第四十幕 ―― 心凍てる魔女
バランスを崩したシキミは樫の木に落下してしまい、枝が激しく裂ける音だけが耳に届く。一人、宙に投げ出されたカシアは、差し迫るレンガ調の床に怯んで腕で面を覆った。
――もう間に合わない!
自分にシキミみたいな力があればと、願い、諦めかけた、その時だ。
パチンと指を鳴らす音がホールに響くと、カシアが薄い球状の氷膜に包み込まれた。それは一枚ではない、入れ子状に何十、何百枚と加速度的に増えていく。氷膜がフロアに接触した瞬間、砕けた氷が水へと変わり衝撃を全て飲み込む。
気が付くと、カシアは引いた水の上に無傷で床に転がっていた。
「危ない真似しちゃダメじゃない。やはり、あの娘にアナタを預けておけないわ」
「ゲホゲホッ、マツリカ……」
飲んだ水を吐いて顔を上げると、そこには純白のスーツを纏ったマツリカが一人、噴水に腰を下ろしてこちらを熟視していた。
「お目当てのモノは見つかったかしら? アナタがさえ素直になってくれれば、こんな手間は必要ないのよ。それにもう、ここにヒマワリはいないわ。先にジュークへ移送済み……次はアナタの番よ、カシア」
マツリカは妖艶な笑みを見せたが、カシアの答えは決まっていた。
「ジューク……そこにヒマワリが囚われているんだね。僕は行くよ。でも、それはキミと一緒にじゃない!」
「……そうだよ!」
カシアの決意に呼応して、樫の木の根本に倒れていたシキミがカグツチを杖にして立ち上がった。顔には擦り傷、肩には折れた氷柱が刺さり、落下の衝撃で折れた左腕を支えながら。
「シキミ! 今、そっちに行くからね」
「――それはダメ」
マツリカの声のトーンが下がって噴水が一瞬で凍りつく。水に浸していた左手を頬に近づけると、雫が指先で鋭利な氷の刃物と化し、殺気に満ちた容貌でシキミを睨んだ。
「その娘のことは諦めなさい。私と一緒にジュークへ行きましょう。ヒマワリもアナタを心待ちにしているのよ」
「………………」
カシアはその言葉が酷く悲しいものに感じられた。
言葉の裏に秘められた本当の意味に気付いていたからだ。
「それはヒマワリの意志じゃない、キミのエゴだよ。キミと彼女は《別の人間》なんだから」
投げかけた真意にマツリカは軽く俯くと、銀髪が肩からサラリと流れ落ちて横顔を隠した。
そして、髪の隙間から見える唇が大きく吊り上がった。
「あのファイルを見てしまったのね……そうよ。ヒマワリ、あの子は私のクローン。生殖能力を持たない私では、本当の意味でアナタを導いてあげられない。ならば、同じ遺伝情報を持った器を用意すれば……願いは叶うじゃない。私はアナタの子を産みたいのよ、フフフフ――」
それ以上、マツリカにかける言葉が出てこなかった……。
狂っている、完全に狂っていた。
それにどうする? シキミはこれ以上戦える状態ではない。
マツリカの目を醒まさせるには、どうしたらいいのか?
右腕が自然と右足に伸びて、ホルスターに差していたワルサーP99を引き抜く。
もうこれしかない……と、カシアは決意した。
「何してるのカシアっ!」
シキミが声を上げると、カシアは拳銃を自分の側頭に押し付けた。
「僕が死ねば全てが無駄になるよ。こんなことはやめて元の生活に戻ろう。今からだってまだやり直せるよ」
「…………」
マツリカは何も答えず、ただじっとこちらを見据えていた。
《ピピッ》
ちょうどその時、腕輪のスクリーンが起動して暑苦しいニゲラの面を映し出す。
彼はやり遂げた男の面構えで状況を報告してきた。
『炉心にたっぷり爆薬を仕掛けてやったぜ。あと1分で起爆だ。お前らの方はどうなんだよ?』
「あまり……いい状況とは言えない、ね」
銃を構えたまま、辺りを一瞥する。
シキミは顔を歪めて肩に刺さった氷柱を引き抜き、
片や、マツリカはその通話を耳にして薄ら笑いを浮かべていた。
「動力炉を爆破ですって……? どうぞお構いなく。でも、その前にどういう代物なのか、よく確認してからでも遅くはないと思うけれど」
充ち満ちた彼女の自信。カシアには、マツリカの言葉をすぐに理解できなかった。
それが分かったのは、ニゲラの隣にあった三角形を模した《黄色いマーク》が目に映り込んでからだった。
「あのマーク、まさか……!」
全身に金縛りにかかったような緊張が走り、顔から一気に血の気が引く。
「そう、核融合炉よ」
核融合炉――20世紀中期から研究が始められ、後に原子炉に取って代わった《地上の太陽》と呼ばれた発電プラント。海水から取り出した重水素を、二億度近い温度で融解させ、発生したプラズマで永続的な発電を可能にした動力炉だ。
しかし、使い方によっては兵器にも替わる。旧世界の終末戦争で使用された熱核兵器と同様のエネルギーで稼働している。もしニゲラが仕掛けた爆弾で炉が破損させたら、この地域一帯にどんな被害をもたらすのか予想もつかなかった。
「だ、ダメだ、今すぐ中止するんだ! ここだけじゃなく、アキヴァルハラまで人が住めない死の街になるぞ!」
『い、今さら何言ってやがんだ。こいつを壊さなきゃ、援軍が呼べねぇだろうが……』
「素直に人の忠告は聞くものよ、野猿」
『の……のざっ?』
「アナタの隣に黄色い三角のマークがあるでしょう? それは旧世界で人類を死滅に追い込んだ猛毒を表す記号なのよ」
『き、聞いてねぇぞ。そんな危ねぇモンがここにあんだよ!』
「人はリスクと引き換えに豊かさを手にしてきた。このシーヴァも例外ではないわ。カミツレは何でも人任せにするところがあるでしょう? 恐らく発電施設のことも便利な道具の一つとしか、思っていなかったようねぇ」
『て、てめぇ! ――……プツン』
再びマツリカが指を鳴らすと通信が遮断されてしまい、代わりに赤いスクリーンが彼女の面前に浮かび上がった。
「管理者コード226及び、108を発令。施設と全マーキナーへの電力供給を一時停止し、全マーキナーは20分後にキルモードで再起動」
「貴様っ!」
シキミが牙を剥くと、ホールに停電を知らせるアナウンスが反響する。
《現在、シーヴァ全域に大規模な停電が発生しました。復旧は未定です。皆さんは速やかに――》
エントランスにあった巨大スクリーンに、市街地、住居区、郊外、リストにある地区の名が次々と消えていく。最後に残ったここも照明が落ちて非常灯に切り替わり、周囲がオレンジ一色に染められた。
「ここがほしいなら進呈するわ、私はカシア以外の人間になんて興味がないもの。彼がいる場所こそが玉座。私はこの世界の
「……僕は、キミの思い通りになんかならない!」
カシアはカチリ――と、撃鉄を起こす。ブラフのつもりだったが、ここで引き金を引かないと多くの死傷者がでてしまう。息を呑み赤く発光するマツリカの瞳を直視すると、彼女は悲しげに首を振った。
「カシア……私はアナタの意志でこちらに戻ってほしかったけど、残念だわ」
