第三十六幕 ―― 常闇

 緑の天幕がどこまでも続く仄暗い密林の中――。

 垂直に降り注ぐ日差しが枝や葉の隙間を縫って、カシア達の頭上に光の斑点をこしらえる。それに加えて、でこぼことした歩きづらい岩肌、肌にまとわりつく淀んだ湿気が体力を奪い、泥混じりの汗が目に入る度に何度もシャツの裾で拭った。木の枝を踏みしめてようやく辿り着いたのは、木の根や苔に埋もれた小さな遺跡だった。

 崩れかけた石窟のアーチには地下へ通じる穴がぽっかりと口を開いており、そこに書かれた文字はまだ読み取ることができた。


 半蔵門線――大手町駅。

 それが朽ちた穴の名前だった。


 穴の入り口付近は土砂が流れ込んで階段が急な斜面になっている。

 カシアはニゲラの張ったザイルを伝い穴の底へ降りていくと、そこには茫漠ぼうばくとした空間がどこまでも続いて、マグライトでは先が見通せないほど広がっていた。

 注意深く周囲を照らすと、古えの地下道は思っていた以上に原形を留めているようで、天井には割れた蛍光灯や剥がれ落ちた配線、通路には太い円柱が無数に連なっている。他には改札機と呼ばれる機械の残骸が役目を終えて、墓標のように立ち並んでいた。


 そして、シキミ、セージ、ニゲラ……ヨモギの五人は数世紀という途方もない時に埋もれた闇の世界へ畏怖を抱く。


「本当にこんな薄気味悪い洞穴が箱庭まで繋がってんのかよ……?」

「黙って歩きなさい、ニゲラ」

「てか、やっぱり五人っていくら何でも少なくねぇか?」

「わたしはセージさんさえいれば、十分なんです――ポッ」

「へ、変な虫とかいないよね……よね?」

「カシア、怖かったら私手を繋いでもいいのよ?」

「あっ……てめぇ~、お嬢から離れやがれっ!」


 けれど……こんないつもと変わらぬ会話が唯一互いの不安を和らげるのであった。


 それに今回は四人でシーヴァに潜入する計画だったが、ヨモギがセージの後を追って勝手にこんな所まで着いて来てしまった。ニゲラが無理に追い返そうとしたが、ヨモギは『セージさんと心中してやるう~!』と叫び、手にした手榴弾のセーフティーピンを抜くものだから、大人しくしていることを条件に仕方なく同行させることになった。


 この日、カシアはというと服装はいつもと変わりなかったが、持ち歩いているモノは大きく違った。肩に斜めがけしたザイル、腰に下げた手榴弾、それと太ももに装着したホルスターには、ワルサーP99と刻まれた短銃が差し込んである。

 逆にシキミは普段と打って変わり、動きやすいようにヨモギと同じサロペットを着用していた。普段は見ることができない可愛いらしい装いに、カシアとニゲラは鼻の下を伸ばして揺れ動くお尻を目で追っていた。


 

 残された標識や文字を頼りに進むと、一行は地下の一番深いところに辿り着く。

 がらんとした長細い通路。左右は深く広めの溝があり、その先には大きな穴がどこまでも続いている。カシアは目を凝らして行き先を示した道しるべを探した。


「二つあるけど、どっちの穴だろう……」

「アレじゃないですかぁ?」


 ふと、ヨモギが指差した先に目を遣ると色褪せたタイルの壁があり、そこに薄すらと文字が書いてある。カシアは手持ちの地図で地名を確認しようとした。


「セージ、ライト照らしてくれる?」

「おうよ」

「大手町、神保町……それにあの矢印。シーヴァがあるって場所はあっちみたいだね」

「おい。当てになんのか、その地図?」


 文字が読めないニゲラが怪訝な面で言い放つと、


「ギアが壊れて前進しかできないお前の脳みそに比べれば、遥かに役立つ」

「それに加えてブレーキも壊れてますよ、シキミさん」


 シキミとヨモギに軽蔑した眼差しで嘲笑された。


「ち、ちくしょう……」


 そう、ニゲラは盗掘の一件以来――可笑しな性癖があると疑われており、女性達から冷ややかな目で見られ続けていたのだ。本当はノーマルで健全な男子であったが、下手に助力すれば己の尊厳も危ぶまれるため、カシアを含め盗掘した仲間全員が我が身可愛さに素知らぬ顔を決め込んでいた。


