第三幕 ―― 籠の鳥
さらに、あれから数ヶ月が過ぎ去った――。
今日も大きな入道雲が小さな楽園に影を作り、蒼天の大海原を風まかせに漂い続ける。河原で刻んでいた日課の印は97個で止まっていた。
もう数える必要などないと気付いたからだ。
以前、芋を掘った場所には程良い大きさの畑が広がり、キャミソール姿のヒマワリがクエストで獲得した野菜の苗を黙々と植え付けている。立木から《赤い果実》をもぎ取ってしまったあの日から、彼女は随分と様変わりした。
いや、他人を受け入れたことで虚勢という仮面を脱ぎ捨てたと言うべきだろうか。
カシアと打ち解けたあの日から、ヒマワリは率先してクエストをこなしてくれている。今では嬉しかったこと、腹が立ったこと、全て包み隠さず話してくれるので喧嘩をしてもすぐに仲直りできる間柄だ。
カシアは読み終わったの本を閉じ、乗っていたハンモックに寝そべり青黒い空を仰ぐと、すっかり伸びた前髪はらりと視界を遮った。昔はマトリカリアがアームを器用に動かし、髪を切り整えてくれていたものだがここではそう簡単にできない。
「ヒマワリに頼むか……いや、やっぱり一人で上手くやれる方法を思いつくまで、このままでいよう……」
彼女は以前よりやる気になってくれはしたが、何かと不器用なので耳を切り落とされたくはない。
カシアが諦め顔をして前髪に息を吹きかけると、丁度そこへ畑仕事を終えたヒマワリが顔を泥まみれにして戻ってきた。
「ふぅ、今日もすごく捗って手持ちの苗、全部使い切っちゃった」
「おつかれさん、あそこはもうすっかりヒマワリの王国になっちゃったね」
「ふふ~ん、そうでしょう? もう少ししたら美味しいお野菜たんまりとご馳走してあげるわよ」
「楽しみにしてるよ」
料理するのは自分だと声にしそうになったカシアだが、その言葉をゴクリと飲み込んだ。どういう状況でも何かしら打ち込めることは大事だ。ヒマワリはようやく生きがいを見つけて自分を表現する術を見つけたのだから。
カシアはそう思いつつ、自分のことのように喜んだ。
すると、ヒマワリが急に顔を覗き込んできてカシアの顔に鼻息がかかり、彼女の色艶ある黄金色の髪がそっと頬を撫でる。
「ど、ど、ど、どうしたんだい?」
「ふーん」
そして、次第に近づいく彼女の口元が大きく吊り上がると、
「切ってあげよっか!」
「き、切る? 僕は何を切られちゃうの……?」
「決まってるじゃない、髪よ、髪。カシアいつも本ばっかり読んでるし、いつも邪魔そうにしてるじゃないの」
「そ、そりゃたしかにそうだけども……」
あまり良い予感がしなかったカシアがそっと顔を逸らすと、泥まみれの手に両頬を挟まれてグイッと元の位置に戻される。爛々と輝く大きな瞳に抵抗する術をカシアは持ち合わせてはいなかった。
《赤い果実》がなる大樹の元に用意された処刑台、もとい椅子が一つ。
そこに座らせられたカシアの首に、使い古した白いテーブルグロスが死に衣装の様に結ばれると、
「大丈夫? キツくない?」
「うん、だいじょう……ぶひぃ~っ!」
突然、カシアは思わず豚のような悲鳴を上げた。
それは泥の付いた鎌が頬をかすめていったからだ。
「あのヒマワリさん、お手に握られた物騒な刃物は……散髪ってたしかハサミを使うものだよね?」
「な~に言ってんの、いつそんなものが支給されたのよ。ある物で代用するしかないじゃない。ささ、まっすぐ向いて顔動かさないでね、鼻が削いちゃうかも……くふふっ」
