第五十二幕 ―― 全てはアナタのために……

 ホール全体に張り詰めた緊張が走り、シキミがカシアとヒマワリを隠すように前に立つ。険悪で重い空気。カシアはどうこの場を収めようかと思案してみたが……。


 ――うん、無理だ。


 あの二人の視線に挟まれただけで、この気弱な心臓は破裂してしまうだろう。カシアがおっかなびっくり成り行きを見守ると、先にマツリカの方が口を開いた。


 その言葉は実に意外なものだった。


「もうアナタたちに危害は加えないわ。私はただ、カシアに一つがあってきただけよ」


 予期せぬ言葉にシキミとヒマワリが顔を見合わせると、マツリカは表情一つ変えずにカシアの前にひざまずく。


「……マ、マツリカ?」


 彼女は別れる前と比べて少し雰囲気が柔らかくなった気がする。マツリカの身に何があったかは解らないが、それはカシアが幼い頃に感じていた温かさにどことなく似ている気がした。


「もうアナタを私のモノにすることはやめにするわ。その代わり、私をにしてほしいの」

「貴様、まだ何か企んで……!」


 頭を垂れたマツリカにシキミが突っかかると、カシアはそれを止める。


「どうして、急に心変わりしたんだい……?」

「――鹿が私を救ってくれた、ただそれだけよ」


 カシアの問いにマツリカは少しだけ笑みを溢す。それがどういう意味なのか……は理解できなかった。ただマツリカの憑き物が落ちたような表情は、カシアを安堵させるのに充分だった。

 しかし、まだ納得できない者が一人残っている。


「それ以上、カシアに近づくな!」


 マツリカがカシアに手を伸ばすとシキミが血相を変えて間に立ちはだかり、牙を剥いて彼女を威嚇する。無表情に戻ったマツリカはシキミを見澄まして、一言だけに告げた。


「私がやってきたことは、とても許されることではないと理解している。その上で科せられた罰は喜んで受けましょう。だから、アナタの恨みもこの身で償います。それでも今は、アナタたちの安全を何より優先するわ」


「ふざけるな! 今さらそんな世迷い言を――」


 人間は、そう安々と憎しみを捨てることはできない。二人の関係はまさにその典型と呼べるほど、重く、根深く、複雑に捻れ合っているのだ。恐らく、今のシキミを引かせられるのは自分しかいない。


 カシアはシキミの肩にそっと触れる。


「キミの気持ちはよく分かる。この話は時間をかけて解決していこう。慌てなくても、僕らにはいくらでも考える時間があるのだから」


 不機嫌そうにシキミが頬を膨らませると、大人しくカシアの言葉を聞き入れてくれた。


「……カシアだからよ」

「――ありがとう」


 カシアは万弁の笑みを見せる。



 しかし、これで終わりを迎えたわけではなかった――。

 今ここで二人はマツリカがやってきた本当の意味を知る。


《アーキタイプのDNA解析を完了。コード・ネメシス発令……管理下にある全ての試験対象を処分します。アポトーシス開始まで――カウント1000秒……999秒……》


 突然、周囲にあったスクリーンがグリーンからレッドに反転する。

 耳に響く警告音がホールに反響した。


「とうとう終焉が始まってしまったわ。カシア、私の頭に手を――」


 少し慌てたマツリカがあごを下げると、彼女の頭上に黄色い二重円のグラフィックが浮かび上がる。その円にはマツリカに関する様々な情報が開示されおり、中心に掌を模した線が現れた。

 すると一瞬、彼女はまるで翼がない天使のように見える。


「こ、これは……?」

「この身はまだメトセラの管理下にあるの。今のアナタならばその制約コードを上書きすることができる。そして、私がアナタの騎士エクエスになります。ヒマワリに乗り移っていたメトセラは、分身エイリアスを倒すためには……早く」


 まだ事情が飲み込めないカシアだったが、ここはマツリカを信じるしかないと思った。右手をかざして手形に合わせる。黒縁メガネに無数のプログラムコードが流れ、マツリカのデータを書き換えていく。


 ――その時だ。


 それと同時にメトセラのコアにあの仮面ペルソナが現れた。黒い球体の中心で光を放つコアに近づくと、仮面ペルソナからバイオナノファイバーが糸を引いて包み込んだ。

 途端、天井と床から無数の細いロボットアームが現れ、高速で人型の黒い外骨格を組み立てていく。血管代わりのチューブにバイオナノファイバーの血液が流れ、漆黒のカーボン装甲がはめ込まれる。

