第一幕 ―― 箱庭

 そこは10メートル四方の白い壁に覆われた、密室――。

 カシアは生まれてからずっと、この狭い部屋で14年の月日を過ごしてきた。

 いつものように夢の途中で目が覚めると部屋はまだ真っ暗だった。


 ベッドで寝返りをうつ。


 腕にはめられた伸縮性のある黒い腕輪に目をやり、ザラザラした腕輪の表面を指で二回叩く。と、眼前に緑色の小さなスクリーンが浮かび上がって現在時刻を表示した。


「午前5時……45分。6時までに一冊読めるかな」


 青白い光に照らされて目を細めると、カシアはそっと指を伸ばしてスクリーンをフリップする。軽快な指の動きに合わせてインストールされた本のリストが入れ替わり、文学、哲学、歴史、家庭の医学書などが瞳に映り込む。


「よし、これにしよう」


 腕輪に記録された蔵書の中から《ロミオとジュリエット》という古典文学を選択すると、スクリーンが視線の動きを読み取り次々とテキストを流していった。


 それから10分が経過する。


 画面の右上に読了のランプが点灯し、もう一度スクリーンをタップして本を閉じた。内容は在り来たりだったけれど、他人を知らない自分にとって唯一、人という種を理解するためのツールなのでこういう類いの本は読み飽きることはない。

 が、しかし……


「むぅ、やっぱり何か違うんだよなぁ。いつも見るあの夢って、本で読んだ物語か何かだと思ってたけど……どうしても思い出せない」


 そう。どちらかといえば本を読み続ける理由は後者なのだ。


 午前5時56分――。

 膝を丸めて身を起こす。いい加減このモヤモヤを解決したいカシアは髪をかき乱すと、刈り上げられた首の裏で手を組んでもう一度ベッドに倒れ込んだ。バフっと、ボリュームのある黒髪が扇状に広がる。


《ピピッ》


 そして時刻は、午前6時――。

 電子音と共に天井一面が薄すらと部屋を照らし始め、5分くらいかけて日中と同じ光量に達する。

 そして、いつものように《マトリカリア》がスリープ状態から復帰して、一日の始まりを告げた。


《オハようゴざいまス、カシア。今日は珍しくオ寝坊デスか?》


 片言の合成ボイスで語りかけてきたマトリカリアは、全長50センチの小さなサポートマーキナー。ちなみにマーキナーとは、古代語で《機械じかけ》という意味だ。

 白い円柱のボディ。頭部が半球状をしたシンプルなデザインで、前面には人の目に似せたランプが二つ取り付いている。目の回りを黒い楕円状をしたガラス繊維のパーツがはめ込まれていた。

 他にも物理的な動作をする時、円柱の一部が開閉して内蔵されたアームが出てきたりと隠し機能も満載だったりする。

 マトリカリアはカシアが物心ついた頃からずっとそばにいて、言葉や知識の習得、身の回りの世話など小さな体一つでこなしてくれていた。


 恐らく、マトリカリアには感情という概念はないのだろう。


 それはボディに彫られたナンバー《256》の文字が示しているように、他にも同じ数字の数だけこんな部屋が存在していて、同様の作業に従事している量産機があると推測できるからだ。

 だからといって、マトリカリアを無下に扱おうとは思わない。

 マトリカリア以外に会話ができる相手もいないし、ここまで自分を育ててくれた家族なので愛着もある。

 何より音声の元になった女性の声色が心地よく、それを耳にしているだけで不思議と安心感が湧いてくる。


「いいや起きてるよ。おはよう、マトリカリア」


 スっと立ち上がり、いつもの通りに壁の前に立つ。

 壁のパネルが左右上下と目まぐるしくシャッフルされ、三面鏡付きの洗面台が現れる。そこに映し出されたのは、ボサボサの黒髪、幼さが残る緩い顔、眠そうな眼差しで煌めく碧眼。それに華奢で色白の肌だった。


