第三十八幕 ―― ヤマテノオロチ

 ――少し時間をさかのぼる。

 その頃セージは真っ暗闇の中で、ヘッドライト一つを頼りに正面の壁を照らし出していた。ひび割れたコンクリートの隙間に生える苔を目掛けて、ズボンのファスナーを下ろす。いつになく真剣な眼差しで狙いを定めた。


 方位よし、仰角よし、チャージ完了……発射!


「ふぃ~っ、間に合ったぜぇ。まったく小便くらい、ゆっくりさせろってんだ」


 次第にセージの表情は苦悶から悦に入った至福の顔へと移り変わる。

 しかしそこで、跡をつけてきたヨモギがいきなり背中に飛び乗った。


「セージ、さんっ!」

「おわっ! まだ出してんのに抱きつくな!」


 何てことしやがる。虚を突かれて出るものが出なくなると、慌てて握っていたモノをズボンにしまおうとした。だが、不幸にもそれは起きた。ファスナーがとてもとても大切なオンリーワンを、ガッチリと挟み込んでしまったのだ。


「ギャッ……!」


 息ができないほどの、激痛――。

 セージは股間を押さえ、前のめりになって膝を突いた。

 男にしか分からないこの辛さ。

 この卑劣な所業を無自覚でやってのける小娘に思い知らしめねばと、眉を歪めて後ろを振り向いたが、そこで待っていたのはさらなる厄災だった。


「セージさん、どうしたんですか! どこか、おケガでもされたんですか? 見せて下さい、私が手当しますからっ!」


 ズボンを左右に引っ張られて、食い込んだファスナーが激しく揺さぶられる。


「ヒーフー、ヒーフー……だ、大丈夫、大丈夫だから、その手を放しておくれ。どうかお願いします。慈悲を、お慈悲を……」

「そうなんですかぁ……?」


 残念そうにズボンを手放して、ヨモギが一歩後へ下がる。

 本当に迷惑極まりない娘だ。

 ようやく生き地獄から脱すると、セージは軽く股間を握りスクワットを始める。

 理由――それは動いている方が気が紛れるからだ。


 ようやく平静を取り戻したセージは息を長い吐くと、ヨモギの肩を掴んで言い聞かせる。


「男にはな、そっとして置いてほしい時があるのだよ。それは神聖不可侵な時間で、とても無防備なんだ。だから、次は絶対に踏み入るんじゃないぞ!」

「はぁ~、意味は分からないですけど、その迫真の表情、凛々しくてとっても素敵です。言われた通り、次回は後ろで温かく見守ってますねっ!」

「やめんか~っ!」


 セージは拳を大きく振り上げて見せる。

 これまでヒマワリ以上に面倒な娘がいるとは思いもしなかった。アキヴァルハラでも何かと理由をつけては追い回され、深夜にこっそり禁書を嗜んでいる時も、換気ダクトからいきなり部屋に飛び込んできた。旧世界ではこれを《スカートー》と呼ぶらしい。


 せめて、胸があと7センチ大きければ。

 セージは悔やんでも悔やみきれなかった。


 それにここ最近、生きがいだった胸に対する情熱も薄らいでいる。

 マツリカに告げられた真実、記憶の上書き、スパイとして利用されたこと。

 自分の存在意義が大きく揺らぎ、今もまだ、その喪失感に喘いでいた。


 そして、セージは考えていた。

 この作戦に参加すれば、もう一度マツリカと話せるかもしれない。

 しかし、会ってどうする?

 納得できる言葉は思い浮かばないが、胸に秘めた想いを伝えられず、このまま終わるわけにはいかなかった。


「さぁ、あいつらと合流しようぜ」

「はいっ」


 屈託のないリーフグリーンの瞳に見入られてセージは少し照れ臭くなったが、ふと、背後に近づいてくる危険を男の第六感が察知した。次第に振れが大きくなって、舞い落ちた土埃がペンライトの光をチラチラと遮る。


「セージさん……すごく、怖いです」

「慌てるな、こんな時こそ冷静にだな――」

「冷静に?」


 閉め忘れていたズボンのファスナーに手をかけ、ゆっくりと上げようとした。

 だが、今度は社会の窓から飛び出した白いシャツを噛んでしまい、ファスナーは完全にイカれてしまった。


「……こいつはもうダメだ、逃げるぞ!」


 途端、二人は強烈な光に照らされる。セージはヨモギを右肩で持ち上げると、さっきのホームまで全力で駆け出した。腕を振り、砂利を蹴っ飛ばし、担いだ尻が何度も横顔をバウンドする。


 ――いいケツをしているな、安産型か?


