第十二幕 ―― 再会
高鳴る鼓動……カシアは生唾を飲み込み目を閉じると、ヒマワリのサクランボみたいに柔らかな唇にそっと顔を近づける。感じたことのない緊張感と抑えられない渇望に引き寄せられ、もう止まることはできない。
お互いの息遣いが聞こえて唇が触れた瞬間感……初めての感覚が電撃の如くカシアの全身を駆け巡った。
それは平らで硬く、とても冷たかったからだ。
「アレ?」
「……声を出したら、喉元を掻っ切るぞ」
瞼(まぶた)を開くと刃渡り20センチのナイフが眼前に突き出されていて、カシアはそれに口づけしていた。
何だこの状況、何だこのガッカリ感は!
カシアは声に出して叫びたかった。
が、それをすれば首と胴が切り離されてしまうので、悲痛な想いをグッと堪えるしかない。
「フゴフゴ……!」
隣では見知らぬ男に口を押さえられたヒマワリが震えながら何かを言っている。
カシアがゆっくりと後ろを振り返ると、そこにいたのは昼間シーヴァに襲撃をしかけた黒服の連中だった。茶髪にリーゼント、首に赤いスカーフを腕に巻いたあの男の横顔もある。
「テメェーら、箱庭のスパイだな?」
「い、いや……僕らは会いたい人がいて……」
「喋るな」
苛立った声。それに厚みのあるナイフが焚き火の明かりをギラリと反射したので、カシアは口を紡いでコクコクと首を縦に振る。
「俺らのテリトリーでキャッハ、ウフフとはいい度胸だ。お前みたいな男はこの場で腹を割いて獣の餌にしてやりてぇ所だが、お嬢の言いつけでここじゃ殺れねぇ。楽な死に方したきゃせいぜい黙ってついてくるんだな」
彼の言いようは逆恨みにしか聞こえない。
だが、その声には殺意がこもっていたので素直に従うほかなかった。
それになによりヒマワリのことが心配だった。
こんな時に勝ち気な性格が爆発してしまえば、どうなることかと……。
チラリとカシアが不安そうに視線を送ると、ヒマワリは意図を理解したようでコクリと一度だけ頷いた。
暗がりを2キロほど歩くとヒビ割れたアスファルトの道に抜け出す。昔は幅広い道路だったらしく、あちこちに壊れた標識や掠れた白線が点在している。旧世界ではここに大きな街があって、今と違う生活を送っていた人々が沢山いたのだろう。
とはいえ今はもう見る影もなく、草木に入り混じったコンクリートとガラス片が散乱するのみだった。
「さっさと歩け、籠の鳥が!」
銃口で背中を突かれて前のめりになる。後ろで組んだ親指を拘束バンドで縛られていたので歩きづらいのだ。屈んだ拍子に、黒服の男に担がれたヒマワリと目が合う。
気遣わしくこちらに視線を注いでいた。
――どこへ連れて行かれるの? そう訴える瞳だった。
斑に夜空を覆っていた雲が流れて月明かりが一面を照らし始める。淡い光が周囲に隠れていた金属やガラス片を浮かび上がらせて、まるで星の砂を踏んでいるかのように思えた。
さらに先に進むと大きな鉄煙管が道路を跨いでいて、その鉄パイプに吊り下がっていた何かの標識が目に留まる。薄っすらとまだ文字が読める、それは《漢字》と呼ばれた象形文字の一種だった。
「……千代田……区?」
しかし、元の意味は分からない。
建物の名前なのか、地名なのか、それとも誰かの名前だったのか。
けれど、黒服たちの住み処が近いことだけは察しがつく。
壊れかけたビルのシルエットが次第に数を増やし、周辺にポツポツとわずかな明かりが灯されていた。鉄と土で造られた歪なアーチが薄闇に浮かび上がり、魔物の口みたいな輪を潜って広い通りへ抜け出る。
その先は瓦礫が綺麗に撤去されて、ビッシリと敷き詰められた石畳が街の奥まで続く。通りの隅には無数のテントが張られており、ランプによって中の様子が影絵のように映し出されていた。
カシアは彼らがならず者の集まりだと思っていたが、外にもそれなりの文明が残っていると知った。
それに何より、外の世界でも人が暮らしていけること知った瞬間でもあった。
「ニゲラが帰ってきたぞ~!」
黒服たちが戻ってきたと知って周囲が騒がしくなる。テントから覗いた無数の顔が一斉にこちらを向くと、英雄が凱旋したかのような歓迎ぶりで彼らを迎え入れた。
一方、捕らえられたカシアとヒマワリは、子供たちから物珍しそうに覗き見られる。
ここにはシーヴァと明らかに異なる場所だった。
そうカシアに感じさせたのは、貧しい暮らしぶりだけではない。
決定的に違う点が一つあったのだ。
施設にいるはずの子供、髭を生やした中年男、それに初めて目にする白髪の老婆――。
そう、ここには15歳から20歳の人間しかいないシーヴァとは違い、さまざまな年齢の人々が混在して暮らしていることだ。滅びたはずの外界にもこれだけの文化が息づいている。なのに、なぜシーヴァはこの存在を隠して外に世界はないと教えてきたのだろうか?