 それはさておき、行き先が判明して渋谷方面にマグライトを照らし、全員が勢いよくホームから線路に飛び降りる。ただ、カシアだけは距離感が掴めず砂利に足を取られると、着地に失敗して尻餅を突いた。歪な石が尻の肉に食い込む。


「イタタタ……」

「大丈夫、カシア? 怪我はしなかった?」

「こ、これくらい平気さ」

「ケッ」

「さぁ、張り切って行きましょお~!」


 五人は敷かれたレールを辿り、地獄まで繋がっていそうな、暗い、暗い地下道を歩き始める。と、たまに天井から落ちる雫の音がうら寂しく反響して、不気味さを一層際立たせた。

 そのまま一時間ほど歩き続けて三つほど駅を通過した頃、永田町駅と書かれたホームまで辿り着く。どこも似たような造りなので迷宮のように思えたが、地図は残り二駅分も歩けば渋谷に到着すると告げていた。


 すると、ここ最近ずっと元気のないセージがこんなことを言い始める。


「なぁ、ここいらで休憩しようぜ」

「そんな暇はない。少しでも先へ進むぞ」


 だが、シキミの瞳はシーヴァが近づくほど鋭くなっていて、その殺気が見て取れるほどこちらに伝わってくる。こういう時のシキミはあまり刺激しない方がいいと、カシアは心得ている。

 しかし、セージだけは脂汗を流して何度も休憩しようと食い下がった。


 その理由はこうだ。


「そのう……何だ。こんな時に悪いけどよう。ちょっと済ませてきたいんだ……」

「どうしたんだい? そんなに歩きづらそうにして」

「小便だよ、小便! 女の前で言わせるな!」


 珍しく口籠もるセージを目にして、この男でも恥ずかしいことがあるのだなと軽く吹いてしまった。それに途中で漏らされても困るので、さすがのシキミも小用を許可した。けれど、歩みを止めてくれるわけではない。


「先に進んでいるから、済ませたら走って追いつきなさい」

「面目ねぇ、それじゃあサクッとピュッと済ませてくるぜ!」


 くだらないことを言って、セージが良さげな場所を探してよたよたと歩くと、その後ろ姿を執拗にマグライトで照らす者がいた。男の小用に興味津々のヨモギはセージを追い回す。


「セージさん、わたしもお供しますっ!」

「だーかーら、俺は恥を忍んでわざわざ……って、付いてくんなっ!」


 相変わらず残念な二人だった。


 彼のことをすっかり気に入っていたヨモギは、ここ最近ずっとセージの傍を片時も離れようとしなかった。男にとって女性に好意を持たれるのは喜ばしいことだけれど、さすがに連れションを所望する女の子はドン引きだった。


「馬鹿は馬鹿を呼ぶんだ。さっさと急ごうぜ」

「うん、そうだね」


 三人はセージとヨモギを残して先へと進む。ひと駅分進んだところで冷たかった空気が次第に暖かくなり、風の流れが肌で感じられるようになってきた。そろそろ出口が近いのかもしれない。この薄気味悪い地下道ともおさらばだ、カシアがそう予見した時だった。


 不意に微かな震度を感じると、頭上にパラパラと砂や小石が降り注いだ。


「地震かな?」

「何か聞こえる。反響して場所は分からないけど……待って」


 シキミが足元に伸びたレールに耳を当てる。震える空気が緊張となって肌に伝わり、見えない恐怖がカシアをより一層不安にさせた。

 そんな時、ふと記憶の糸が繋がってあることが脳裏に浮かぶ。


 もちろん、あのお伽話のことだ。


「こんな場所に人なんていないよね、これってまさかヤマテノ……」

「ば、馬鹿いうんじゃねぇよ。そんなもん実在するはずが――」


 さすがのニゲラも肌にビリビリと伝わってくる重圧にすっかり自信を失い、手にしたマグライトを小刻みに震わせていた。唸り声がさらに大きくなって、足元に散らばった小石が激しく音を立て始める。


「やばいよ、早く逃げよう」

「逃げるったって、どこから来てるか分からねぇんだぞ!」

「シッ、来るぞ――後ろだ!」


 シキミが声を上げた次の瞬間、歩いて来た方角から強烈な二つの光が差し込んだ。

 それはあまりの眩しすぎた。一瞬、目くらましにあったように視界が真っ白に塗り潰される。カシアが腕で光を遮ると隣で身構えたシキミが叫んだ。


「走れ! 次の駅まで走るんだ!」

「うわっ」


 しかし、足がすくんだカシアはその場で動けなくなり、迫り来る光に意識が吸い込まれそうになる。その時、シキミの白くしなやかな指がカシアの右腕を掴んで、強引に引き寄せた。

