エピローグ ―― 約束の丘
シキミがいなくなって、一年が過ぎた――。
わたしは、あの日の光景を今も忘れることができない。あれからカシアの落ち込みようは酷かった。一週間以上、水も食べ物も口にしないでただただ座り込み、少しも動こうとはしなかったから。声を掛けたかったけれど、その途端、砂となって崩れちゃいそうで……怖くてわたしにはできなかった。
後で館長から聞いた話では、ヒマティオンがなかったらカシアはあのまま衰弱死したらしい。それを知って、わたしは言いようのない敗北感に打ちのめされたけれど、それ以上に強い使命感が胸の内から溢れ出てきた。
シキミがいない今、彼を支えてあげることが出来るのはわたしにしかいない。
今できることを精一杯やろう。そう思い立ったわたしはシーヴァ郊外に広がる広大な田園を引き継いで、カシアのために野菜を育てることにしたのだ。
「うわっ。ヒマワリ姉ちゃん、また虫が付いるよ。ていっ」
「コラっ! ダメでしょうが、逃がしてあげなさい」
わたしは、苗に引っ付いた虫を無下にする少年を叱った。
彼はわたしと同じシーヴァ籍の箱庭出身者で、現在10歳。
身寄りがないため、うちの農園で預かっている子供たちの一人だ。
「大地から恵んでもらった物なんだから、少しは自然に戻してあげなさい。独り占めしたら、いつかそのツケが自分に返ってくるわよ」
「……はーい、相変わらずおっかないなぁ」
わたしは首まで短くした髪を耳にかけて、背伸びをしながら周囲を見回す。
シーヴァはすっかり自給自足という、昔ながらの生活に帰化してしまい、森林だった場所は開墾されて木造の住宅が次々と数を増やしていた。
さらに最近では、遠くにある箱庭の人達とも交流が始まり、シーヴァは人の往来がますます盛んになっているのだ。
そして……懐かしい声がわたしの背中を叩く。
「ヒマワリさ~ん」
「あら、ヨモギじゃないの。久しぶり、随分と髪が伸びたわね。アキヴァルハラに開店したレストランがすごい人気だって聞いたけど」
ヨモギは照れくさそうに、胸元まで伸びた栗毛を指に絡める。
「ヒマワリさんだって、髪を短くしてもやっぱり可愛いですよ! お店の方は大繁盛で大忙しです。さすがセージさん、やっぱりデキる男は違いますよね。でも……色恋については、わたしの胸がまだ足りなくて……」
「あの馬鹿、まだそんなことにこだわってんの? 今度会ったら私からガツンといってやるわよ」
「いえいえ、わたしの努力が足りないだけなんです。最近、そのことをセージさんに相談したんですが……どうやら《豊胸》っていう禁断の秘術があるそうで。それを使えば、思いのままの胸を手に入れることができるんですっ!」
何とも情けない話を聞かされて、わたしの腸わたは煮えくり返った。
「あ~のダメ人間めぇえええ……。幼気な少女に何てこと吹き込んでんのよ! 尻に焼きゴテ入れて性根を叩き直してやるわっ!」
「お、落ち着いて下さい……」
慌てふためくヨモギを目にすると、鎌を振り回していた自分に気付いて我に返る。
今ここで怒っても彼女を動揺させるだけだし、今度アキヴァルハラに出向いた時、ヤツには男に生まれたことを後悔させてやろう。
と、わたしは割りと本気で心の隅に留めた。
「それにしてもヒマワリさん。すっかりその格好、板についちゃいましたね」
ヨモギが楽しそうに私の格好を見回すものだから、つい自分でも見返してしまった。長靴に紺色のドワローズ、動きやすい綿のシャツと大きめの軍手。それに大きな麦わら帽子と……愛用になった赤いメガネ。これはもうトレードマークみたいなものだ。
「自分の農園を切り盛りしちゃってるし、デキる女って感じがします。わたしもヒマワリさんみたいな、素敵な女性になりたいなぁ」