その途端、カシアの視界が二重に霞んだ。どんどん体から力が抜けしまい、膝を折って大理石の床に横たわった。頬に冷たさを感じながら首を曲げ、かすれた声で問いかける。
「な……にを……したんだ?」
すると、彼女の指先に一匹の虫が留まる。
それはセイヨウミツバチだった。
「安心して筋肉弛緩剤よ。効果が消えれば元に戻るから、それまで大人しくしていなさいね」
こんなはずじゃなかったのに……。もはや指先一つ動かせないカシアは心の中で自分の甘さを悔やむことしかできなかった。マツリカがカシアに無表情に手を伸ばす。
と、シキミの声が二人の間に割って入り片手でカグツチを構えた。
「……カシアは渡さないっ!」
「はぁ、まったく。直にここは血の海と化すわ。もうアナタの相手をしている暇はないのよ、アイリス」
「……マトリカリアぁあああああ!」
またあの名を呼ばれて激怒したシキミは、理性で押さえ込んでいた憎悪の
そして、手にしたカグツチが荒れ狂う炎の渦を巻き起こした――その時。
突如、マツリカの左右に漆黒の球体が落下し、大理石の床にめり込む。それは解れた糸のようにバラけると人形に形成し始め、上半身が異常なまでに発達した人型兵器と化した。首はなく、頭となる部分に白い球体と片眼のレンズが赤く点灯している。
「フフ……アナタの相手はこの《ヘルヴィム》よ。バイオノイドやヒマティオンと同じ、旧世界の終末戦争で使用された決戦兵器の一つ。自立型AIとバイオナノファイバーの融合体で、身体能力だけならセブンスに次ぐ性能よ。アナタには丁度良い玩具でしょ?」
《ピピピピピ…………》
「私の邪魔を……するなぁああああ!」
カグツチが赤い炎を吐き出すと、一瞬の間にシキミがヘルヴィムに詰め寄って漆黒のボディに炎の斬撃を浴びせる。筋骨隆々な腕に阻まれるとカグツチがゴムのようにめり込み、表面に僅かな焼け焦げ跡を作った。
続けてヘルヴィムがもう片方の腕をオーバースイングすると、シキミはその拳を踏み台にして後ろへ大きく宙返りする。着地と同時にカグツチを鞘に収め、柄に全ての力を注ぎ込む。
「斬……鉄…………!」
抜刀と同時にヘルヴィムの懐に飛び込み、鮮やかに一閃でその腕と胴を二つに分断した。シキミは素早くカグツチを鞘に収めると、もう一撃、隣のヘルヴィムに放とうとした、その瞬間だ。
《ピピ、
一体目のヘルヴィムが片言のマシンボイスを喋ると、焼き切った筈の胴体が細い繊維となって再結合し、元の状態へと戻ってしまう。左右の拳がシキミをプレスするように襲いかかると、彼女は咄嗟に両手を広げ、
「ぐうぅうううう…………」
バイオナノファイバーのスーツが軋む音を立て、シキミの両手が徐々に押し込まれていく。カシアは有様がが我慢できなくなり何度も叫ぼうとしたが、声にならない。
いつも大事な場面で足を引っ張ってしまう。
自分に力があれば……!
己を呪い、瞳に涙を浮かべた時――。
カシアの手にあの《刻印》が浮かび上がった。
それが心の奥底に語りかけてくるような不思議な感覚だったが、その意味も理由も解らない。ただ動きたい、それだけを願うと体内に流れるナノマシンのビジョンが網膜に浮かび上がり、血液に混入した
そして、僅かに腕が動き黒い腕輪に指を添える。
声を振り絞り、通信の先にいる相手に命令を下した。
「位置は分かるな……? シキミの頭上、1メートルの部位を撃ち抜け!」
《――イエス、マスター》
目を覆うような閃光が広場の壁と柱を貫通し、ヘルヴィムの頭部を撃ち抜く。制御を失ったバイオナノファイバーはのた打ち回るように形を変形させると、最後は液体となって地面に飛び散った。
大きく口を開けた壁の穴から強烈なライトが差し込み、黒一色のフォルムがプラズマを吐き出しながら、ゆっくりとエントランスに姿を現した。
それは以前、カシアが図書館で修復していた可変式ホバーライドだった。
「エスペランサー、シキミを守れ……!」
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