 それに加えて妙に体の調子がいい。それは壊れたファスナーから心地いい風が吹き込み、まるで体が風と一体になったような爽快感に包まれたからだ。こいつは癖になりそう、とセージに何かのスイッチが入った。


「ふぉぉおおおおおおおお~、テンション上がってきたぜぇ~!」

「はぁ~、まるで白馬の王子様みたい……わたし感激です。でも、このままだと間に合いそうにないですよ? もうじきに追いつかれちゃいそうです……」


 ヨモギがおでこに手を当てて状況を知らせるが、人一人担いでいてはこれ以上スピードが出る筈もない。ジワジワと伝わってくる半端ないプレッシャー。


 ――考えるんだ、いや、俺のオツムで二つのことを同時にできるわけがない。

 ――今、俺は全力で走ってるのだ。

 ――よし、一か八かこいつに任せてみよう。


 セージはそう結論し、ヨモギの尻に向かって話しかける。


「ヨモギ、何か知恵を出せ」

「は~い、セージさん提案です。あんな所に横穴がっ!」

「よっしゃ~、それだ。あそこに飛び込むぜ!」


 足を踏ん張って砂利の上を横滑りすると、指差された方向へダイブする。


「ちょ……ここって」

「キャ~~~~ッ!」


 成り行きで飛び込んだ穴は崩れた斜面になっていて、それを予期していないセージは豪快に足を滑らせてしまった。体を丸め下まで一気に転げ落ちると、何かに頭にぶつかりようやく勢いを止める。さらに運悪くヘッドライトがさっきの衝撃で壊れてしまい、二人は完全なる闇に呑まれた。


「イテェ~テテ……おい、大丈夫か?」

「大丈夫です、それにしても、さっきの光って何だったんでしょうね?」

「さぁな、あれが噂のヤマテノオロチって奴かもしれねぇな」

「私、怖いです……」


 小さな震えが足に伝わってきて、セージは自分がヨモギの上に四つん這いになっているのだと知った。お互い逸れなかったことには安心したが、こう暗くては埒があかない。


「ヨモギ、予備のライトって持ってるか? 落ちた時に壊れしまってよう」

「胸ポケットにペンライトが入ってます。動けないので取ってもらってもいいですか?」

「おう、まかせとけ」


 真っ暗闇の中、ヨモギの体にタッチして手探りでペンライトの在り処を探る。

 だが胸と言っていたが、胸がないのでどこだか分からない。


「もう少し上です、その辺り」

「これか?」


 ふと、何かが指に当たって軽く押すと、至極、柔らかい感触がした。


「アン、それは押してはいけない……ボタンです」

「す、すまねぇ……どれだ?」


 ようやくペンライトを取り出してスイッチを入れると、ヨモギは顔を真っ赤にして蕩けた瞳を逸らされる。その表情に『あっ』となり、セージは何のボタンを押してしまったのかをようやく理解した。


 二人の間に気まずい空気が流れる――。


「二人きりに……なっちゃいましたねぇ」

「そ、そうだな」


 その言葉にセージは凄まじい重さを感じた。いつもならバスト85センチ以下の胸には見向きもしないが、マツリカの一件以来、その信念に微かなヒビが入っていることを自覚した。


 ちくしょう、らしくない……。


 すると、ヨモギが言いづらそうにして先に言葉を切り出した。


「セージさん、まだあの女の人が忘れられないんですよね。だから、こんな危険な作戦に無理をして参加を……」


 魂胆はバレバレだった。

 捨てきれないのだ、未練が。


 どんなに格好悪くてもいい。フラれるにしても、殺されるにしても、中途半端で終わることだけは許せなかった。前へ進むため、男のケジメをつけるため、今はまだヨモギの気持ちに答えてやることはできない。


「そうだな、カッコ悪いよな。あれだけ惨めなフラれ方したってのに、まだあいつの尻を追っかけてるなんてな」


 己自身を鼻で笑い、ヨモギに手を差し伸べてゆっくりと引き起こす。

 笑顔でその手を握ったヨモギは、


「わたしはいいと思いますよ、カッコ悪いの。むしろ男らしいって思っちゃいます。兄のように相手の周りを月みたいにグルグル廻ってるより、よっぽど男前です。わたしはただ、そんな風に想われているあの人が、ちょっぴり羨ましいだけなんです。あれ……おかしいな、涙が止まんないや」


 ……そういうことだったのか。


 選んでもらえないことが分かっていて、それでも後を追いかけてしまう。

 今の自分は彼女と同じなのだと気付いてしまった。

 セージは急に笑いが込み上げてきた。


「ははは……そっか、お前も俺と同じ無い物ねだりだったとは。すまねぇな、今まで素っ気無い態度ばかりとっちまってよ」

「ううん、平気です。恋は障害があるほど、燃え上がるって言うじゃありませんかっ!」

「おう、いつでも受けて立つぜ。まずは胸を、あと5大きくするところからだな」

「やっぱり、これじゃダメですかぁ……」


 ヨモギが小ぶりの胸に手を当てて、ワキワキと握る。

 そして、口にしたセージも気付いていなかった。

 理想のハードルが2センチ下がっていたことに――。


「そのかわり期限は無しだ、いつまででも待ってやる。ガッツリ食って、たっぷり牛乳飲んで、しっかり揉んで育てるんだぞ」

「はいっ!」


 地面に落ちたベレー帽を拾い上げてボブカットの髪に乗せてやると、彼女は満面の笑みを浮かべる。屈託のない笑顔に和まされて、セージは少しだけ胸のつかえが取れた。


「さぁて随分と下まで落ちちまったが、ここから出られるのか~?」


 気を取り直してペンライトで周囲を照らす。そこは元いた穴よりもさらに年代が古そうで、色褪せた赤茶色のレンガが幾重にも積み重ねられていた。壁には古ぼけたプレートが煉瓦に埋め込まれていて、《大日本帝国陸軍技術本部》と書かれていた。

