第十一幕 ―― 全てに背いて……
カシアは薄暗く不気味な森の中を歩く。足元には苔の生えたコンクリートと大きな木の根が入り混じり、無造作に伸びた枝が微かな光さえ奪う。
先時代の成れの果て、かつてこの地にも栄えた街があったのだろう。
今では自然が文明を勝り、かつて栄光が無へ還された残りカスだ。
ここがシーヴァの庇護が及ばない場所であることを改めて実感させられる。
カシアは次第に興奮が冷めてくると、とんでもないことを仕出かしたと頭を抱えた。
「何処だろココ……無我夢中で飛び出したけど、結局あの子も見失っちゃったし、はぁ」
だとしても、シーヴァに戻ることはもうできない。
紫黒色の少女が現れた時――喜びを感じた反面、知ってはいけない闇を垣間見た気分にもなった。
何故、彼女のことを忘れていたのか?
いつどうやって出会っていたのか?
解らないことだらけだったが、そう仕向けた何者かが存在することだけはハッキリした。
それにカシアが悔しかったのは彼女と見つめ合った時、名前を呼べなかったことだった。
「くそっ!」
自分の不甲斐なさに腹を立てて足元にあった木の根を蹴ろうとすると、苔に足を取られてひっくり返る。背中を強打した声も出せず苦痛に悶えてしばらくその場に寝転がった。冷たい地面が体と心を落ち着かせると置き去りにした大切な人たちに思いを馳せた。
「みんな、心配してるだろうな……」
ああ、なんて愚かなことをしでかしたんだ。
切羽詰まっていたとはいえ、もう少しやりようがあったかもしれない。
それに何の装備もなくジャングルに飛び込むなんて自殺行為としか思えない。
愚かしい、穴があったら入りたい。
それ以上にあんな悲しげなヒマワリを置き去りにしてきたことを思い出し、罪悪感と嫌悪感に押しつぶされそうになってカシアは両手で顔を塞いだ。
「ヒマワリに悪いことしちゃったよ。マツリカになんて言えばいいんだろう。せめて理由だけでもヒマワリに話しておけば……」
すると、カシアは微かに気配を感じる。
額に荒い息遣いがかかり、そっと顔から手を退けてると。
「ハァハァ、それってどんな言い訳よ?」
「ヒ、ヒマワリ?」
慌てて跳ね起きた。
それはもう腰が地面から浮くほどに。
「どうして、キミがここにいるんだい!」
思わず目を疑ったが間違いなく彼女はそこにいた。ヒマワリは泥と擦り傷まみれになって木に寄りかかり、精根尽き果てその場に倒れ込む。
「エヘヘ。良かったぁ、追いつけて……」
「なんて無茶したんだい」
「何言っちゃってんの、それはアンタのことでしょうが」
「ゴメンよ……脱水症状を起こしてるみたいだし、まずはキミに飲ませる水を探さなきゃ」
かなり無理をしてカシアを追ってきたらしく、ヒマワリの体は酷く熱を帯びていた。
カシアを見失うまいと必死だったのだろう。
彼女の小さな手をギュッと握る。
立ち上がって周囲に目を凝らすと、カシアは窪地に小さな池が目が留まった。
足場に気を配り苔の生えた木の根を滑り降りる。
水際に近づくと足首がずぶりと泥に沈んで危うく転倒しそうになった。
「あと少し……んん~っ」
カシアは慎重に腰を下ろして緑色に濁った水をゆっくりと手で掬い上げたが、水には藻やボウフラが入り交じっていて、とても人が飲めるような状態ではなかった。
だが、それだけではない。
ヌルリとした物体が親指に吸いついてきたのだ。
「ヒ、ヒルだっ!」
カシアは慌てて手を振り払ったがへばり付いたヒルは離れようとせず、より強く親指に食らい付く。えも言われぬ不快な感触……掴みとる勇気がなかったカシアは、手前にあった木の根に掌をおもいきり叩きつけた。
「イッテ~テテ……」
圧死したヒルが樹の幹にベタリと張りつき、カシアの指から血が滴り落ちる。
しかし、手の痛みよりも水を確保できなかった方が痛手だった。
人は水なしでは3日と生きられない。
昨日読んだばかりのサバイバル本に載っていたことなので信用に足る知識だ。
「どうしよう、このままじゃヒマワリは……」
シャツの裾を少し破って包帯代わりにして指の出血を止める。
カシアは苦い顔をすると一度ヒマワリの元へ戻ることにした。
ヒマワリが苦しそうに息をしているのを目にして、不甲斐なさに唇を噛む。
「チクショウ……シーヴァを少し離れただけで飲み水さえ手に入れられないなんて」
自分がいかに安全な場所で暮らしていたのかを、カシアはたった数時間で思い知った。温室育ちの植物が霜や病気に勝てないように、外の世界に免疫がない自分たちもこのまま死んでしまうかもしれない。