グイっと後ろ髪が引っ張られて顎が反り上がる。脂汗が鼻筋に沿って垂れ落ちると、切れ味が悪くなった刃が嫌な音を立てて身を削る音を耳にし、カシアの背筋に悪寒が抱きつくのを感じた。
「ひぇぇ~っ!」
「もう、切りにくいわねぇ。こうバッサリいきたいのよ、わたしは!」
《ピピッ》
その時だ、救いの鐘が鳴った。
この日、最初のクエストを黒い腕輪が受信したのだ。
カシアは慌てて腕輪をタップしてスクリーンを開いてクエスト内容を表示させる。
内容はこうだ。
《南西約150メートルの地点に、ミツバチが巣を作りました。巣を持ち帰ってハチミツを作りましょう。必要なアイテム――》
「外壁の近くか。すぐ出れば昼飯までには戻れるかな!」
「え~っ、今からわたしの腕前を披露するところだったのにぃ~……」
ヒマワリはしょぼくれた顔で引っ張った後ろ髪を手放す。命拾いしたカシアは跳ねるように椅子から立ち上がって、首に巻かれたテーブルクロスを投げ捨てた。
そして、満面の笑みを浮かべてヒマワリから優しく鎌を取り上げて語りかける。
「これまで皆勤賞でやってきたじゃないかい。髪なんていつでも切れるし、こんなボロボロの鎌よりハサミが手に入ってからの方がヒマワリさんの腕前を拝見できるしね、ね?」
「ん~、それもそうね。次回は男前に仕上げてあげるから楽しみにしてなさいねっ」
「うんうん、そうだよ! さて、クエスト、クエスト。お昼までに戻ってこなきゃ!」
話半分にカシアはせかせかとハチミツ採取に必要な道具を古びた布に包んで、それを肩に斜め掛けする。
そのやる気に感化されたのか、ヒマワリも鼻唄を唄いながら手製のバスケットに昼食を詰めると上にハンカチを被せ、それを右腕にぶら下げた。
「これでよしと、さぁ行きましょ!」
小川を渡って森や茂みを通り抜け、ドームの外壁が手に届く辺りまでやってくる。
ここ最近は作業を分担することが多かったので、二人一緒に出かけるのは久々だった。
巨大なコンクリートの建造物。普段はさほど気にならない壁も間近で目にすると、ここが箱庭の中であることを思い出させる。カシアが仰け反るように壁を仰望すると、右手を握っていたヒマワリも同じように首を持ち上げた。
恐らく、ヒマワリも同じことを思い浮かべているのだろう。そう思案する裏でカシアはこうも考える。
一体、いつまでこんな生活が続けられるのだろうか――と。
ここを去る日が訪れたとき、ヒマワリと離ればなれになるかもしれない。
いつか必ずその日はやってくる。その時、彼女はどんな顔をするのだろう?
先の見えない不安をかき消すように、カシアは彼女の手を強く握りしめた。
気を取り直してエデンの外縁をゆっくりと散策していると、ヒマワリが一匹の働きバチを見つける。
「みてみて、カシア。あの虫がそうじゃない?」
「ようし、確認してみようか」
カシアが腕を伸ばして、腕輪の側面にある極小カメラを働きバチに向ける。
《撮影》
発した言葉に呼応してシャッター音が周囲に響き、撮影した画像を元に腕輪が類似する昆虫のデータを導き出す。
そして、二人の眼前に小さなスクリーンが浮かび上がった。
