第二十四幕 ―― 陽だまりの中で
ジリジリと照り付ける陽の下で、ヒマワリはいつものように畑仕事に精を出していた。汗をよく吸う麻地のシャツに、手には軍手、足には長靴。そして、服はダボついた紺色のサロペットに着替えて。
「今日は暑いわねぇ~。たまには恵みの雨でも降らないかしら?」
まったく、日照り続きで貧血気味の体にはこたえる。
今は畑に水が足りていないのにニゲラはどこをほっつき歩いているのやら、後でとっちめてやらなければと、赤く小さなスコップを握りしめた。
青空に浮かぶクリームみたいな入道雲を見上げる。金色のおさげが風になびき、吹き抜けた風が隣の田園を波のように葉を揺らすと、まだ青々しい匂いを乗せて街の方へと流れていった。
気持ちいい。こんな日は用水路に素足を浸してのんびりと昼寝でもしたいものだったが、日に日に大きくなっていく
「真っ赤に熟れたら、ちゃんと食べてあげるからね」
そう呟いて、小さな実を付けたばかりのトマトを指で突いた。
もうそろそろ、お昼時――。
麦わら帽子を持ち上げて額に垂れた汗を土の付いた腕で拭う。大好きな土の匂いと労働の達成感。抜いた雑草を手に腰をトントンと叩いていると、ひょっこり畑に顔を出したヨモギと目が合った。
「おはようございます、ヒマワリさんっ!」
「あら、おはようヨモギ。ニゲラなら今日はまだ来てないわよ」
「そうですか……まったく、どうしようもない兄でごめんなさい。後で言い聞かせておきますから。わたしも何か手伝いましょうか?」
素直で、従順で、働き者。女性から見てもハグしたいほど可愛らしい子だ。それに比べて兄の方は、ほん……っとプライドが高くて、口うるさくて、仕事もよく放り出す無法者。同じ血を引く兄妹とは到底思えない。
「いいの、気にしないでね。ここへは何しに?」
「セージさんの姿が見えないので、もしかしたらここかなぁって来てみたんですが、いないようですね」
ギリッと、奥歯が擦れ合う。
「アイツ、さっき言ったばっかりなのに……」
ヒマワリが軍手を投げ捨てて拳を鳴らすと、ヨモギが慌ててさっきの言葉を訂正した。
「い、いえ、セージさんは非番なのでっ! 丁度、わたしも休みだったから……セージさんを一本木の丘へデートにお誘いしようかなって……テヒヒ」
「えっ……? まさかヨモギってセージのことが好きなのっ?」
「好きって言うかぁ……セージさんって、とっても素敵ですよねぇ。話し上手だし、料理だってすごい腕前ですし」
ヨモギが照れくさそうにベレー帽を深くかぶり直すと、ヒマワリは眉間を指で摘んで首を振った。
「あの男だけはやめときなさい。絶対に不幸になるわよ」
「そんなことないですよ。背も高くてカッコイイし、何より野性的なところが……ポッ」
可愛らしく頬を真っ赤に染めるとヨモギは口籠もってしまった。それは完全に恋する乙女の顔だった。この子には早く現実を知らしめないと大変なことになる。目眩がしたヒマワリは、この幼気な少女をケダモノの手から守らねばと奮闘した。
「ほんっと、やめておきなさいって。私もここへ来て男と女の関係を知るまでは、アイツの話してる意味がてんで分かんなかったけど……今にして思えば犯罪よ、犯罪。それにセージは胸が小さい子は守備範囲外だから、アナタの胸じゃ振り向きもしないわ」
などと、身を切る思いでセージの本性をヨモギに言い聞かせていたヒマワリだったが、言っている自分が虚しくなってきた。小さな胸に手を当てると、沸々とセージへの恨みが増していった。
「胸ですか……これじゃ、ダメなんですかねぇ」
すると、無垢なヨモギは自分の小さな胸をワキワキと揉みしだく。
か、可愛らしい……。
思わず抱きしめたくなったが、ヒマワリは思い止まる。
そして、こんな純情な子をセージに近づけてはならないと改めて決意させられたのだった。
「ダメよ、絶対にダメ。だから、アイツのことは諦めなさいね」
「はぁ、わたしの胸もシキミさんみたいなビッグに育たないかなぁ」
ヒマワリはあの嫌な女の名を耳にした途端、晴れ渡った心の青空が雷雨へと変わった。目の上のたんこぶ、邪魔者、倒さねばならない最大の恋敵……。
いくら言葉にしても足りないヒマワリは、眉根を寄せてヨモギに詰め寄る。
「いいこと? 男共にちやほやされていい気になってる女になんて、憧れを抱いちゃダメよ。お高くとまって能面みたいな顔してると、本当に好きな人の前で笑えなくなっちゃうんだからっ」
「でも、シキミさんって笑ったらとっても可愛いんですよ~」
「私がどうしたって?」
背後からの声。噂をするといつも現れるいけ好かない奴――。
いけ好かない耳障りな声がヒマワリの耳に入り、いけ好かない大きな胸がヨモギの隣に立ち並んだ。山脈と海抜に限りなく近い高低差を見せ付けられ、ヒマワリの胸が酷く痛んだ。
それにこの暑い日差しの中、派手な着物で男の誘惑する健かさも気に入らないし、汗一つかかない涼し気な顔はつい殴りたくなってしまう。
ここで弱みを見せる訳にはいかない……!