 歯を磨き、顔を洗い、身なりを確認する。

 いつも気になるのは14年間変わらない白い服。古書から引用すれば《病院服》とか《白衣》と呼ばれるモノに近い。いつも読む古代の物語では、もっと多種多様な服があるのに……どうにかならないものか。ため息をついて後ろへ振り返ると、タオルを掲げたマトリカリアがアームを伸ばし、不服そうなカシアの顔をじっと眺めていた。


「ありがとう」

《ドウ、いたしましテ》


 受け取った白いタオルで顔を拭うと、仄かに香るシトラスが残っていた眠気を吹き飛ばす。カシアはもう一度タオルを顔に当て深く呼吸した。

 手にしたタオルを顔からどけると、ベッドがあった床の底が抜けて床下に格納され何もなくなった床が再び持ち上がり、今度は四角いテーブルとイスが現れた。

 カシアが首を鳴らしてそのイスに腰を落ち着けると、右足の辺りにあったタイルが手元まで伸び、本日の朝食リストが表示された。


「今日のおすすめは、七つの緑黄色野菜風味ペースト、合成肉のフレークペースト、ヨーグルト風ゼラチンゼリー……。少しはさ、歴史書に載ってたような目で楽しむサプライズ的なメニューはないのかい?」


 肩を落としてマトリカリアに語りかけると、彼女は……、


《栄養価は、基準値ヲ全て満たしていまス。問題ありまセん》


 と、いつもこの一点張りだった。


「はぁ、何かの古文書に載っていた、血の滴るビフテキなるモノを死ぬまでに一度食べてみたいもんだよ……」


 迷うことなく、カシアはランダムと表示されたボタンを押す。次に飲み物の選択を催促されたが、朝食にはいつも紅茶(アールグレイ)と決めてあるのでここで悩む必要はない。ブロック状のテーブルの底が抜けて再びタイルが上がってくると、さきほど選択した朝食が手元に揃った。


「うわぁ、よりによってゼラチンゼリーだよ……」


 四角いプレートに満たされた乳白色の物体。カシアが眉を寄せると、マトリカリアの愛らしい双眸のレンズがフォーカス音を立ててジッとこちらを見張った。

 ガクリとあごを落として、見てくれも味も最下級のゼラチンゼリーを四角いスプーンですくって口へ運ぶ。ゼリーのくせに弾力があり、噛めば噛むほど口の中が粉っぽくなる食感にカシアは眉を歪めた。


「はぁ、ゲロマズさまでした~」


 口元に白い液体を垂らして完食すると、マトリカリアがテーブルナプキンを差し出して口を拭ってくれる。その後、口直しにアールグレイで不快な味覚を上書きした。

 ふうと息を吐いてティーカップをテーブルに戻すと、空きになった手が腕輪へと向かい、カシアは今日の予定を下調べする。


 朝食の後はいつもマトリカリアが教師となって、復元された旧世界の学問を学ばせてくれる。それがここで一番の娯楽で、中でも神話と歴史はカシアのお気に入りだった。


 内容はこうだ――かつて人類は百億近くまで人口を増やし、繁栄と栄華を極めていた。だが、全ての人間が幸せだったというわけではない。わずか1パーセントの人間たちが富を独占し、それ以外の人間は日々を生き抜くだけで精一杯な生活を強いられる不完全な社会だった。


 やがて溜まりに溜まった憎悪と欲望がはち切れると、人と人、国と国、主義と主義がぶつかり合って築き上げてきた秩序が崩壊してしまい、終末戦争が勃発――。

 この時、ありとあらゆる兵器が使用されて地表の全てが焼き尽くされ、人は自らの存在まで世界から消し去ったと。そう教えられてきたのだ。


 でも、その後どうなったのか?

 自分はどうしてこんな場所にいるのか?


 重要な部分は、マトリカリアから未だ回答をもらえていない。

 いつものように頬杖をついてスクリーンに浮かんだ文字を流し見していく、と――。


「あれ? ない、今日の予定がない?」


 真っ白だった。本来ならカシアの学力に合わせた選択肢が、スクリーンに表示されるはず。それなのに今日は、項目が一つも出てこなかった。


「あれれ、壊れちゃったのかな……えいっ」


 ブンブンと風を切るように腕輪を振り回していると、マトリカリアがか細いアームを伸ばして背中を突いてきた。


《今日は新シい課題ガ、用意されテいまス》

「新しい……課題? 何だいそれは?」

《はい。引っ越し、デス》

「へぇ、引っ越しかぁ……引っ越し? 引っ越しぃいいいいっ?」


 生まれてからこの狭い密室しか知らないカシアはひっくり返ったような奇声を上げ、大きく目を剥いた。


《コちらへ、どウぞ》


 一方のマトリカリアは無感動に回れ右をすると、床から機体が五センチほど浮き上がる。ゆっくり壁に向かって進み出し、カシアもその小さな背中を追った。

 閉ざされた狭い部屋なのですぐに壁にぶち当たり、マトリカリアに埋め込まれた赤いLEDランプがモールス信号みたいなリズムで激しく点滅すると、壁の一部に鍵穴のようなモノが突起した。


 マトリカリアの小さなアームが壁に接続した途端、壁一面が激しくシャッフルされる。何枚もの防護壁が縦横に開閉し終えると、甲高い電子音と共に初めて聞く電子ボイスが部屋に響き渡った。


《アクセス完了……ナンバー256ノ申請ヲ……受理》


 カシアの眼前に、存在さえ知らなかった通路がどこまでも続く。

 横面から汗が流れ、喉がゴクリと音を立てた。


 長く、先の見えない通路。ヘキサゴン(六角形)を模した通路は薄暗く、等間隔に連なるフットライトは終着点が遥か先であることを告げている。

 いつも決められた予定をこなす。それが全て、それが日常。

 カシアは虚を突かれたこの状況にただ流されることしかできなかった。


「ねぇ、マトリカリア。この通路、どこまで続いてるのさ?」


 不安を隠せずマトリカリアに何度も同じ質問を繰り返したが、返ってきたのは床の金属板を踏む自分の足音だけ。それから1時間ほどカシアは無言で薄暗い通路を歩き続けた。


 ふとした瞬間、通路の先から眩い光が差し込んでカシアとマトリカリアの影が大きく後ろに間延びしする。通路の敷居をまたぐと一陣の風が耳許を撫でて通り、広大な空間が目に飛び込んだ。

 そこにあったのは以前に電子画像で見たことがある草花の絨毯、せせらぐ小川、そして本物の鳥や蝶が自在に宙を舞う姿だった。


「現……実……なの?」


 まるで夢でも見ているような気分。初めて目にする緑にも驚かせられたが、それ以上に強烈なインパクトが他にあった。カシアはココをよく知っている。今立っているこの空間こそ、いつも夢に出てくるあの場所そのものだったからだ。


《さア、あと少しデス。行きまショう》


 さっきまで黙り込んでいたマトリカリアが再び喋り始める。彼女を追って緩やかな草の坂道を下り小川に架けられた木造の橋を渡ると、背丈ほどの木々に囲まれた小道で周囲を見渡した。


 どことなく見覚えのある情景……。


 何となく、何となくだが、次に出てくるモノを言い当てられる。

 草むらに連なった三つの岩、樹洞に作られたムクドリの巣。

 そして、あの小高い丘に見える《赤い果実》が実った大きな立木。

 間違いない、ここはあの夢の場所だと確信して心臓は鼓動を早めた。


 目まぐるしく動く視線を上に向けると、アーチ状に重なり合ったドームの梁に目が留まる。梁の間にはビッシリとガラスが張られていて、所々が陽の光を反射する様子が物珍しかったからだ。


 カシアは改めて実感する。

 スケールこそ違うが、ここもまたあの部屋と同じ箱庭なのだと。


 だが、それでも大きく違う点もある。

 それは本物の空が頭上に広がっていることだ。

 広さや本物の動植物も目新しいけど、蒼く吸い込まれそうな空に雲が流れていくさまはまったく同じものはなく、人には作り出せない代物なので何より心が惹かれた。


「あれが、外の世界……」


《――到着、しまシタ》


 あれやこれやと思いを馳せている内に、カシアとマトリカリアは丘の頂に到着していた。緊張しきった気分を晴らそうとカシアは緑の香りを鼻から一気に肺へ送り込み、ゆっくりと口から息を吐き出してもう一度天を仰いだ。


「何してんのよ、アンタ。ボーっと天井なんか見上げちゃって」


 すると突然、後ろから呼びかける声が背中を突き刺した。

 それは無邪気で透き通るような声色で、風に乗って耳許を吹き抜けていった。掌に汗が集まり大きく喉を鳴らす。カシアは胸元を掴んで白い服にシワを作りそっと後ろを振り返ると、そこに一人の少女が佇んでいた。


 太陽の恵みをそのまま色にしたような目映いブロンド。胸元まで伸ばした長めの髪を二つ結びにして肩から流し、キツく縛った結び目から溢れるように髪が膨らんでいた。

 体はカシアより一回り小さくよく似た白い服を着ていたが、腰回りにスリットの入ったヒラヒラする短い布が付いていた。これも古文書の情報を元に推察すると、スカートと呼ばれる女性用の衣類なのだろう。


 初めて目にする本物の人間、他人、そして異性。


「き、きゃみは……誰?」


 何もかも予想を超えた出来事に思考がすっかり置いてけぼり、思わず言葉を噛んでしまったカシアは赤面して少しあごを下げる。

 もの凄く気まずい。


 一方、ブロンドの少女は指で黄金色をした生糸のような髪を掻き上げると、ムスッと眉間にシワを寄せ、まぶたを細く狭めて腕を組んだ、そして――。


「誰とは失礼ね、こういう時は自分から名乗るもんでしょうがっ」


 と、初対面でいきなり喝を入れられてしまう。カシアが勇気を振り絞り他者と交わしたファーストコンタクトは、《怒られる》だった。


 けれど、威圧感よりもこちらを威嚇する彼女の態度は何かしら未知の可愛さを感じられたが、カシアはそれを表現する妥当な言葉を持ち合わせてはいない。

 時が止まったかのように陽の光に輝くブロンドに見蕩れていると、彼女が持つ若草色の瞳がさらに鋭くなってへの字に曲がった口からため息混じりの息を吐く。

 途端に緊張を解いて、同伴したマトリカリアと同型のマーキナーを問いつめた。


「はぁ、512。こんなのが私の《つがい》になるわけ?」

「ソウ、デス」

「あ~も~、もっとさガッチリしててさ、わたしをリードしてくれる素敵な殿方を想像していたわけよ? こんなもやしっ子、薪の足しにもにならないわ……」

「システムが選別、シテ最適のマッチング、で導き出したたケッカ、ですのデ、間違いはアリません」

「何それ美味しいの? 壊れてるんじゃないの? スクラップになってもう一度人生やり直しなさいよ、ポンコツ!」


 カシアは不思議そうに首を傾げた。

 つがい、この単語は不思議と胸を躍らせる不思議な響きを秘められていた。

 それは今日、ここに連れて来られたことに関係する言葉なのだろうか。

 そうするとマトリカリアは目を白黒させていたカシアを見かねたのか、カシアとブロンドの少女の間に割って入りこう告げる。


《ツがい、とハ、人間が生涯を共ニ過ごす、パートナーを表す言葉デス》

「パートナー……、僕とあの子がそうだって言うの?」

《……ハイ》


 ――なるほど。

 何となく状況が飲み込めてきたので、カシアは改めてブロンドの少女の様子をうかがう。ぽっちゃりとした可愛らしい赤い頬、眉根を寄せたり、口を尖らせたりと感情豊かなタイプのようだ。