 しかし、二人には文字が複雑すぎて読み解くことさえできない。


「こりゃ、何て読むんだ?」

「さぁ、なんでしょうねぇ。あ、これは読めます。プレートの下に渋谷って書いてありますよ!」

「おう、やるな。この穴を直進すれば、シーヴァまで楽に行けるってわけだ」

「もしかしたらシキミさんたちよりも早く、シーヴァに着いちゃうかもしれませんよ~? くふふっ」

「ようし、ここを突っ切ってあいつらの鼻を明かしてやろうぜ!」

「お~っ!」


 俄然やる気になった二人は穴の奥へと突き進む。

 ところが歩く度にホコリが舞い、それがカビ臭さと混じって喉を刺激した。シャツの袖を口に当てて20分ほど歩く。次第に湿気が増してホコリは立たなくなったが、やたらと気温の低い場所に抜け出たため、背筋にがピンと張り詰める。


「なんだか……すごく嫌な感じがしませんか?」

「奇遇だな、俺も同じことを考えてたとこだ」

「どうしましょ?」

「どうするったって、今さらだな……」


《コツン――》


「ん、何か今蹴っ飛ばしたぞ」


 つま先に固いモノが当たって転がった先をペンライトで照らすと、明かりに驚いたネズミが一斉に逃げ出した。こちらもビビった。


「脅かしやがってネズミかよ。だがよ、さっきの感触はもっと固くて軽くて丸い……そうそう、あんな感じだ」


 通路の真ん中に残った白く丸い物体に目が留まり、靴底を鳴らしてそろりと近づくと、セージは白い物体を拾い上げ裏面にひっくり返した。


 それは――人の頭蓋骨だった。


「キャ~~~~ッ!」「ギャ~~~~ッ!」


 咄嗟に前方の闇に向かって頭蓋骨を放り投げる。

 すると、頭蓋骨は何かの金属にぶつかってこちらへ跳ね返り、二人はもう一度悲鳴を上げて左右に飛び退いた。その間を頭蓋骨がボールのように転がっていく。


「ゴンつったぞ、今。この先にまだ何かあるぜ」


 前に向けてペンライトを照らすと、そこには無数の人骨が散乱していた。

 残った衣類から軍人だということが分かる。いつの時代のものだろうか。


「ゴクリ……」


 冷たい汗が頬を流れ落ちて無意識に唾を飲み込む。

 ヨモギはすっかり怯えてしまい、セージの腕に抱きついて小刻みに震えていた。

 ここで一体、何が起きたのか? その疑問が脳裏を過ぎった時、ふと浮かんできたのはニゲラが話していた、あのお伽話だ。


 そして、ヨモギも同じことを考えていたようで、


「まさかここって、ヤマテノオロチの巣穴なんじゃないですか……?」

「ばばば、馬鹿なこと言うんじゃない。そんなもん、いるはずがねぇだろ? 尿意が戻ってきちまったじゃねぇか!」


《ギギ……ギギギギギ…………》


「ヒィッ!」


 風が流れて正面の何かが二人を呼ぶように軋んだ音を立てる。

 ゆっくりとペンライトを持ち上げて、セージは暗がりに光を照らした。


「扉? こんなところに鉄でできた扉があるぞ」

「どうしますか?」

「どうするも何も、扉ってのは開くためにあるんだろ。立ち止まってちゃあ、何も始まらないぜ」


 顔を見合わせてるとヨモギがこくりと頷く。遺骨を踏まないように注意して歩き、分厚い鉄扉の前に立つと、僅かな隙間から息が白くなるほどの冷気が漏れ出していた。中に何かがいる。そう直感が告げると、セージはヨモギと一緒に扉を左右に開放した。


 そこには――茫漠ぼうばくとした闇が広がる空間があった。それにしても広い、ペンライトの明かりはどこを照らしても暗闇に溶け込むばかりだ。かなり気を張って中に入ってみたのに何だか拍子抜けだった。


 残念そうにヨモギが声を漏らす。


「何もないですねぇ」

「しゃーねなぁ、他に出口がないか探して――」


 その時だった。


「いや待て、今何か反射したぞ!」


 慌ててしまいペンライトの明かりが左右にブレたが、もう一度正面に照準を合わせる。


「セージさん!」

「嘘だろ、本当に実在してたなんて……」


 見てしまった――。

 紛れもなくは目の前に実在していた。

 格好悪いが足がすくんで一歩も動くことができない。

 世の中には開けてはならない扉があるのだとセージは悟った。

 だが、それもすでに手遅れだった。


 セージは震えるヨモギを抱き寄せて、闇の中で大きな鎌首を持ち上げた漆黒の巨体と睨み合った。それはただ静かに、威厳を誇示するかのように、こちらを見下ろし続けていた。

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