 後ろで轟音が響くと怪物はさらに速度を増して、視界に捉えられるほどの距離まで差し迫った。その勢いは人の足で到底逃げ切れるものではない。


「ちょっと手荒くなるよ、私にしがみついて!」


 シキミがそう口にした途端、彼女の髪が白銀に変わり瞳が暗赤色の輝きを放つ。胸元から黒い繊維が湧き出ると、一瞬で指先まで漆黒が包み込んだ。

 カシアの腰を左腕で抱き抱え、シキミは凄まじい脚力で砂利を後ろに蹴り飛ばす。前方で息切れするニゲラを見つけると、彼女は右手で彼の襟元を掴んでさらにスピードを加速させた。風になるとは、まさにこのことだったかもしれない。


 だが、隣ではそんな快い風に悲鳴を上げる者もいる。


「髪が、俺の髪が~!」


 風圧で自慢のヘアスタイルが乱れ、血相を変えたニゲラが必死にヘアブラシで前髪をかき上げていた。だが、はっきり言ってどうでもいいことだった。

 突風で女子がスカートを押さえる姿は魅力的だけれど、強面の男が恥ずかしげに前髪を押さえる姿なんて、誰が得するというのか。彼を放っておいてカシアが後ろを振り返ると、突き放したと思っていた謎の怪物はさらに距離を縮めて間近に迫っていた。


「見えた!」


 視線の先に開けた空間が現れ、シキミの赤い眼光が線を引く。彼女はニゲラをホームに放り投げて湾曲した地下道の壁を蹴り登ると、すぐ真下を怪物が走り抜ける。コンクリートの天井に銀髪がわずかに触れると、彼女は背面跳びで反対側にあったホームへカシアを抱えたまま落下した。

 その際、カシアは彼女の谷間に顔を落として大きく胸をたゆませる。怪物が唸りを上げて先に続く穴へ突入すると、圧縮された空気が一気にこちらへ吹きつける。けたたましい音が次第に鳴り止むと再び周囲に静寂が訪れた。


「……何だったんだ、ありゃ?」


 まさに間一髪、九死に一生だった。

 ともに命拾いしたニゲラは前髪に櫛を突き刺したまま、肩は小刻みに震わしていた。カシアはまだ頬に残る胸の感触が忘れられず、恥ずかしげに横たわったシキミに手を差し伸べると、起き上がった彼女の髪からタイルの破片がサラリと滑り落ちた。


「カシア、怪我はしなかった?」

「うん、シキミののおかげで……とても、ありがとうございました」


 いろいろな感謝の意味を込めて頭を下げる。

 そしてもう一つ、カシアには言うべきことがあった。


「ヤマテノオロチの正体……あれは箱庭に物資を輸送する貨物車両だったんだね。まさか、こんな大昔の地下道を利用してたなんてビックリだよ」

「なるほど、この地下道は網目の如く地中に張り巡らされている。箱庭同士で物資を融通し合っていたということね」


 察しが早いシキミはアゴに手を当てて頷く。

 しかし、カシアは彼女の銀髪を眺めていると、《無理に力を使わせるな》というカミツレの言葉を思い出した。こんなハプニングが起きる度、シキミの力に頼るわけにはいかない。カシアはもっと慎重に行動しなければと、気を引き締め直した。


「そんな顔しないで、私は平気だから」

「ごめんよ……」


 不安げなカシアを気遣って、シキミがそっと頬を撫でてくれる。そのままシキミはくるりと背を向けると髪色が次第に元の紫黒色に戻り、バイオナノファイバーの繊維が剥がれ落ちて素肌を露出させた。


「うわ、ちょっとシキミっ!」


 慌てたカシアとニゲラは互いに腕をクロスさせ、互いの顔を手で覆う。指の隙間からシキミの流麗なシルエットを覗き見ると、彼女はそれを気にする様子もなく、淡々とした口調で、ニゲラが担いできたバッグから見覚えのある白い服を取り出した。


「シーヴァはこの上だ。お前達も早く着替えておけ」

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