 その禍々しい容姿は触れただけで全てを切断してしまいそうなほど、鋭く、細く、華奢な女性のようにも見えた。


再起動リブート完了――》


 同じ電子音声が二つ重なり、マツリカとメトセラが同時に顔を上げる。カシアがメトセラの無機質で慈悲の欠片も感じられない白い仮面にゾッとすると、マツリカが一歩前に出てその殺気を遮った。


「――ありがとうカシア。アタナはヒマワリを連れて後ろへ、私がチャンスを作るからその隙にコアを破壊して頂戴」

「分かった。みんなを守ってくれ、マツリカ!」

「……イエス、マイ・マスター」


 そして、メトセラを警戒したシキミが疲労し切った顔でカグツチを抜こうすると、マツリカがその隣に立ってこう言う。


「アイリス、ヒマティオンが切れかかった状態で何ができるというの? まったく、手間のかかる子だわ……いいでしょう」


 少し嫌味を込めて愚痴を漏らすと、彼女は自分の指先を鋭利な氷のナイフで傷を付ける。その血が滴る指を真っ直ぐシキミに突き出した。


「早く胸を出しなさい」

「む、胸……?」


 突然の要求にシキミが恥ずかしそうに両手で豊満な胸を隠し、こっちに視線を送ってくる。


 いや、こちらを見られても困る……。


 カシアは顔を赤くしてそっぽを向いた。

 すると、マツリカがその意図を説明する。


「アナタのヒマティオンは電池切れの状態、つまり充電が必要なのよ。私の血はヒマティオンを生成に最適化された《極上のエサ》。これで再起動できるでしょう」


 マツリカの話に半信半疑だったシキミは、スクリーンに赤く表示された残り時間に目を遣り、短く答えた。


「いいわ。でも、こんなことで償いにはならないからね」

「――もちろんよ」


 提案を受け入れたシキミがマツリカの前に立つ。ボロボロに擦り切れたヒマティオンを両手で破り、大きな谷間をさらけ出した。胸元に刻まれた刻印に血が滲んだマツリカの指が押し当てられる……すると。


「う……くっ!」


 刻印から白い繊維が噴き出し、柔肌を縛るようにシキミの全身を覆っていく。再び彼女の髪は真っ白になり暗赤色の瞳が淡く光を放った。さらにはカグツチの柄や鞘まで白く染まっていた。


「こ、これは……」

「私の血で目覚めさせたから姿に戻っただけよ」


 そして、この世で絶対に怒らせたくない女性、上位三人の内の二人がメトセラに対峙する。マツリカがブリュンヒルデを顕現化させ柄で床を叩くと、メトセラの髪を模した黒いコードが逆立つようにうねり出した。


「アイリス、アナタは右。私は左へ」

「その名で呼ぶな!」

「フフ、仕掛けるわよ……」


 いがみ合いながら二人は反対方向に駆け出すと、メトセラの背後から黒く小さな正方体シーカーが大量に飛び立つ。一つ一つに赤いランプが点灯すると、辺り一面にレーザーを放った。シキミは縦横無尽に放出されるレーザーを前転しながら躱すと、カグツチを鞘に収めてエネルギーを圧縮する。


不知火しらぬい――!」


 鞘から解き放たれた刀身から火球の散弾が飛び出し、浮遊するシーカーを撃墜した。その隙に槍先を巨大な氷の大剣に変えたマツリカがメトセラにめがけて振り下ろす。メトセラは背骨しか無い腰をくねらせ素手で氷塊を受け止めると、白い仮面から口のようなレーザー発射口を露出させた。


「伏せなさい!」


 マツリカが叫ぶと、メトセラは口から高出力のレーザーを吐き出し、首を360度回転させる。そのまま右塔の壁を斜めに斬り裂くと、屋上部分が轟音を立てて滑り落ち、曇った空から一筋の光がホールに差し込んだ。