 でも、カシアは少し残念に感じた。彼女に対して大変失礼なのだが、決して容姿が気に入らないとか好みではないというわけではない。むしろ胸が高鳴るほどだ。

 残念、その言葉の意とするところはいつも夢に見る紫黒色の少女に出会えるかもしれない、という期待が頭から溢れていたからだ。


「はぁ……」

「ちょっと! 今コイツ、私を見てため息漏らしたわよっ!」

「あ、いや、ごめん。別に他意はないんだよ。もしかしたらって思っただけで、君のことが嫌いとかそういうのじゃないから……」


 自尊心を傷つけてしまったのか? ブロンドの少女がズカズカと詰め寄り、カシアを上目遣いで睨みつけた。怖いというよりもどことなく感じる幼さのが勝ってしまい、逆に愛らしく思ってしまう。


 が、それは見た目だけだった。


「何よ、ハッキリ言いなさいよね!」

「だから、その、これには深くて長い事情が……」


 次第に言い合い、もとい弁解が苦しくなってくると、二人の間で板挟みになっていたマトリカリアのLEDランプが激しく点滅し始めてこう言い放つ。


《二人とモ。痴話喧嘩するホド仲が深マったことハ喜ばしいデスが、そろそろ本題ニ移りマスよ》


「ち、違うよ!」

「ち、違うわよ!」


 思わず顔を赤く染めしまい、二人で声を揃えて反論する。

 けれど、マトリカリアはそれを無視して淡々と説明を進めると、頭上に巨大なスクリーンを展開させた。


《アナタたち二人には、これカら共生施設エデンで過ごしテもらいまス。その間、私たちハ一切の手助けヲ行いマせん。直径200メートルの同施設デ自給自足の生活ヲ送り、お互いノ信頼関係を構築することガ、課題デス》


 さらりと、とんでもないことを言い出したマトリカリア。

 カシアはブロンドの少女と目を合わせたが、プイっとそっぽを向かれてしまう。

 これはかなりの難題だ。腹の下に力を入れて大きく息を吐き出した。


《ココで生キ抜いテいくタめの情報は、従来通リ腕輪から得ルことがデきマス。そレに伴い、食料の調理方法、道具ノ作り方など、二人共同で行う課題モ多く組まれテいるので、お互い協力し合ってクリアして下サイ》


 淡々と語られる説明をカシアがまじめに聞いていると、ブロンドの少女はすでに飽きてしまったようで、身なりに興味が移り、手の爪をかざしたりしていた。


 ああ、何となくこの先の展開が目に浮かんでしまう……。


 カシアはしっかりと耳を立てて、一言一句聞き逃せないよう意識を集中する。

 そして説明を聞き終えると、最後にマトリカリアが後ろにあった立木をアームで指し示した。


 その瞬間、カシアは目を大きく見開く。

 そう、夢の欠片がまた一つピタリと当てはまった瞬間だったからだ。


《コの立木には、赤い実が沢山実りまス。デすが、こノ実には一切、手を触れナいデ下さい。この実を食べテしまうト、大変厳しいペナルティーが待ってイまス。決しテ、手を出さないヨうに》


 この台詞を聞いた途端、背筋に悪寒が走った。

 理由は分からない。が、これだけは守らなければならない絶対の約束だと、カシアの本能が告げていた。震える手を腰の後ろでギュっと握り、頭上に実った《赤い果実》を仰いだ。


《……では頑張っテね、カシア》


 マトリカリアと同型のマーキナーはくっついた磁石みたいに並ぶと、ゆっくりと丘を下っていった。


 相変わらず、あののんびりとした感じは愛嬌があって好きなのだけれど、別れ際に言ったマトリカリアの一言が少し心に引っかかる。

 なぜそう感じたかというと、これまでずっとマトリカリアに感情は無いと思っていたからだ。なのに別れ際、声のトーンが少し重く別れを惜しんでいるかのようにカシアには感じられのだった。