そんな不安ばかりが脳裏に過ぎる。
「ダメダメ、弱気になってちゃ。多少なりとも箱庭でサバイバル課題を幾つもこなしてきたじゃないか。何か方法があるはずだ」
カシアはこれまで体験したことや覚えた知識を掘り起こす。
古代人はこんな場所でも生活していた、きっと生き抜く知恵があったはずだと。
すると、周囲の植物に目が留まる。
気候は亜熱帯、そこで旧世界の人が水を得ていた方法。
過去に読んだ本の内容が滲むように思い浮かぶと、
「これだっ!」
カシアは腰ベルトの中に入っていたカッターナイフを取り出す。
辺りに目を配り、背の高い木に巻き付くように寄生した細長い蔓に駆け寄った。
それを1メートル程の高さで切断する。
「良かった。本当だ、本当に出たよ!」
この蔓はキャットクローという亜熱帯に生息するアカネ科の植物だった。
茎に大量の水を蓄える性質があり、葉には薬草としての効果もある。
歓喜したカシアは背の高さでもう一度茎を切ると、蔓をUの字に持ち上げてヒマワリの元へ走った。
「ヒマワリ、口を開けて」
「ううっ」
ヒマワリの身を起こして片方の蔓を口元に近づける。
「ゴキュ、ゴキュ、ゴキュ……」
「水はよし、と。あと必要なのは……そうだ、塩分だ。でも塩なんてどうすれば?」
汗をかけば体内の塩分も失われる。
塩もまた、人が生きていくために欠かせないものだった。
しかし、待て――カシアが腰ベルトに右手を突っ込んでみると、
「あった! セージ、キミって奴は最高だよ!」
それは焼き肉を食べた時に手渡された食塩の瓶だった。
塩粒をほんの少し手に乗せてヒマワリに舐めさせる。
「ふう、これでしばらく休めば良くなるのかな」
身につけた知識がこんな形で役立つとは思いもしなかったが、ヒマワリをこんな目に遭わせたのは自分の軽率な行動だったので、カシアは安易に喜べなかった。
安堵と後悔が複雑に入り交じる中、彼女の頭を膝に乗せて無事に回復することだけを考え、あとはひたすら祈った。
日が暮れるとただでさえ薄暗かったジャングルは静寂に包まれる。夜だというのに星一つ望むことはできず、闇でうごめく夜行性の動物がカシアをより一層緊張させていた。
「今の声、意外と近くだったな……急がなきゃ」
カシアが何より必要としていたのは火だった。
近辺で集めた木の枝に腰ベルトに入っていた携帯用バーナーで着火する。
が、そこから出てきたのは青臭い煙ばかりで一向に火が付く気配はない。
「ケホケホ、あっれぇ……なんでだろ。そっか、古い枝じゃないと水気を含んでてダメなのか」
暗闇の中で握った感触と臭いを頼りに、乾いた枝とそうでない物を選り分ける。三分の一ほど残った枝を再度、携帯用バーナーで炙った。
すると、パチパチと樹皮が弾ける音がして枝の回り炎が広がる。
星明かり一つ見えない夜陰で、暖かなオレンジ色の薄明かりが温かく二人を包んだ。
「ふう、これでひとまず安心だ。当てもなく飛び出しちゃったけど、これからどうやって生きていけばいいのか……」
疲れ果てたカシアが後ろにあった大きな木に背を預けると、
『キュルルル……』
腹も不安げな声を上げた。
「ううん……」
すると、隣で寄りかかるように眠っていたヒマワリが意識を取り戻した。
「良かった、気がついたんだね」
「カシア? そうよ、アンタ! なんて馬鹿な真似したの。見境もなくシーヴァを飛び出すなんて!」
「……ごめんよ」
弁解のしようがない。
ヒマワリの顔をまともに見ることができずカシアが俯くといきなり指で額を弾かれた。
「アイテっ」
恐る恐る面を上げる。
ヒマワリはハァ~っと大きなため息をついて首を振った。
「カシアは理由もなく、こんなことしないでしょ? ちゃんと話してよ。私はアンタのつがいなんだから……ね?」
彼女は感づいた、紫黒色の少女のことを。
カシアは大きく息を吐いて、もう一度吸い込む――全て話そうと。
それが巻き込んでしまったせめてもの、誠意。
いや、そんな言葉で片付けられるはずもないし、話せばきっと彼女を傷つけてしまうだろう。
だがこれ以上、ここまでカシアを想ってくれているヒマワリを蚊帳の外にすることもできない。帰る場所さえ捨てて、カシアについてきてくれたのだから。
そうして、カシアはこれまで胸に秘めていた想いを全てヒマワリに打ち明けた。
「一つだけ……ヒマワリに話してなかったことがあるんだ」
「うん……」
