第二十六幕 ―― 末路
――どのくらい眠っていたのだろうか?
俯いたヒマワリが
「そっか……泣き疲れて寝ちゃったのか」
野菜の世話を放り出して何をしてたのだろうと、ヒマワリは軽く頭を振る。
ぼろぼろ涙を流して胸のモヤモヤが少しスッキリしたのはいいが、こんな所で昼寝をしていたのではニゲラを悪く言うこともできない。明日は今日の遅れた分まで頑張ろう。
そう気持ちを切り替えると立ち上がってお尻のホコリを払い、今朝着ていたワンピースと自転車を取りに戻ろうと、その場を立ち去ろうとした――その時だ。
「出た、出たぞ! 本当に掘り当てちまった!」
振り返るとそこには男達の歓喜の声と、掘削した穴から蒸気と温水が吹き上げていた。西日を浴びた無数の雫が虹色に乱反射して、思わず瞳の前に手のひらをかざす。
「ああ、本当にやり遂げちゃったのね……」
不思議と妬みや憎しみは込み上げてこなかった。それより今感じるのは、胸にあった大事な何かがスッポリと抜け落ちてしまった……そんな虚脱感だけだ。壁一枚向こうでは、みんなに囲まれたシキミが満足気に口元を緩めている。ヒマワリはその様子をただ無気力に眺め続けた。
「さっすがシキミさん! よく掘り当てましたねっ」
「《熱》を感知するのは、私の十八番だからな」
「いいな~、わたしもシキミさんや館長みたいな力があったら……って、あれあれ? せっかく勢いよく沸いてたお湯が出なくなっちゃいましたよ?」
「これはどうしたことだ?」
勢いよく虹の傘を吹き出していた穴から空気混じりの泡が出始め、ついにはゴボゴボと音を立て温水は完全に枯れてしまった。眉をハの字にしたヨモギが座り込むと、手にした角材で穴を突く。
「あ~らら……水量が足りなかったんでしょうかねぇ~?」
すると向かいの廃ビルから男が一人、シキミの元まで駆け寄って来ると作業用の帽子を脱いで申し訳なさそうに頭を下げる。
「お嬢、どうやら隣のビルに貫通して浸水したみたいなんです。距離は充分空けていたつもりでしたが……申し訳ないっす」
「むう、やってしまったものは仕方ない。ヨモギ、様子を見に行くぞ。そんな棒切れ捨てて着いてきなさい」
「はぁ~い……」
――何か事故でも起きたのかな?
でもわたしには関係ないことだから……。
そう自分に言い聞かせてこの場を去ろうとした瞬間、ヒマワリの背筋をゾクリとさせる寒気が走った。
とてもとても……嫌な予感――ヒマワリは妙な胸騒ぎに歩みを止めてきびすを返す。シキミ達が向かった廃ビルの裏手に回り、こっそり様子をうかがうことにした。
廃ビルの中。そこは広いホールになっていて、床には巨大な穴が断末魔の声を上げているようにも見てとれる、薄気味悪い場所だった。それに誰かが下に降りたのか? 柱には丈夫なザイルがしっかりと結び付けられてあった。
シキミが険しい表情で尋ねる。
「誰か下に降ろしたのか?」
「いえいえ、そんな危険な真似はしませんよ。この区画は立ち入り禁止なので、もしかしたら……」
「したら?」
「盗掘、していた連中がいたのかもしれませんねぇ」
「盗掘だと? はぁ、まったく不逞な輩が後を絶たなくて困る。だいたい――」
腕を組んだシキミが説教じみたことを言い始めると、急に現場が騒がしくなった。床穴の底から湧き出た湯がどんどんと上昇するにつれ、その中に黒い人影が混じっているのが見て取れたからだ。
重苦しい緊張感。凝視していたら湯気でだんだんとメガネが曇ってしまい、ヒマワリはシャツの裾でレンズを吹いてもう一度、耳にフレームをかける。
「あ、人か浮かんできました! ひい、ふう、みい……。盗掘さんたち、まだ息があるみたいですよ~?」
ヨモギが指折り数えている僅かな間に、湧いた温水が地上に達する。限界を超え穴から1メートルほど隆起すると、あとは床の上を波となって周囲に広がる。その際に数人の盗掘者が床に打ち上げられ、アザラシみたいに床へ転がった。
「ゲボッゲボッ……」
「あっ! コイツらはたしかニゲラの部下ですよ!」
作業員の一人が彼らの正体を言い当てる。
その名を耳にしたシキミは歯ぎしりし、湯で満ちた穴を見下ろした。
そこへさらにもう一つ、人影が必死にもがいて水面に登ってくると、鯨が潮を吹くように湯を吐き出し穴の縁に上半身を乗り出した。その面は忘れもしない、畑仕事を放って雲隠れしていたニゲラだった。
「ぶはっ、死ぬかと思った……これを頼む、何とか一冊だけは死守したぜ。俺達が命を懸けて手に入れた《友情の証し》だからなっ!」
「ほう……仕事をサボり、街の掟まで破ったんだ。よほど価値のある代物なのだろうな」
シキミは差し出された本を受け取ると、
「お、おおおおおおお……お嬢っ!」
彼の満ち足りた笑顔が
シキミは古書を包んであったビニールを破ると、ヨモギと一緒にフヤケたページをめくって本に書かれていた内容に目を通す。
それを見た彼女達の反応は……、
「えっ? ヤダこれ、どうなってるの?」
「ほほう」
と、マジマジとした顔でその古書に見入っていた。