ヒマワリは腕を組み、仁王立ちしてシキミを迎え撃った。
「ふん、何しにきたのよ」
「……見回りだ」
しばらく、紙一枚入る隙間もない緊張が二人の間に張り詰める――。
けれど、そんな危険な空気を察知できない者も世の中には存在するのだ。
天使のような笑顔でヨモギが睨み合う二人の視線に割って入ってきた。
「やだなぁ、もう。お二人ともそんな怖い顔しちゃって。小ジワができたら、好きな男の子に振り向いてもらえませんよう?」
その言葉にハッして、ヒマワリは思わず眉間に指を当ててしまった。目隠しをして地雷原を歩くような……そんな危険行為をさらりとやってしまうこの子が、実は一番のやり手かもしれない。
ふと、そんなことを思い巡らせたヒマワリだったが、改めてシキミの面を睨む。
「ま、まぁ? わたしはカシアはつがいだし~? 誰かさんが入り込む余地なんてないから、どうでもいいんですけど!」
「フン、片腹痛い。私と彼は将来を約束した間柄なのだ」
「何です何ですかぁ? その面白そうな話。もっと教えて下さいよ~っ! お二人とも、好きな男性がいらしたんですねぇ!」
火に油を注ぐというよりも、火事場に焼夷弾(ナパーム)が投げ込まれた。
マッチポンプ……恐らくもう確信犯であろうヨモギは瞳をランランと煌めかせ、二人の動向を見守る。
すると、シキミが耳を疑うようなことを口にした。
「泥棒猫が取ってつけたような妄執を吐いているようだが、私はすでに彼への求婚を済ませてある」
「なななな、何? 求婚って何ぃいい? そんな話、私は聞いてないわよっ!」
一体、どこまで進んでるの……?
シキミに先んじられた感が否めないヒマワリは、動揺を隠せず声を上げてしまう。
その様子に得意げになったシキミは
「なに、ちょっとした婚姻前のしきたりだ。彼にお茶を馳走してその返事を言わせ……いや、もらう。それだけのことだ」
「えっ? 返事をもらったってことは、キスも済ませちゃったってことですか?」
「き、きききき……キスですってぇええ~?」
「いや、お前のダメな兄に邪魔をされてだな……」
「あっ――そういえば、私もアイツに邪魔されたんだったわ」
嫌なことを思い出して、急にニゲラへの殺意が高まる。
「スミマセン、ほんっとダメな兄で。責任持って、後で肥溜めにでも蹴り落としておきますから」
ヨモギはペコペコと頭を下げる。彼女は何も悪くないのだけれど、そんなに謝られると逆に申し訳なく思えてしまう。それにどうやら勝負はまだイーブン。ここで牽制しておかないと、本当にカシアを取られてしかうかもしれない。
そんな焦りからつい、ヒマワリはあの日のことを口にしてしまった。
「フンだ。キスくらいしようと思えばいつでもできるのよ? そんなことよりもね、わたしなんて彼と二人っきりで《温泉》に入ったこともあるんだからっ」
「ほ、ほう? 二人きりで温泉……それは聞き捨てならない話だな」
とっておきの思い出話を叩きつけてやると、シキミの表情からさっきまで見せていた余裕が消え去る。勝利を確信したヒマワリは、中指で赤いメガネの縁をクイっと上げた。
――ざまぁみなさい!
するとシキミは無言のまま振り返り、唐突に何処かへ立ち去ろうとする。
隣にいたヨモギが不思議そうに後ろで手を組み、シキミの背中を見ながら尋ねた。
「シキミさん、どちらへ?」
「……温泉だ」
「この近くに温泉なんてありましたっけ?」
「いや――温泉を、掘りに行くのだ」
はっ…………?
「へぇ~、私もセージさんと一緒に入りたいな。お伴しますっ!」
「では土木部へ行って大至急、掘削用の重機を用意するよう伝えてくれ。私は眺めの良い場所を選んでおこう」
「は~い!」
呆気にとられたヒマワリは呆然と二人のやり取りに耳にしていた。
いや、言葉は届いても頭には全く入って来なかった。
「そういうことなのでヒマワリさん、私達これで失礼しますね」
「う、うん。またね……」
「――ところで、シキミさんの好きな人って誰なんですかぁ?」
遠のいていく声。
何だろう、この疲労感……。
たちまち一人きりになってしまったヒマワリは麦わら帽子を脱いで天を仰ぐ。
ため息を漏らし、地面に落とした軍手を拾い直して黙々と草抜きを再開した。
けれど、その手はピタリと止まってしまう。
誰もが羨む美貌、揺るぎない自信、周囲が寄せる絶大な信頼……無駄に大きな胸。
シキミはヒマワリが望むモノを全て持っている。
「はぁ、やっぱり敵ないっこないよ……どうせ私なんて」
そして他でもない、一番ショックなのはカシアのことだった。毎日顔を合わせているのに、彼はそのことを一言も言ってくれなかった。分かっている。カシアはシキミに会うためにシーヴァを飛び出した。自分はただ、その後ろを追いかけたに過ぎないのだと。
もし、このまま彼がシキミを選んでしまったら――。
急に目頭が熱くなってしまい、ポタポタと落とした大きな雫が乾いた土壌に吸い込まれていった。そうしてお昼が過ぎると、お腹の虫が小さな音を立てた。
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