「ヨモギはいい子だし、私の次に素敵な女の子だと保証してあげるわ」
「エヘヘ、その言葉に負けないよう日々努力しまっす!」
そう言って彼女は無邪気な笑顔で敬礼するものだから、わたしの心は和まされる。
どうして、こんな子がセージなんかに……そこだけは残念でならない。
するとその時――わたしは大切な用事を思い出した。
「そうだヨモギ。アナタ、まだ時間ある?」
「はい、今日はこちらに泊まっていくつもりです。ここにもライバルのお店が増えてきたので、偵察しておきたいですし」
「なるほどね。じゃあ一つお願いしよう」
「なんなりと」
わたしはヨモギを連れて畑を出ると、木造造りの倉庫が並ぶ砂利道に停めていた黒い機体を呼び寄せた。
「おいで~、エスペランサー」
声に反応して機体を浮き上がせたエスペランサーが、懐いた子犬みたいにわたしの前までやってくる。実に賢い子だ。
この子は一年前の戦争でニゲラたちが回収したのだけれど、シキミ以外に乗り手が見つからず、私が引き取ることにした。最初は物騒な武器が沢山取り付けられていたけど、そうした類のモノは全て取っ払った。
そして、今では野菜を運ぶ運搬車として第二の人生を送っているのだ。
そのエスペランサーが木箱を満載してわたしの手前で停車すると、果物が山盛りになった箱を一つ抱え降ろす。
「よいしょっと」
「わぁ、これは見事な赤色ですねぇ!」
「今日収穫したばかりの林檎よ。これを二つ、丘にいるカシアに届けてほしいの。ニゲラはあそこに行くの、嫌がってるから……」
「任せて下さい! それにしても兄さん。あれからシキミさんのことが吹っ切れたみたいで、今度はヒマワリさんに付きまとっちゃってますが……何かあったら、いつでも言ってくださいね。畑の肥やしにしてやりますから!」
わたしは苦笑いする。
「あはは……大丈夫。彼、ヘタレだからそんな勇気はないわよ」
「そこもですねぇ……。セージさんを見習って早く男になってもらいたいものです。あ、でもそれだとヒマワリさんに迷惑が……」
「いいのいいの。人には自分で乗り越えなきゃいけないことがあるんだから。アイツもその内、自分の殻を破れる時がきっとくるよ。私は好みじゃないけどね」
「あはは、ですよねぇ~」
――それはわたし自身に向けての言葉でもある。
その後も、あれやこれやと久しぶりに同世代の友達と会話を楽み、わたしはすっかり満足した。あの日……わたしはカシアと同様、世界に絶望していた。でも、ヨモギみたいな子が近くにいたおかげで随分と救われた。
そういう意味でもヨモギはわたしの大切な親友なのだ。
「それじゃ、その林檎。まかせたわよ」
「は~い、今度は一緒にショッピングへ行きましょう~っ」
「うん、またね!」
* * *
シキミさんがいなくなって、一年が過ぎちゃいました――。
時が経つのは早いものです。わたしは、あの日の光景を今も忘れることができません。
セージさんと二人で発見した列車砲こと、九ちゃん。あれだけ時間と労力だけを浪費したけど役に立たてず、みんなから鉄クズと呼ばれて散々罵られてしまいました。
わたしはあのまま残してあげたかったのですが、街の代表者が集まって相談した結果、解体して部品をリサイクルするという判決が下されちゃいました。
可哀想な九ちゃん……。
そこで、わたしのセージさんが我先に名乗り出て――。
『このドでけぇ筒は俺がもらい受ける! 発見した俺にも、もらう権利があるはずだぜ。筒はコイツの魂だ、誰にも譲る気はなねぇ!』
と……格好良く言い放ち、筒を引き取ることになりました。
男気溢れるあの姿は、今もわたしの胸に焼き付いてます。
むしろ、一生消えることはありません。
ああ、セージさん。アナタはどうしてセージさんなのですか?