き、気になる……ヒマワリも本の内容が知りたくてソワソワしたが、ここで出て行くのは非常に格好が悪い。後でこっそりヨモギに教えてもらうことにして今は我慢する。
そして、無言でページをめくり続けるシキミ、恥ずかしげに指の隙間から内容を覗き見するヨモギ。
「お、お嬢これはだな……」
狼狽したニゲラは生唾を飲み込みアゴを上げて弁明しようとしたが、それをシキミは手をかざして制止する。
「いや、言いたいことはよく分かった。これがお前の友情というモノなのだな」
生温かく湿った古書が彼の前に突き出されると、ヒマワリにもその中身が丸見えになった。なってしまったのだ。
「えっ……? あ……? ええええええぇっ!」
ニゲラの面がさっきまでとは比較にならないほど歪み、真っ白になった。逆にヒマワリの顔は真っ赤だ。彼が持ち帰ったその本は、咲き乱れた花畑で男達が見つめ合い、裸で抱き合って……するような、如何わしい代物であった。
「せいぜいお友達と、仲良くやってなさい――――気持ち悪い」
「あぁあああああああああああああ――――――………………………………っ!」
シキミは軽蔑した眼差しで絶望するニゲラの面を覗き込むと、右足で彼の頭を踏みつけて再び穴の底へと沈めてしまった。もし自分なら鼻を蹴り折ってから同じことをしただろう。
もう、絶対にカシアには近づけさせない。
だってシキミに気があるフリをして、実は別の方面に興味を持っていたのだから。
いつもカシアに突っかかっていたのも、好きな子に本心を悟られまいとするその裏返しで……うわ、気持ち悪いっ! この場にカシアがいなくて本当に良かった。
と、ヒマワリは本心からそう思い、ホッと胸を撫で下ろした。
これでカシアにまとわりつく毒虫が一匹退治されたのだから。
「こんな感じでよかったか?」
「はい、これで兄も少しは性根が直るでしょう」
ヨモギが屈託のない笑顔で答えると周囲にいた男達は皆、ニゲラに手を合わせて黙祷を捧げていた。これでようやく事態は収拾に向かうかに思われた矢先、またもや声がざわつく。まだ終わってはいなかったのだ。
「おーい、また二人浮かんできたぞ!」
「……まったく。あと何人、不埒者がいるのだ」
「あっ。あれってカシアさんと、セージさんじゃないですかっ!」
「何だと!」
途端、シキミが血相を変えて叫ぶ!
思わず飛び出しそうになったが、先にシキミが床穴に飛び込みカシアを湯から抱え出したので、ヒマワリは出て行くチャンスを失ってしまった。本当なら自分があの場にいて彼を介抱してあげたかった。
でもそれは叶わない、こんなにもすぐ近くにいるはずなのに……。
「ゲホゲッホゲホ……」
セージは他の男達に引き上げられてどうにか意識が戻ったが、カシアはまだ息をしていない。シキミが濡れた髪を掻き上げると、彼の心臓に両手を何度も押し込む。
どうしよう、このままだと本当に一人になっちゃう……。
カシアを失う恐怖にかられてヒマワリは呼吸を乱し視界が真っ暗になって、思わずその場に倒れそうになった。
「カシア……しっかりして、カシアっ!」
カシアの身を案じているのはヒマワリだけではない。シキミはカシアのシャツを破り、胸に耳を当てて心音を確かめる。気道を確保して何度胸を押してもカシアの呼吸は戻らなかった。
「……お願い、息をして!」
ヒマワリが祈りを込めて小声で呟いた――その時だった。
「戻ってきなさい、カシア!」
横たわったカシアにシキミが意を決して彼と唇を重ね、ありったけの息を吹き込んだ。
「ガハッ……ゲホゲホゲホ……」
するとカシアは肺に溜まっていた水を吐き出し、彼女の胸に頭をうずめて抱きついた。シキミが濡れた黒髪に手を乗せ優しく撫でてやると、彼は安堵した表情を浮かべてそのまま深い眠りについた。シキミがほんのりと目尻に涙を浮かべる。
「良かった、本当に良かった……」
そして、もうそこにヒマワリの居場所はなくなっていた。
心が砕ける音、色褪せていく思い出……それは白砂と化して砂時計のように上から下へと流れ落ちる。もう何も無くなってしまった。
ただそれだけのことだ、ここを出よう――。
ヒマワリは壁に手をついて後ろを振り返った。
すると手からガクリと支えがなくなり、崩れた壁の一部が音を立てて床を転がり落ちる。一斉に向けられる周囲の視線。これはもう苦笑いするしかなかった。
「ヒマワリ? いつからそこに……」
シキミと目が合ってしまう。
「あ、その、分かってたんだ……こうなること。しょうがないよね、だってカシアはずっとアナタのことを……ごめんなさい!」
「待って! 誤解よ、待ちなさい!」
たくさん泣いたはずなのにまだ涙が溢れてくる。
そんな目で見ないで……シキミの憐れんだ視線にヒマワリは耐えられなかった。
これ以上この場にいられない、いられるはずもない。
ヒマワリは腕で顔を隠し、二人の前から逃げるように夕闇の中へ走り去った。
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