《ミツバチ科、セイヨウミツバチ。旧世界では、養蜂という産業で最も使用されていた種である。人間との関係は古く、推定一万年以上前から採蜜に利用されてきた。エデン区画に生存するセイヨウミツバチは、遺伝子操作により毒性が排除されているので、人に害を及ぼす可能性は低い》
静かに説明を聞き終えると、ヒマワリの瞳が細く弛んで口元が大きく吊り上がる。
「どうよ?」
「そ、そうだね。よく見つけたよ。さすがヒマワリさん!」
「むふふっ」
ご満悦なニヤけ顔を向けられ、カシアは苦笑い気味にヒマワリの頭を軽く撫でておく。こういう場面でご機嫌をとっておかないと、口論になった時の攻撃材料にされかねないからだ。
どうしてあの時~とか、アンタがハッキリ言わないから~とか、
理不尽な追求をされてはたまらない。
なので、彼女には最善の注意を払わねばならない。
世の女性が全てそうであるは判らないが、他に人間を知らないカシアにとって死ぬまでに解き明かしたい謎の一つであり、生き抜くために身に着けた処世術だった。
「あっちへ飛んでいくわ。さぁ着いてらっしゃい、カシア!」
「は~い!」
とは言いつつもすっかり主導権を握られているカシアは、風でなびくブロンドの後をおっかなびっくり追いかける。ミツバチが壁にへばりつくようにそびえる大きな岩場に飛んでいくと、地表から五メートルほどの場所にあった岩場の巣へと入った。
「あれがそうね」
「うん、でも……」
カシアは口籠もる。
ゴツゴツとした岩肌、どう見てもこの崖を登らない限り手が出せない危険な場所に蜂の巣はあったからだ。
見上げているだけでもクラクラするくらいし、怪我をしたら元も子もない。
危険を冒してまでやるものではないと思い、ヒマワリにそれを告げようとした。
「さすがにこれは危ないなぁ、ヒマワリに怪我させるわけにはいかないから今回は残念だけども……って、ヒマワリさん??」
「これっくらいの棒で、ぶん殴ればいいんじゃないの? ふんっふんっ」
カシアの言葉と気遣いはヒマワリにまったく届いてはいなかった。
いつの間にかバスケットを投げ出したヒマワリは、どこかで拾ってきた一メートルほど木の棒で素振りを始める。
俄然、やる気だった。
あの眼差しから彼女の本気度が伺えるのだけれど、か弱い少女をあんな危険な所に登らせるわけにはいかない。普段、押しの弱いカシアだったが俯いた顔を上げ、男らしく、主導権を取り戻すべくこちらに近づいてくるヒマワリに声を上げた。
「ここは僕の意見に従って……!」
「はい、コレどうぞ」
「はい?」
しかし、愛らしい笑みで手渡されたのはさっきまで風切り音を立てていた木の棒だった。ヒマワリの手汗が染みた、ザラザラとした質感のか細い棒きれだ。
「はい? じゃないでしょ。さっさと行って来なさいよ」
「……ええっ! 僕が登るの?」
「他に誰が登るのよ?」
まさかの急展開――。
背中をグイグイと押されたカシアは切り立った岩場の前に立ち尽くす。
「さぁ、たまには男らしいところ見せなさいよねっ!」
「ちょ、ちょっと待った。ここでの生活に慣れはしたけど僕が運動苦手なの知ってるでしょ、頭脳派なんだよ……」
「まったく男のくせに意気地がないのねぇ。なら、わたしが登るわ」
コレ以上にないガッカリとした表情を浮かべたヒマワリ。ブロンドのおさげがふわりと鼻元を掠めた一瞬、手渡された棒が奪い返された。
薄鈍色(うすにびいろ)の岩肌に手を掛けたヒマワリはあれよあれよと言う間に急な斜面をよじ登っていく。