「僕はね、君に出会うずっと以前からある《夢》を繰り返し見てきたんだ。覚えてるかな? 昔、ヒマワリが言いつけを破って《赤い果実》を食べようとした日のことを」
「アンタ、人が変わったみたいに怒ったよね。でも怒ったのは、あの一度きり」
「うん。あれはね、警告だったんだと思う。多分、昔まったく同じことがあって……そのせいで僕は大切な何かを失った。あの夢は忘れてしまった記憶の断片だったんだなって、今は思う」
ヒマワリが下唇を少し噛む。
「じゃあ、もしかして昼間に会った黒い女の子が……」
カシアはあえて首を縦に振らなかった。
「分からない。でも、彼女はその答えを知ってるはずなんだ。だから、あの子に会って何が起きたのかを聞かないといけない。それにシーヴァは本当に安全な場所なのかを」
「安全も何も、シーヴァは私たちが生まれ育った家じゃない。他に安全な場所なんて……どこにもないわ」
そう言いながらもヒマワリは言葉を詰まらせる。
自分で口にした言葉に確信を持てないようだった。
カシアはそっと彼女の手に触れる。
「育った……いや、育てられたか。僕らは一体、何のために生かされていたんだろうね」
それからヒマワリは黙り込み、カシアの胸に顔を埋めて小さく肩を震わせていた。
楽園を追放された、アダムとイヴ――。
彼らもこんな気持ちで身を寄せ合ったのだろうか?
いや、そうではない。
全てを失ったかもしれないが、またこうして箱庭にいた頃のように二人だけの生活に戻ったに過ぎないのだ。特にヒマワリにとっては馴染めないあの場所で暮らすより、新天地を見つけて二人で生きていく方が合っているのかもしれない。
けれど――今はまだ、それに答える自信はなかった。
「僕がしっかりしなきゃ……」
勢いが弱まった焚き火に枝を放り込むと、大きくなったオレンジ色の炎がヒマワリの横顔を明るく照らす。
すると、彼女はまだ熱を帯びた唇を緩めて言葉を漏らした。
「……の……は……だけなんだからね」
「え、何か言った?」
燃える枝が弾けた音で言葉を上手く聞き取れなかった。
「だから……アンタのつがいは私だけなの。あんな女にカシアは渡さない! もう勝手にいなくなったりしないでっ!」
リンゴのように真っ赤な頬に一筋の雫が流れ落ちる。
それを目にした途端、カシアは彼女が抱えていた不安をようやく理解した。
贅沢な暮らしなど望んでいやしない。
ただ二人でいたい、見捨てないでほしい、その一心だったのだ。
「……ゴメンよ」
――情けない、これが精一杯の言葉だった。
ヒマワリへの想い、紫黒色の少女への想い。
選ぶことなんてできない。
どちらも同じくらい大切で、かけがえのないものだ。
でも、太陽が二つとないように二人の女性を望むことはできない。
両方を支えられるほどカシアの手は大きくないのだから。
今すぐ答えを出すことはできない、けれど――。
そっとヒマワリの肩に手を回すと、彼女はその手を軽く握り返してきた。
「いいよ、謝らなくて。私、すっごいワガママなこと言ってるの、自分でも分かってる。カシアを困らせてばかりだよね。いつまでたってもコミュニティーに馴染めなかったし、おうちに引きこもってばかりだったし……。でも、変わらなきゃ。カシアを支えられるくらいには」
いつもと違う彼女の様子にカシアの鼓動がトクンと脈打つ。
「ヒマワリはヒマワリのペースでやればいいさ。それに迷惑だと思ったことなんて、一度もないよ」
その言葉に安堵して、ヒマワリは恥ずかしげに顔を隠す。
「じゃあ……アレ、してよ」
「アレ?」
アレって何のことだ?
見当もつかないカシアは彼女に問い返すと、
「知らないの? セージが言ってたわよ。男女が喧嘩した時は仲直りの証しとして、口と口をくっつけるって。私たち一度もやったことないでしょ? セージとマツリカはいつもしてるって言ってたわ」
その名を耳にしてすぐに察しがついた。
それはセージの妄想か、あるいは相手がマツリカが履いた靴であると。
もしかしたら彼がわざとヒマワリに吹き込んだに違いない。
そういう類いの知識に疎い彼女はセージの話を鵜呑みにしてしまっていた。
「嫌……?」
彼女の唇についた唾液が妖しい光沢を放つ。
――なんという魔力か。
しおらしくなった女の子がこんなに胸を高鳴らせるものだとは思いもしなかった。
若草色の瞳に赤くなったカシアの顔が映り込む。
「目……閉じようか」
その言葉にヒマワリは素直に従った。
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