「きゃぁああああ~!」


 悲鳴を上げるヒマワリを抱きしめ、カシアは二人を見守る。


 一方、間髪入れずシキミとマツリカが体勢を立て直して同時に切り込むと、メトセラのひじから細く鋭いブレードが飛び出し、強烈な二つの斬撃を軽々と受け止めた。


「くっ、コイツ化け物か……!」

「セブンスでも容易ではないわ。相手がで済んだことに感謝なさい」


《残り、60秒……》


 二人が目を合わせると、無情にも残り時間があと僅かしかないことを告げる。カシアは焦り自分の胸ぐらを掴んで立ち上がった。ニ対一の壮絶な斬り合いが繰り広げられる中、カシアはヒマワリの耳元で囁く。


「僕が絶対に止めてみせる。ここで見守っていて」

「カシア、あんな危険な所に行くなんて……」

「――大丈夫」


 ヒマワリが心配そうにカシアの瞳を覗き込むと、ニッコリ笑顔を返して頭を撫でてやる。すると彼女の顔が綻び、頬に口づけをされた。


「信じてるわ、いってらっしゃい!」

「うん……!」


 カシアは振り返ると死闘を繰り広げる二人の元へ向かっていく。

 そして、堅守速攻が続く死闘の流れに異変が起きる。


 メトセラの髪のようなコードが一斉に動き出し、その先端が硬質なナイフに変化すると、それらが複雑に入り混じってシキミとマツリカに襲いかかった。


「くっ!」


 無数の斬撃を躱し切れなくなったシキミが一歩後ろに下がると、段差を踏み外し大きくバランスを崩してしまう。捌き損なった一刀が彼女の左目を抉ろうとした、その時――。


「……させない!」


 一筋の赤い線がコードを断ち切り、弾かれたナイフがシキミの頬を薄く切った。そのレーザー光は床に散らばっていたシーカーを再構成し、カシアが放ったものだった。シキミがこちらを見て頷く。

 シーカーが次々と飛び交うコードを切断していくと、無数に放った内の一撃が仮面ペルソナの左面を砕いた。


「今だ!」


 カシアの声と共に二人が会心の一撃を放つ。


「斬……鉄……!」「シグルドリーヴァ――!」


 紅蓮の炎撃とドライアイスの凍撃がメトセラの両腕を同時に斬り飛ばす。

 バイオナノファイバーの黒血が噴き出すと、マツリカが叫んだ。


「――カシア!」


 その声に呼応してカシアが思いっきり踏み出すと、スーツのおかげで体が恐ろしく軽く感じて一気にメトセラの面前に達する。慣れない体にカシアは大いに戸惑ったが、眼前の標的を見据え、拳を強く握り締めて仮面ペルソナを殴りつけた。

 白い破片が飛び散り、むき出しになったメトセラのコアを鷲掴みにする。


《残り、13秒……》


 刻々と迫る、タイムリミット――。


「間に合えぇえええええええっ!」


 指先に全身全霊の力を込める。光輝くコアにヒビが入り、擦れあった破片がか細い断末魔の声を上げ……粉々に砕け散った。カシアが握った一塊から小さな灯火が消える。


《残り、5秒……………………停止キャンセル


「と、止まった……」


 本当にギリギリだった。シキミが嬉しさのあまりカシアの頭を抱きかかえると、大きな谷間に挟まれて窒息しそうになる。でも、これ以上の幸せは他にはなかった。

 今度こそ、人は自分の意志で生きていくことを勝ち得たのだから。


 シキミの目許が緩む……。


「これで悪夢は終わったんだね」

「うん……もう僕らのような子供は二度と造られることはないさ。さぁ帰ろう、みんなの元へ――」


 だが……カシアがそう言い終えた瞬間、それは起きた。

 停止したはずの文字が激しく入れ替わり、新たな文字を浮かび上がらせた。


《メインプログラムの消失を確認……機密保持のため自爆シーケンス開始、残り――5秒》


「!」


 カシアは大きく目を見開く。


 この後、何が起きたかはハッキリと思い出せない。

 気が付いた時には、シキミに抱きかかえられて塔の外に飛び出していた。

 隣にはヒマワリを抱えたマツリカもいる。

 胸に埋もれた頭を曲げて後ろを振り向くと、その頭が強引に押し戻される。


「伏せてて!」

「く、苦しい……」


 カシアはわずかな隙間からジュークの最期を見届ける。最下層でオレンジの閃光と黒煙が四方へ爆ぜると、ほんの数秒で爆発が最上階まで連鎖する。左右の最上階が同時に爆発して干渉し合うと、衝撃波が四人に襲いかかった。気圧が急激に変化し鼓膜が悲鳴を上げる。