小柄な体のどこにあの無鉄砲な行動力が詰まっているのか不思議でならない。
だが、カシアは心配そうに彼女を見上げてハラハラしながらも、チラつくスカートの中身にドキドキして心中で複雑な感情がせめぎ合っていたのだった。
一方、そんなことは知りもせず、ヒマワリは一人黙々と登り続けていた。が、そんな彼女の快進撃を阻む者が現れる。
「うわ、ちょっと来ないでよ!」
働き蜂が彼女の回りを飛び交い、巣を守ろうと乱舞していたからだ。
不安定な足場でヒマワリは、いつ転落する分からない危険な状況に陥ってしまう。
カシアはふと真顔に戻り、流し見したクエストの注意事項を思い出した。
「あっ、ごめん忘れてた。マニュアルには煙で追っ払えって書いてあったんだ」
「それを先に言いなさいよ! きゃ、早くしてぇ~っ!」
すると、数匹の働き蜂がヒマワリのキャミソールに入り込んで白い柔肌の上を這いまわると、彼女は苦悶の表情を浮かべて声の限り叫び続けた。
急ぎカシアは肩に掛けていた布を解き、素早く乾燥した藁や木の枝を地面に並べると、粘土の器に入れてきた種火をその中に放り込んだ。
パチパチと音を立てて灰色の煙が勢いよく立ち昇り出す。
煙に晒された働き蜂が巣から次々と離散していく。そして必然的に、そのとばっちりを受ける者もいた。
「ゲホゲホッ。目が痛い、鼻水が出るう……。どうして、か弱い私がこんな目に合わなきゃいけないのよぉ……」
それは日頃の行いですよ。
などと口が裂けても言えないカシアは、このあと来るであろう報復を恐れつつ、せめてものエールを送る。
「もう少し頑張って、今のうちに棒で巣を叩き落とすんだ!」
「こ、ここぉ? もうドコなのよ~っ」
煙で状況が分からないカシアは額に手を当てて、薄すらと見えるヒマワリの姿を目で追っていると……。
ヌチャっと頭ほどの大きさがある蜂の巣がカシアの顔面にめり込み、濃厚な甘みが頬から首を伝って滴り落ちた。
「当たったー!」
その言葉はいろんな意味で当たっていた。
次にヒマワリが棒を投げ捨てた棒が頭に当たり、カシアは眉をハの字にして顔から蜂の巣を退けると、今度はさらに大きな影がこちらに飛び込んできた。
「おわぁっ」
「あはははっ、あ~楽しかった!」
煤(すす)まみれのヒマワリがカシアの上に覆いかぶさって二人は草の上に倒れ込む。結局、登ろうが登るまいがこういう結末になっていたことを、カシアはヒマワリの尻の重みを感じながら悟った。
その彼女は無邪気に微笑み、鼻をヒクヒク動かしてカシアの顔を覗き込んだ、その時だ。
「……甘い香り」
カシアの頬に垂れたハチミツをヒマワリがペロリと舌で掬い取った。
次の瞬間、体中に電撃のようなものが走る。
「どうしたの、耳まで真っ赤よ?」
カシアは慌てて目を逸らす、逸らすことしか出来なかった。これまで感じたことのない、強烈な感情を表現する術を持ち合わせていなかったからだ。
何も言わなくなったカシアに彼女は不満そうに唇を立てる。
「ちぇ、せっかく上手くやれたのに。もっと褒めてくれたっていいじゃない……」
「ご、ごめん……そこを退いてくれると嬉しいな」
ヒマワリはすねた子供のように膨らませて隣に転がると、カシアはやっとの思いで気持ちを沈めて再び思考を巡らし始める――さっき感覚は何だったのか。
これが古代文学で何度も出てきた《愛》とか《恋》というモノなのだろうか?