 もしかしたら、本当はマトリカリアにも感情があって、これまで温かく見守ってくれていたのかもしれない。それとも自分自身の寂しさがそうであってほしいと錯覚させたのか……今となってはそれを知る術はない。


「さぁて、どうしようか?」


 本当に二人きりになってしまい、カシアはブロンドの少女にチラリと視線を送ると、

「どうするって、どうするのよ?」


 鋭い口調で問いを問いで返されてしまい、カシアはボリボリと頭を掻いた。


 すると、ふと初めに済ませておかねばならないとても大事なことが頭を過ぎる。

 それは名前だ。

 このままだと一生、アンタと呼ばれかねない。

 それだけはゴメンだ。

 決して自分はアンタなどではない、カシアなのだと伝える必要があるのだ。


 そして、カシアは精一杯の笑顔を作って尋ねる。


「えーっと、その……まずは名前、教えてもらえるかな? これからしばらく一緒に暮らすんだし、そうすれば何事も円滑に進められると思うんだ……」

「嫌よ」


 ――即答だった。


 今すぐ懐かしの我が家へ戻りたい、あの白く狭苦しい小部屋へ。

 そう願うカシアではあったが、マトリカリアに助けを求めることはもうできない。

 ここで頼れるのは自分だけ。そう腹をくくり勇気を振り絞って彼女にもう一度名前を尋ねようとした、その時だった。


《ピピッ》


 二人の黒い腕輪がメッセージを受信した。


《昼食の時間です。対象のアイテム――仕掛けに入った魚、バジルの葉、岩塩……ほか、入手場所は手元のマップを参照して下さい》


 今日のクエスト。


 そうタイトルに書かれていたメッセージは、設定された時間に送られてくるモノのようだった。

 ここに書かれた食材を入手して手順通りに加工する。

 これを役割分担でやればいいのだと、カシアはすぐに理解した。

 これなら上手くできそうだと。


「ねぇ、キミは何をやりたい? 面倒そうなのは僕が……」

「あんたがやっといて」

「えっ?」


 近くにあった岩に腰掛けたブロンドの少女はアクビをしながらそう答えた。

 やる気ゼロ。そんなオーラが全身から滲み出ていて、退屈そうな視線をこちらに向けられる。


「さっきも言われたけど、これはお互いの信頼を築くための課題であって、その……」

「へぇ、そうなの。じゃあハッキリさせておきましょうよ」

「は、ハッキリ?」


 一体、何のことだ?


 生唾を飲み込んでカシアが身構えると、ブロンドの少女がお尻を叩いて立ち上がり、こちらを指差してこう言い放つ。


「上下関係――」


 カシアの額から大粒の汗が滴り落ちた。震える膝を止めようと必死にズボンを握り締め、声を震わせてもう一度ブロンドの少女に問い返す。


「……えーっと、何だって?」

「使う側の人間と、使われる側の人間。どっちがいいかって話よ。もちろん、私は使う側の人間だけど。そういえばここって、他に誰もいなかったわよねぇ? ねぇ?」


 それはまさに古文書に書かれてあった《格差社会》という旧世界の理不尽さ、そのものだった。

 その記述を読んだ時は……人間ってなんて愚かしい生き物なんだ、ハハハ。

 と、他人事のように嘲笑ったものだ。

 でもまさか、自分がその状況に貶められようなど夢にも思わなかった。

 カシアは己の浅はかさを思い知り、過去の自分を呪った。


 だがしかし、このままでは終われない。


「あの……共同統治っていう、素敵な解決方法も……」

「何モゴモゴ言ってんのよ、どっちにするの!」

「はい! どうぞコキ使ってやって下さい!」


 最後の勇気を振り絞ってどうにか食い下がってみたけど、やはり無理だった。

 こうしてカシアのセカンドコンタクトは《魂を売り渡す》という結末で、幕を閉じることになった。

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