「うぁあああああああっ!」


 吹き飛ばされた体が宙を二転三転し、その間シキミはカシアをしっかりと抱きしめてくれた。空を振るわせていた音が鳴り止み、カシアは眼下に広がった情景を眺める。 

 自らの重さを支えきれなくなった虚塔が、爆発からほんの数秒で瓦礫の山と化し、爆散した残骸が廃墟や荒野に飛散していた。雲の隙間から陽が差し込み、頭上に眩しく降り注ぐと、カシアの胸に熱いものが込み上げた。


「これで僕らを縛るものは、何もなくなった。本当の自由を手に入れたんだね」


 ――しかし、彼女から返事が返ってこない。


「シキミ? どうしたんだい、黙りこんじゃって……ねぇ、顔を上げなよ」


 赤い雫が彼女の頬を伝わり、カシアの額に滴り落ちてくる。衝撃波を受けた時、飛び散った金属片がシキミの背中や側頭に突き刺さり、真っ白な髪を赤く染めていた。

 ダラリと重くのしかかった彼女の頭は、これまで抱えた何よりも重かった。


「そんな……これでやっと全てが元通りになるはずだったのにっ!」


 カシアは冷たくなるシキミの横顔を強く抱きしめる。

 そして、二人の体は地表に向けて徐々に落下していくと……微かな声が耳に届く。


《ブリュンヒルデ――》


 途端、カシアとシキミは球状の氷膜に覆われ、入れ子状に重なった薄氷がクッションになる。虹色に輝く球体が地面と接触すると、粉々になった氷が飛沫となって舞い散った。一瞬で氷が水へと戻り、四人は流れるようにして地表に転がり込んだ。




 ――しばらくしてまぶたを開くと、カミツレの声が耳に届く。


「……とうとうやりおったね」


 そこにはセージとヨモギの姿もあった。

 だが、カシアは誰にも顔向けできなかった……。

 シキミを抱きかかえて、小さく震えることしかできなかったのだ。


 何も知らないヒマワリが側に駆け寄ってきて、カシアの背中に飛び込む。


「無事で良かった! もうあんな無茶はしないでよ、生きた心地がしなかったんだから。シキミはどうしたの? さっきからちっとも喋らないじゃな…………えっ?」


 カシアの足元から大量の血が広がり大地を赤く染め上げる。

 青ざめたヒマワリは思わず後ずさりした。


「下がりなさい!」


 マツリカがシキミを抱き起こして頭の傷を見ると、かなりの深手であることがひと目で分かった。カシアは深刻な状況を目の当たりにして、吐き出そうとした言葉を飲み込む。彼女は無言でシキミの頭に手をやり傷口を凍結させた。


 その顔はいつもにも増して無表情だった。


 口にするのが恐ろしい……。

 でも、尋ねなければならない。

 カシアは震える膝を押さえてマツリカに問いかけた。


「……助かる……よね?」


 だがこんな時、彼女はいつも答えてはくれない。それがカシアを悲しませると知っているからだ。カシアは拳を握り締めて力無くうつむく。そこへ血相を変えたニゲラが駆けつけて、マツリカに息を荒らげて詰め寄った。


「おらぁ! どけどけぇい! 担架持ってきたぞ。お嬢は助かるんだよな? 答えろ!」


 マツリカはチラリとこちらに視線を送ると、言葉を選んでこう答えた。


「脳にまで傷が達しているけれど、シーヴァのメディカルセンターに運べば処置できるはずよ。でも、助かるかどうかは……」


 彼女の口ぶりでは助かる可能性はゼロに近かった。

 いや、それでもまだ希望は僅かに残されている。

 やれるだけのことはしよう、後悔だけはしたくない。


「できることは何でもする! 僕の体が必要になれば血でも肉でも使えばいい。シキミだけは、彼女だけは……死なせたくないんだ」


 これがカシアが口にした最後の言葉となった。

 マツリカが虚脱したカシアの肩に手を回すと、怯えた子供のように震わせていた手を握り、そっと胸元に寄せた。


「……分かったわ、できる限りのことをやりましょう」

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