モヤモヤした感情を持て余していると、ヒマワリが隣に転がったバスケットに手を伸ばしグイッと胸元まで引き寄せた。
「いっぱい叫んだからお腹空いちゃったわ。ここでお昼にしちゃいましょう」
淡い若草色の瞳がカシアの姿を映し出す。寝そべったままお互い顔を合わせると、カシアはもう一度耳を赤くして軽く頷いた。
役目を終えた焚き火に土をかけて、二人は適当な場所に腰を下ろす。
バスケットの中身を広げると、ヒマワリが不恰好なパンを手に取った。
パンといっても一般的なモノではなく雑穀を粉末にして水で練り合わせて、耳たぶの硬さにした生地を石窯で焼いただけの代物だ。
そういう意味では、パンよりも《ナン》と呼んだほうが近いのかもしれない。
「いくわよ~?」
「望むところだ!」
レタスと木苺のジャム、それと燻製にした野うさぎの肉を生地に挟むと、二人は両端に齧り付く。ヒマワリが噛み付いたままグイッと引っ張ったので、カシアも負けじとパンをもうひと齧りする。
とはいえ、近づいてくる彼女の顔をどうしても直視できず、いつもカシアが先にパンを噛み切ってしまった。
「ふぇふぇ~ん、わだぢのがじ!」
この勝負でカシアは一度も勝利したことがない。
それはヒマワリが最後まで引かないと分かっているからだ。
旧世界では《レディーファースト》という言葉がある。
意味は《女性優先》ではあったが、カシアには《女性優位》の方がしっくりくる。
だから、決して意気地がないわけではない。
「さぁ、今度は手に入れたばかりのハチミツ入りよ~!」
「はいはい……」
そして、そんな昼下がりはあっという間に過ぎ去る。
心地良い風、再び草のベッドの上に寝転がると二人で空を仰ぐ。暖かい陽気と鳥が揺らす木々の葉音。楽園(エデン)と呼ぶに相応しい場所だとカシアは改めて想いふける。
この瞬間が永遠に続いてくれればとカシアはわりと本気で願った。
そして、隣に寝そべるヒマワリがこんな話を切り出す。
「私たちって色々なものに生かされてるのね。いつもお腹を満たしてくれる自然の恵み、それを育てる太陽の暖かさ、あとは――」
「あとは?」
一度、言葉を切るとヒマワリは少し戸惑い、頬を赤らめてそっぽを向いた。
「アンタよ。カシアがいたから……これで生きてこれたんだと、思う」
「うん……僕だってそうさ」
それはカシアの本心だった。
「でも、エデンって何なんだろうね? 私たち、いつまで一緒にいられるのかな……」
ヒマワリの問いにカシアは答えられない。
それを言葉にしてしまうと、全てが終わってしまうような気がしたからだ。
でも、ヒマワリが同じことを考えていてくれたと知ってカシアは少し嬉しかった。
「なるようになるさ」
カシアは曖昧な言葉を返して施設を支えている大きな梁を仰ぐ。
と、何か小さなモノが光を放った。
目を凝らしてみると柱の中心に小さな溝があり、その間を動いていた黒い物体に目が留まる。
それは近くを流れる小川を反射して、こちらをジッと見下ろしていたのだ。
『あれってまさか隠しカメラ? ってことは僕たち今までずっと監視されてたんじゃ……』
そう心の中で呟くと、感づかれたのかこちらを映し続けていたカメラが凄まじい勢いで移動し、姿を消した。
次の瞬間、ここへ来てからの出来事が走馬灯の如く脳裏を巡る。
そして《赤い果実》を食べようとしていたあの日のことを思い出し、カシアは青ざめ、慌てて口を押さえた。
「カシア、顔色悪いわよ? 大丈夫……?」
「いや……何でもない、何でもないよ。少し疲れただけさ、少しね」
これは単に思い過ごしかもしれないし、確証もない。
こんな話をしてもきっとヒマワリを不安がらせるだけだ。
心配そうにこちらを見つめるヒマワリを流し見すると、カシアは何事もなかったように、引きつった笑顔で取り繕った――。
けれど、考えずにはいられない。
知らない、知らないということが、こんなに恐ろしいとは思わなかった。
自分たちは、どうしてこんな施設に入れられているか?
エデンとはどんな目的で作られた場所のか?