ムフフフ……思い出したら、ヨダレが垂れちゃいました。
それから大きな筒がどうなったかというと、こうです。セージさんとわたしが始めたお店、《レストラン・キョニューパフパフ》の厨房に設置され、今は煙突として第二の人生を歩んでいます。
そして、今日のわたしはいつもの野菜を買い付けに、シーヴァで農園を営んでいるヒマワリさんの所へやってきたわけですが、ここもすっかり変わっちゃいましたね。
シーヴァを覆っていた巨大なドームや外壁は解体されて廃材となり、あらゆる物へと姿を変え、わたしたちの生活の中で息づいています。
ヒマワリさんにお使いを頼まれたわたしは今、その所々歯抜けになった外壁を抜けて、街外れにある《約束の丘》と呼ばれた小さな丘へ向かっているのですが……。
――あ、第一村人……ではなく、探し人を発見しました。
「カシアさ~ん、お久しぶりでーす!」
彼は丘の上で静かに本を読んでいました。あの日以来、すっかり髪が白くなってしまって元に戻らないそうなのですが、わたしは神秘的でちょっと憧れちゃいます。
それに何時からか身に付けてる黒縁メガネもお似合いで、ますます知的度が増しています。ヒマワリさんも赤いのをかけてますし、もしかしたら空前のメガネブームが到来するかもしれませんね。
「やぁ、久しぶり。セージは元気にしてるかい?」
「はいっ! たまには遊びに来いってボヤいてましたよ。家にいらっしゃった時は、わたしも腕をふるっておもてなしさせていただきます」
「うん、楽しみにしておくよ」
どこか乾いた笑顔でした。暗赤色の瞳が鈍く光を反射していて……。
果たして、わたしはその瞳にちゃんと映ってるのかと少し心配になります。
「今日はどうしたの?」
「はい、ヒマワリさんに野菜を分けていただこうと思って。でも、すごいですよね。女手一つであんな大きな農園を切り盛りしちゃって、わたしもあんな素敵な女性に成れたらいいなと……」
「大丈夫。ヨモギは十分、魅力的だよ」
「あはは……ヒマワリさんにも、さっき同じこと言われたんですけどね。わたしにはその自信がありません」
少し気落ちして自分の胸を眺めました。
はぁ……悩ましい。
いつの日かきっとあの人がわたしを認めてくれた時がやってきたら、お二人の言葉を素直に受け入れられるだろう。
わたしはそう胸の奥で小さく呟きました。
* * *
シキミがいなくなって、一年が過ぎ去った――。
僕は、あの日の光景を今も忘れることができない。シキミがシーヴァのメディカルセンターへ運ばれた後、僕は隣の一室でひたすら祈り続けていた。それと同時に神という存在を呪っていた。ようやく引き合えた彼女とこうも無残な別れ方をさせるなんて……と。
それから僕は食べ物が喉を通らなくなってしまい、どんどん衰弱していった。
僕に残っていたのは、絶望の二文字だけ。
そして、声さえ失っていた。
そんな時だ――。
僕に生きる気力を取り戻させてくれたのは、マツリカだった。
彼女はやせ細った僕を抱きしめてこう言った。
「たしかにあの子は、アナタの光だったかもしれない。でもカシア、アナタを光と思っている者がいることも忘れないで。私はあの子が疎ましかった。私がアナタにしてあげられないことを、あの子だけができたのだから。それでも今はこう思う。あの子がいたから、アナタは輝くことができた。あの子がいなくなれば、私の希望もまた失われる、と」
淡々と語ってくれたマツリカだったが、彼女も僕と同じく、失うという恐怖に怯えているのだと知った。あれほど冷静で気高かったマツリカが、手を震わせていたのだから。
それに気付いた時、僕は思った。
――生きなければ、と。
その後、彼女とはしばらく会ってはいない。
マツリカは館長と一緒にこれまで犠牲になった試験体……彼女らにとっては《子供たち》なのだが、亡骸を埋葬するためにユメシマへと旅立っていた。数千、数万もある死体の山。一度だけ館長の記憶を覗き見たことがあったけれど、今にして思えば、右手に埋め込まれていたヒマティオンが、彼女の記憶に干渉したのだろう。
そんなことに思い馳せていると、ヨモギが肩掛けの鞄から何か白い布を取り出し、顔の前で広げて見せた。
「ヒマワリさんから預かってきました。採れたてだそうですよ~」
