まで伸びた草や蔓をナタで切り払って、一行は獣道に長い列を作って歩き続ける。普段は人が立ち入らない場所らしく、山歩きに馴れた彼らも一苦労のようだ。喉は渇くし、足場は不安定、何よりヤブ蚊が最大の障害だ。


「あれだ」


 しばらくして少し開けた窪地に抜け出ると、木に吊り下がった人のシルエットが目に飛び込んでくる。髪は泥で固まり、臭いも酷い、そしてピクリとも動かない。数人が手にした木の棒でその不審者をつついた。


「――生きてるのか?」

「はい、お嬢。息はありました、男のようです。イボイノシシの罠に人間が引っかかるのは初めてですが、間違いなく箱庭の人間です」


 下っ端の男が言う通り、腕にはあの黒い腕輪があった。

 間違いなく箱庭の人間だ。

 カシアとヒマワリ以外にも離脱者がいたのか?

 いいや、それは考えづらい。

 あの便利な街の生活に慣れきった者が、当てもなく箱庭を飛び出すなどあり得ない話だ。

 そうなると、噂されていたスパイという言葉が重く現実味を増してくる……。


「切るぞ、そっち持て」

「せーのっ!」


 足に絡んだワイヤーが切断されると、無残な姿で吊られた男は湿った地面に沈むように落ちた。この場にいた全員に緊張が走り、カシアはシキミの後ろからそっと覗き込む。横たわったスパイを誰かが靴底で押して前を向き素顔が露わになると……、

 思わず、カシアは声を上げてしまった。


「あっ!」

「知ってる顔か?」


 ニゲラの問いに無言で頷き、もう一度その面を覗き込んで確かめる。

 間違いなく《彼》だった。


「セージ……」


 スパイと騒がれていた人物の正体はセージだった。

 彼はゲッソリと痩せ細って白目を剥き、前歯にはイノシシの餌であったジャガイモが突き刺さっていた。見るも無残な彼の姿にカシアは絶句するしかない。


「このまま捨てていくか?」

「どうせ、よそ者だしな。死んでも誰も悲しまねぇ」

「ちょ、ちょっと待ってよ。彼は僕の……」


 すると、カシアの慌てた様子を察したシキミが手を掲げて部下たちを集める。


「この者を聖地へ連れ帰る。一応、発信機などの有無は調べておけ。話は男の体力が回復してからだ」

「お、お嬢、こいつもアキヴァルハラに入れる気なのかよ? コイツらは、いつ裏切ってもおかしくないんだぜ!」


 不満げなニゲラが不満を漏らすとシキミはまたかといった顔で大きなため息を吐き、歯向かう彼に問いを投げかけた。


「ニゲラ、お前は今だにヒマワリのことをスパイだと思っているのか?」

「あ、あいつにはそんな度胸も体力もねぇ。物を知らない、ただの娘です……」


 ニゲラは口籠もって視線を逸らす。

 シキミは仲間の前でパンっと手を叩いて声高らかに説いた。


「ならば、そういうことだ。箱庭にいる人々は、外に広大な世界があることを知らないだけなのだ。我々が倒すべき相手は箱庭を支配している《管理者》と、この状況を生み出している《元凶》のみ。そして私もシーヴァからの脱走者だった。彼らを批判することは、私を批判することだと思え!」


 その力強い言葉に反論する者は誰一人いなかった。

 毅然として、真っ直ぐで、揺るぎない意志。

 カシアはこの時、みんながシキミを慕う本当の理由を知った気がした。

 夢の中では甘えん坊だったのに、何が彼女をここまで変えてしまったのか?

 その眩しさの裏にある闇にカシアは少し物悲しくなった。


「お嬢、すんませんでした!」

「謝る必要はない。ニゲラ、お前は血の気が多いだけで与えられた仕事は必ずやり遂げる男だと知っている。今後も、与えられた役割をしっかりと果たせ」


 素直に非を認めたニゲラは深々とシキミに頭を下げると、部下を呼び寄せて即席の担架を作らせた。それにセージを乗せるとニゲラ自ら担架を担ぎ、一面に茂ったシダを踏みしめ悠々とした足取りで帰路についた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る