めぐる思考、あやふやな解。カシアはこれまでのことも、これから先の未来さえも、予め用意されたシナリオを演じさせられているのではと怖じけづいた。
「本当に大丈夫なの?」
「ああ、平気だよ……。丘へ、丘へ帰ろうか」
「うん……」
けれど、ヒマワリにも不安を伝わってしまったとカシアは感じ取る。
彼女が俯いてカシアの手を強く握ってきたからだ。
大丈夫、彼女は自分が守ると心に念じ少しでも彼女を安心させようと、カシアはその手を包み込むようにして握り返す。小さな手から伝わってくるこの温かみだけが、今のカシアにとって全てだった。
色あせて見える帰り道。
とぼとぼと二人で道なりに歩いていると、次第にいつもの丘が見えてくる。
しかし、さっきまでと少し様子が違っていた。
それは大きな立木の下で小さな物体が陽光を強く反射していたからだ。
何かいる――二人は緊張した足取りで、一歩、また一歩と、丘を踏みしめて頂上まで登り切った。
《お久シぶりデス》
そこで待っていたのはマトリカリアだった。
「はぁ、キミだったのか……」
《ハイ……。お伝えスることがアリ、こうシテお伺い致しマしタ》
カシアは大きく息を吐いて久々の再会に安堵する。
だが、さきほどの疑念が頭に色濃く残っていて手放しで喜べる気分ではない。
《赤い果実》をもぎ取ったことがバレたのか?
その懸念が拭いきれないからだ。
隣にいたヒマワリが手を小さく震わせていたので、カシアは大丈夫と無理に笑顔を作って見せる。それが今、彼女にしてあげられる最大限のことだった。
そして、しばしの無言が続く。
この間は余計にマズイ。
カシアは大きく息を飲むと素知らぬ顔を決め込み、マトリカリアに問いかけた。
「で、今日はどんな用事で会いに来てくれたんだい?」
《ハイ。本日をモって、アなたたち二人は十五歳とナリ、ご成人なさいマしタ》
「十五歳……成人? 僕が?」
《おめでトウございまス》
「いえ、こりゃどうも……」
意外な内容に肩透かしを食らい、張り詰めていた空気が一気に緩む。
二人は顔を見合わせて喜び、ヒマワリが握った手を小さくブンブンと振るう。
が、話はそこで終わりではなかった。
《――よってエデンでの育成期間ヲ満了とし、こレからシーヴァへご案内しまス》
「……シーヴァ?」
それは今までどの本でも目にしたことがない、耳にしたことのない、初めての名だった。再び二人で顔を見合わせるとヒマワリは怯えた瞳でこちらを見澄まし、マトリカリアに詰め寄ろうとする。
カシアは慌てて握っていたヒマワリの手を引き戻して落ち着かせると、それに答えるようにマトリカリアのランプが小刻みに点滅した。
「マトリカリア……説明してくれるかな?」
《ご安心下サい、アナタ方ハつがいデス。つがいは生涯ヲ共にするパートナーなので、シーヴァへ移った後も、その関係は継続されマス》
「よ、良かった……これからもずっと一緒だって!」
「そうだね!」
離れ離れにならずに済むと知たヒマワリはホッと胸を撫でおろす。
彼女の無邪気な笑顔に釣られてカシアも強張っていた頬を緩めた。
お互い視線が重なる。
が、その途端――彼女の態度が急変して調子に乗るなと言わんばかりに、なぜか左足を踏んづけられた。
「アイタッ!」
「いい? 別にアンタじゃなくったっていいんだからね。私はただ、コロコロ人が入れ替わるのが面倒臭いだけなの。その辺り、勘違いしないよーにっ!」
「こ、心得ました……」
カシアはころりと出会う前に戻ったヒマワリに苦笑いする。今まで二人きりだったからこそ見せてくれたあの表情も、まだ他人の前では恥ずかしいのだろう。
そう察したカシアは少し和む。
だが、それ以上に《あの件》を追及されないと知って安堵していた。
けれど、疑念は色濃く、さらに大きく、カシアの心中を巣くったままだ。手放しで喜ぶことはできなかったが、今はこの小さな手の持ち主と一緒にいられることをマトリカリアに感謝しよう。
そう自分を納得させたのだった。
《それデはご案内しマス――》
この先、どんな世界が二人を待っているのか?
エデンを立つ直前、カシアは振り返って立木を仰ぐ。
「行こうか……これからも一緒だよ」
「……うん」
夢と現実を繋ぐ、唯一の場所。
カシアは最後に燃えるように色を放つ《赤い果実》を、二つの眼にしっかりと焼き付ける。ヒマワリの手を引くと二度と訪れないであろう二人だけの
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