白いハンカチに包んでいたのは、赤い林檎。
蜜入りなのか、甘くよく熟した香りが風に乗って辺りへ広がっていく。
「これは美味しそうだ」
「ヒマワリさんが作る野菜や果物、うちのお店でもすごく評判がいいですから」
「そうだね」
彼女はもう僕の知識でも敵わないほど、上手に野菜を育てられるようになっていた。エデンで初めて二人でこなしたクエスト。それが今の彼女に繋がっているのだ。
そんな昔を思い返し、僕は喉を鳴らして林檎に手を伸ばそうとした。
――その時だった。
「カ~シ~アっ!」
突然、弾力のある大きなおっぱいに横顔を突き飛ばされた。
「ブヘェ!」
「ごめん……大丈夫?」
「へ、平気だよ」
痛がる僕を申し訳なさそうに見ているのは、真っ白な長い髪に暗赤色の瞳を持った、笑顔が似合う女の子だった。
「シキミ……いえ、アイリスちゃん。お久しぶりですねぇ、おねーさんのこと覚えてますかぁ?」
「まぁ~たシキミって言ったぁ! 違うもん、わたしの名前はア・イ・リ・スだよ~! それとおねーさんの名前は、ヨモギおねーさんです」
「はーい、良くできました。よい子にはご褒美をあげましょうか」
彼女はスラリと整った鼻をクンクンとさせる。
「やっぱりこの匂い。ヒマワリおねーちゃんが作ったのでしょ?」
「アイリスちゃんは物知りだねぇ、関心しちゃいます」
「えっへん!」
ヨモギから林檎を手渡されたアイリスが嬉しそうに僕の膝に座り込むと、ラベンダーの香りが鼻先を掠めた。
それはいつも僕を懐かしさで満たしてくれる。
「はむぅっ」
口を大きく開けてひと噛じり、綺麗な歯型が付く。
「ねぇねぇ、カシアは食べないの?」
「僕も食べるよ」
ハンカチに残ったもう一つの林檎に手を伸ばすと、その手をアイリスに叩かれた。
「アイテっ」
「ダーメ、カシアはこっちを食べるの。あれはヨモギおねーちゃんのだよ」
「いいんですよ、アイリスちゃん。これはお二人にって、ヒマワリおねーさんから預かってきたものだから」
「そんなのダメダメ。わたしはカシアと半分こするの~っ!」
そう、ダダをこねている彼女こそ今のシキミだ。
あの日から半年、昏睡状態から覚醒めたシキミは過去10年間の記憶を丸々失っていた。ティオダークスを率いて戦ったことも、マツリカへの憎しみも、全て消えてしまったのだ。今の彼女は、箱庭で僕と二人っきりで暮らしていた頃のアイリスだ。
大きな瞳をぱちくりとさせて、アイリスが僕の顔をジッと見つめている。
「どうしたの、元気ないよぉ?」
「何でもない。ちょっと考え事をしてただけさ」
「じゃあ、はい! わたしが食べさせてあげるね」
アイリスが僕の腰に右手を回し、左手に握った林檎を口元に近づけると、テカテカに磨かれた皮に自分の顔が映り込む。
その瞬間――かつてシキミと過ごした日々が僕の脳裏に鮮明に蘇ってきた。
すっかり忘れていた、あの夢の記憶だ……。
「キミはこうやって僕に《赤い果実》を食べさせてくれた。あの時のキミは、今もキミの中に残ってるんだね……」
僕の目元から熱いものが溢れてきて止めようとしたけど、止めどなく溢れてくる。
おかしいな、こんなつもりじゃなかったのに……。
「ごめんなさい……わたし、カシアを泣かせちゃった?」
「違うよ、これは嬉し泣き。嬉しい時にも涙が出るんだよ」
「なーんだ、心配しちゃった」
白い靭やかな指に握られた林檎に、一口、僕は大きく齧り付いた。
そこに形の違う二つの歯型が残る。
アイリスはそれを気に入ったのか、声を弾ませてこう言った。
「大好き、カシア。ずっと一緒にいようね……」
僕の首元に頭を寄せて、彼女が大きなまつ毛を伏せる。
疲れてしまったのか、満面の笑みを浮かべて寝息を立て始めた。
とても小さく、じつに幸せそうな寝息だ。
すると、笑顔を分けてもらったようにヨモギも頬を緩める。
「寝ちゃいましたねぇ、幸せそうな顔しちゃって」
「そうだね……」
そして最後に、僕はアイリスの耳許に近づいてこう
「――約束するよ、もう二度とキミを放さないから」
終わり
エデンの箱庭で 誠澄セイル @minus_ion
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