色々と思うところはあったが今はそれどころではなさそうだった。
そろそろ終着地が間近に迫っていたからだ。
大きな石畳みの広場に行き着くと、そこにあった木造づくりの舞台に二人は登らせられる。
「さぁ、とっとと進め。手間を掛けさせんな」
「イテテテ……」
リーゼント男に突き飛ばされると担がれていたヒマワリも降ろされ、カシアと並ぶように立たされた。膝を突いたカシアの耳許でヒマワリが囁く。
「大丈夫?」
「ああ、このくらい平気さ」
少しでも彼女の不安を和らげようと、カシアはニッコリと笑みを返した。
周辺に松明の明かりが増え始め、ザワザワと話し声が大きくなる。
指を差して陰口を叩く者、憎しみを吐き捨てる老人、ただ騒ぎたいだけの野次馬。
好奇の視線が二人に突き刺す。
「怖いよ、カシア……」
「大丈夫、キミは僕が守るから……たぶん」
カシアがヒマワリの手をギュっと握りしめた――その刹那。
カツカツと床板を鳴らすヒールの音がこちらに近づいてくると、ザワついていた広場が嘘のように静まりかえった。その足音が、カシアの背後でピタリと止まる。
「ニゲラ、その二人がお前の言っていたスパイか?」
「おう、こんなヤツらを捕まえるなんざチョロいもんだぜ」
あの声が頭の後ろで響く――。
カシアは強引に腕を引かれて後ろへ振り向かされると、絹糸の如く艶やかな紫黒色の髪がはらりと舞い懐かしい匂いが鼻先を掠める。間違いなく、今そこに夢の少女が目の前に立っていた。
「色白でヒョロっこくて、いかにも鳥籠で飼われてましたってツラしてやがるぜ。お嬢、さっさとこの二人を処刑して、その首を箱庭の連中に送り返してやろうや」
髪の隙間から覗いた碧眼が橙色の明かりを反射させ、暴言を吐くリーゼント男を鋭く睨みつける。
すると、その気迫に押し負かされたリーゼント男は額に汗を浮かべてたじろいだ。
「まだそんな戯言を言って回ってるのか? 私達は殺戮者ではない。箱庭に囚われた人々を開放するために戦うのだと、いつも言い聞かせているだろう。それができないなら私はリーダーを降りるぞ」
「す、すまねぇ。もう言わねぇよ……」
ばつが悪そうにリーゼント男が頭を下げる。が、カシアは憎しみが込められた横目で睨まれた。どうして彼がカシアを目の敵にするのかは分からないが、気が抜けないことだけはたしかだ。
そして、紫黒色の少女がこちらをじっと見つめて問いを投げかけてくる。
「何故、こんな所までやってきた?」
「ぼ、僕は君に……訊きたいことがあってきたんだ。僕らは何者なのか、シーヴァとは一体何なのかを。それにいつも夢に出てくる、キミのことも……」
カシアは透き通った碧眼で紫黒色の少女を見据える。
彼女も視線を反らすことなくカシアを受け止めると長く濃いまつ毛を伏せた。
「真実を知りたければここで学べばいい、答えは自ずと見つかるだろう。だが、私は貴様になど会ったことはない」
そう、言い切られてしまった。
「ち、ちょっと待ってくれ、お嬢。コイツらをここに置いておくつもりかよ? まだスパイの疑惑が晴れたワケじゃないんだぜ?」
「身元は私が保証する。この二人に害はない」
紫黒色の少女がヒマワリを一瞥すると彼女はプイっと顔を背ける。これが新たな火種にならなければと、カシアの心臓は破裂しそうなほど激しく鼓動した。
それに火種は他にもあった。
「チッ。お前、命拾いしたな。だが妙な真似してみろ、そんときゃ容赦なく、コイツを背中にぶっ刺してやるからな」
リーゼント男はカシアの耳許で負け惜しみか捨てセリフともとれる言葉を吐き、チラつかせたナイフで拘束バンドを切断する。カシアとヒマワリは両腕が使えない不自由からようやく開放された。
「あ、ありがとう。キミのおかげで助かったよ」
「…………」
やはり、紫黒色の少女は何も答えてくれなかった。
「次はどうするんだ、お嬢」
「夜も更けた。二人に一つずつ部屋を与えてやれ、続きは明日の朝だ。それとニゲラ、お嬢って呼び方はやめろと何度言わせるのだ?」
「すんません、お嬢……」
次の瞬間――刀の鞘が腰を起点に素早く動いてニゲラの股間を跳ね上げた。
「ハウッ!」
そして彼は悶絶してその場に倒れ込んだ。
彼女はミゲラを見下ろしてこう言う。
「シキミだ、そう呼べ」
「は、はい……シキミさん」
シキミ――紫黒色の少女はそう名乗った。
カシアはその名前に落胆する。
それは記憶にはない、まったく聞き覚えのない名前だったからだ。
彼女は本当に夢の少女ではないのか?
とはいえ、シキミからはあの面影を感じられる。
謎は深まるばかりで一向に出口が見えてこない。
苦労してようやく彼女と話せる機会が巡ってきたが、カシアは何の答えも得ることができなかった。
シキミが床板を鳴らして舞台から姿を消すと、集まっていた人々もちりぢりになり周囲は静けさを取り戻していく。
「テメェはこっちだ、ついてこい」
「カシア!」
気遣わしい表情を浮かべたヒマワリが、不安げそうに声を上げると、
「明日になったらまた会えるよ、心配しないで」
「うん、絶対だよ」
この状況ではあまりに頼りない言葉だったけれどカシアには確信があった。それはシキミと目を合わせた時、彼女の澄んだ瞳のどこにも嘘を感じなかったからだ。
真っ直ぐで、使命感に燃え……どこか物悲しい。
そんな眼差しだった。
だから、カシアは彼女を信じる。
「また明日、シキミに聞いてみよう」
そう小さく呟くと、カシアは黒服に連れられて薄暗い廃ビルの中へと入っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます