第四十二幕 ―― 神の虚塔
――あれから、どのくらい眠っていたのだろうか?
カシアが重い
湾曲したオレンジ色の世界……。
ここはだだっ広いホールのようで左右に壁一面のガラス窓がある。そこから差し込む光で電子機器や配線のシルエットが浮かび上がり、何かの実験室みたいに思えた。
体の動きが鈍い。深く呼吸しようと肺を膨らませたが、空気が入ってこなくて慌てて喉を押さえる。いや、その必要はなかった。特殊な溶液が肺に直接酸素を送っているらしく、溺れることはなかったからだ。
そして、カシアは自分が何かの溶液で満たされた、大きな円柱状のガラス容器に入れられているのだと知った。
小さな泡が上へ登っていくのが目に映ると、聞き慣れたしとやかな声に話しかけられる。
「おはよう、カシア」
『マ……ツリ……カ……』
声は出ず、言葉が頭の中で反響する。両手を持ち上げて眼前の容器に掌を押し付けると、白いドレスを纏ったマツリカがうっとりとした表情でガラス越しに手を合わせてきた。
「今、出してあげるわ」
《イグジット――》
空気が大きな泡となり、ガラス容器の中へ大量に送り込まれる。それと同時に容器内の液体が外に排水され、急激に自分の重さを感じた。ガラス容器全体が上に持ち上がると、外気が入ってカシアは前のめりに倒れ込む。雪のように白い腕がその体を受け止めた。
「ゴボ、ゲホゲホ……」
「これでアナタの調整は終わったわ」
溶液を吐き出してマツリカの肩にアゴをのせると、彼女は耳許でそう囁き、真っ白な布をカシアの肩に羽織らされた。まだ上手く働かない頭で自分の格好を見回すと、何も身に付けていないことに気付いた。
「な、何で裸なのっ!」
「シ――……」
マツリカが口に指を立てたので思わず言葉を飲み込む。彼女は布を拾い上げてカシアの体の隅々まで丁寧に拭いてくれる。どういう状況か理解できず大いに戸惑ったが、その言葉だけは自然に出てきた。
「あ、ありがとう」
彼女は無言の笑みで答える。
ああ、そうか……。
少しずつ、気を失う前の記憶が蘇ってくる。
ヒマワリ救出作戦を逆手に取られ、待ち構えていたマツリカに拉致されてしまったのだ。それにあの後、どうなってしまったのだろう。シキミは無事なのだろうか?
酷い傷を負って横たわっていた。その先は……思い出せない。
――彼女に会いたい。
そう胸が悲鳴を上げた時、ふとカシアは自分の視野に違和感を覚えた。
何かの数字が網膜に映り込み、それが刻々と変化している。マツリカの面貌を見ると、彼女の頭上にIDナンバーと名前が表示されていた。それだけではない。眼球に映り込んだ全てのモノがデータベースとリンクしていて、ありとあらゆる情報が脳内に飛び込んできたのだ。
馴れない感覚にカシアは頭痛とめまいを引き起こす。
「痛っ!」
「最適化は終わっているから、しばらくすれば自然と馴染んでくるはずよ。もう少し我慢しなさい」
「マツリカ、僕に何をしたのさ?」
即答で返事が返ってくる。
「特に何も……」
「?」
「では、分からないでしょうね。いいわ、教えてあげる。アナタは自分が人と違うと感じたことはない?」
……何を言いたいのだろう?
カシアが首をかしげると、マツリカは口元を大きく吊り上げて言葉を続けた。
「こう言えばいいかしら――直観像記憶と」
カシアはハッとする。
直感増記憶、それは生まれ持った才能のはずだ。
けれど、彼女の口ぶりではそれは間違った認識のようだった。
これは後から植え付けられた能力だったのか?
狼狽するカシアに、マツリカは少しずつ真実を紐解いていく。
「実はアナタの中にもあるのよ、ヒマティオンが。必要な日が来るまで機能を凍結しておいたのに、自力で解いてしまったけれど」
マツリカはそれを怒ることなくカシアの手を引くと、胸元に頭を引き寄せてギュっと抱きしめた。身も心も、心地の良い温かさに包まれる。
けれど、カシアは彼女の両肩を押した。
「僕はキミのものにはならない。それに野蛮な力なんて僕には必要ないよ」
拒絶されてマツリカが急に表情を曇らせる。
「悲しいことを言わないで……全てはアナタを想って始めたことなのよ。5年前のあの日、アイリスがアナタに《赤い果実》を食べさせてしまってから、全てが狂ったの。カシア、アナタはあの日アイリスと一緒に廃棄されるはずだった。でも私は決断したわ、アナタを守り通すと。人工子宮でアナタの成長を見守り続けたあの日々も、アーキタイプに選ばれた日のことも……全て無かったことにはできないのだから」
それが全て本心であることが伝わってくる。
彼女が抱いていた感情、今は廃れてしまった母性、そのものだった。
何という皮肉なのか――人が人を産むことを禁じたこの時代。人工的に造り出されたバイオノイドが、人への愛に目醒めてシステムに反逆する。
以前、カミツレが言っていた《似たもの同士》という本当の意味を、カシアはようやく理解した。
そして、マツリカは言葉を重ねる。
「でも、いくら隠蔽しようともいずれはメトセラに知れてしまう。ならばどうするか? 私は考え、思い付いたわ。ロストナンバーと呼ばれたある特殊なヒマティオンをアナタに移植することを」
手の甲を指で突かれると急に熱くなり、あの刻印が淡く浮かび上がる。そこから湧き出た黒いバイオナノファイバーが、カシアの全身を包み込んだ。体内物質を大量に失った反動で虚脱感に襲われ、カシアの黒髪が一気に白くなった。
「ハァハァ……シキミはいつもこんなのに耐えてたのか」
それについてマツリカは何も答えず、本来の話を続ける。
「テラフォーミング――こんな言葉を知っているかしら?」
「たしか大昔……星の海を渡る船があった時代に、別の星を人が住める環境に創り変えた技術のことだよね?」
「ご名答……」
彼女は嬉しそうに笑う。
「この星も旧人類が死滅して以降、再び緑あふれる星に戻れたのはその技術のおかげ。さらに根幹にあるのは、全ての生命に組み込まれているナノマシンよ」
それは以前、カミツレから聞いた話でもあるので理解できた。
カシアが軽く頷くと、マツリカは語り続ける。
「そして、アナタに埋め込んだのはコードネーム《イリテュム》(虚飾)。
カシアは驚愕した。
つまり、自分の意志次第で簡単にこの世界を滅ぼせてしまうということだった。
そんな恐ろしいモノが今、自分の体内にある……。
顔が青ざめ身を震わせるとマツリカの目許が緩んだ。
「安心して。アナタが強引に覚醒させて破損した箇所は、私のヒマティオンを使って修復したわ」
マツリカが髪を持ち上げ首元の刻印を見せる。
前はコインほどの大きさだったが、今はその半分になっていた。
「でも、それじゃキミ自身の力や寿命も縮めることに……」
「構わない。私自身はシステムに組み込まれていてメトセラを破壊することはできないし、私の代わりもすでに在るのだから――」
彼女の悲しげな表情をカシアは複雑な心境で見つめる。
彼女は賢いけれど、未だに気付いていないのだ。
彼女もカシアにとって大切な家族の一員であることを。
すると、マツリカが色白い手を差し伸べる。
「こちらへいらっしゃい」
彼女の手に引かれて、カシアはさっきまで入っていた不気味な装置から出る。いくつかの段差を降りて、後ろを振り返るとそこに巨大な黒いボックスが鎮座していた。面と面の継ぎ目から赤く禍々しい光が線を引き、正面にあった大ぶり光学レンズがカシアの面を写し込んでいた。
薄暗いホールをぎこちなく歩く。足元にはシステムに繋がる赤や青のコードが乱雑に延びている。床は鈍色のタイルと一部ステンレス製の金網が敷かれ、網目からメトセラを構築する膨大な電子機器が見え隠れしていた。
二人は部屋の隅まで歩み続け、巨大なガラス窓の前で立ち止まる。
そこから一望した眺めは、まるで天界にいる気分だった。
「すごい、地上の全てが見渡せそうだ」
「ここはジュークの最上階。本来ならアーキタイプしか入ることが許されない、選定の間よ」
塔の外観は幾何学模様を模した角ばった造りをしていて、対面には鏡を写したような全く同じ造りの塔が鎮座している。さらに塔を囲む堅牢な防護外壁が、外との繋がりを完全に遮断していた。
スケールの大きさに圧倒されてカシアが息を呑むと、
「カシア、向こうに見える廃墟をよくご覧なさい。今のアナタなら見えるはずよ」
彼女に言われた通り、指し示された方角に目を凝らす。
瞳に映ったのは瓦解したビル群、焼け野原と化した市街地、その先には広大な荒野が広がっていた。荒廃したビル群の中では動く人影があり、その周囲を無数のマーキナーが取り囲んでいた。
立ち上る爆煙――。
「ティオダークスのみんなと、マーキナーの軍隊だ。まさかあれって……」
「この世界で行われる最初の戦争。いえ、最後の――と言ったほうが正しいかしら? それを決めるのは、アナタ次第なのだけれど」
「早くやめさせなきゃっ!」
マツリカは首を横に振った。
「よく考えて……目を背けずによく見ておきなさい、あれが人の本質。人間は誰かに管理されなければすぐに争いを始める、とても弱く愚かな生き物よ。アナタは彼らを好いているかもしれないけど、負の因子を抱えた彼らはいつか必ず滅びるわ。でも、アナタの意志を尊重して選択させてあげる……選びなさい」
「選ぶ……?」
カシアが首をかしげると、マツリカは辛辣な表情を浮かべた。
「これから先の未来を全てアナタに委ねます。どうするかは自分で考えなさい。アナタがメトセラに命じれば世界は一度リセットされ、アナタとヒマワリを頂点とした新たな
彼女は少し間を置く。
「アナタの力でメトセラを破壊すれば、現存する人間を救うこともできるわ。それにアナタ達が復興できるようシーヴァも無傷で残してきたのだから。ただし……それなりの覚悟はしておきなさい。自由を手にした後、人間は爆発的にその数を増やしていくことでしょう。つまり、それだけ争いの火種が増えるということ。再び、世界の終末が訪れるかもしれない、いいえ、きっとそうなるわ。今、僅かな血を流して禍根を断ち切るのか。それとも未来永劫、争い続けるのか……」
すると、マツリカの身に付けていたドレスを首筋の刻印が吸収し、白いバイオナノファイバーのスーツへ置き替わる。続けて、ホール中央にあった黒いボックスが床に格納され、中から《巨大な黒い鉄球》が姿を現した。
「あれが
彼女が正面の強化ガラスを拳で叩き割る。
外気が吹き込んで髪を押さえると、暗赤色の瞳がじっとこちらを見入る。
カシアは立ち去ろうとするマツリカを呼び止めた。
「待って、マツリカ! キミだって本当は……四人で暮らしたあの日々に戻りたいでしょう? 今からだってやり直せるさ。ヒマワリも、セージも……そして、シキミだってきっと……!」
無言がしばらく続き、彼女の口元が微かに緩む。
マツリカはカシアに最後の言葉を告げた。
「そうね、それも良かったかもしれない。でもダメね。アナタはきっとあの娘のことを忘れられないでしょう。いずれは私の手から離れていくわ。それに……彼女をはじめ、多くの人間が私を憎悪し、殺すことを望んでいることでしょう。それを受け入れる覚悟もできているし、肉を切り刻まれてもかまわない。私は、私が信じた未来のために、最後までここを守り抜くわ――さようなら、カシア」
「待って、マツリカ!」
カシアの叫びはマツリカに届かなかった。
風でなびいた銀髪がマツリカの口元に掛かる。
彼女は最後に今まで見せたこともないとびきりの笑みをカシアに贈り、最上階から外へと飛び降りていった。
マトリカリア――彼女のことを思い返す。
何故、最後の最後で選択肢を与えてくれたのか?
彼女の中で何か葛藤があったのは確かだと思う。
だが、二つの未来を託されてカシアは思い悩む。
いつもの自分なら迷うこと無く後者を選んでいただろう。
けれど、最後に見た彼女の笑顔を忘れることができなかった。
彼女はヒマワリに全てを託して、自分は死ぬつもりでいるのだから。
どうする、どうしたらいいのだろう?
結局、誰かを切り捨てることしかできないのか? カシアは頭を抱えその場に座り込むと、孤独で体を震わせ……口を
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