第七章 ―― 男の料理
すっかり陽が西へ沈み、住宅街のあちこちで暖かな明かりがぽつぽつと灯り始めた頃。カシアは長年の疑念に一歩近づけたという嬉しさを一旦胸の中にしまい、いつものようにマツリカと一緒に帰宅する……と、相変わらずあの二人が口喧嘩を始めていた。
それにしても今日はいつにも増して激しくやり合っている。
今度は何に揉めたか事情を聞いてみると、どうやらことの発端はヒマワリが夕食にケチをつけたのがことの発端らしい。それで腹を立てたセージが食の素晴らしさについて無駄なウンチクをたれるという、よくあるパターンだ。
「だーかーら、これは歴とした食いもんだって言ってるだろう?」
「嘘よ、嘘! そんなおぞましい臭いと見てくれの食べ物なんて、この世に存在するはずないわっ!」
こういう時には関わらないに限るのだがそうも言っていられない。
カシアは気は進まないながらも、物争いの訳をセージに尋ねた。
「まぁまぁ、落ち着いて。何があったんだい?」
「コレだよ、コレ」
「くっさ!」
「馬鹿野郎! これはだな……」
鼻先に突き出された人の頭ほどある、瓶から腐臭とも似つかない異臭が顔に纏わりついた。腕で顔を覆うと、次の瞬間。
「――アナタが馬鹿野郎よ」
純白のロングスカートがふわりと舞い、鼻をつまんだマツリカがセージの手にした瓶底に膝蹴りを入れた。宙を舞った瓶がセージの頭へと落下すると、彼はこぼれ落ちた内容物で足を滑らせてその場で派手に転倒した。受け身も取れず背中からだ。
「イッテテテ……」
「哀れね」
マツリカの悲しげな瞳に茶色いペースト状の物体に埋もれた、不憫な男が映り込む。その有様を目にしたヒマワリが口に手を当てセージを指差すと……、
「うわっ! やっぱりこれって、ウン……」
「待て待て、皆まで言うなっ!」
たしかにヒマワリの表現は的を射ていた、が女の子が口に出すのははばかられる。
カシアは続けて叫ぼうとするヒマワリの口を両手で塞ぐ。
一方、打った腰を押さえながら立ち上がったセージは決め顔で掌を突き出し、真面目な顔でヒマワリの言いかけた言葉を訂正した。
「こいつはウン……じゃねぇ、味噌だ」
リビングを包む――静寂。
「どうでもいいのだけど、ソレ、早く片付けなさい」
「ハイ、すんません」
マツリカに叱られてセージはぶちまけた味噌を素手でかき集める。
それは見た目だけでも拒絶反応が出てしまう上、色も酷い。
食欲をそぐのに十分なインパクトだった。
そして、モップ掛けを終えると諦めきれないセージは三人を集めて、もう一度、味噌がいかに素晴らしいかを説き始める。もちろん誰一人そんなことは望んではいなかった。
この情熱をもっと他のことに使えばいいものを。
と、カシアは心の中で呟いたが、すでにセージの料理ショーは始まってしまった。
カウンターキッチンの下から再び味噌の入った瓶が出てくる。
「はい、ここにでき合いのものがございます」
「アンタ……一体、何個作ってんのよ」
「まぁ聞けって。コイツは大昔、《トーヨー》って地域で作られていた調味料だ。野菜に付けても良し、お湯に溶いてスープにして良し。良し良しづくしの万能ソースなんだぜ?」
再び静まりかえるキッチン。
誰かが適当にあしらってくれると期待してカシアは何も言わなかったが、どうやら彼女たちも同じことを考えていたようでさらに気まずい空気が続く。
カシアは仕方なく一言だけ発した。
「で?」
「よくぞ聞いてくれましたっ! ここでさらに俺が丹精込めて漬け込んだコイツを……」
馬鹿なのか?
それとも空気が読めないだけなのか?
セージの口はさらに熱を振るい始め、ドンっともう一つ置いた瓶の封を解いて木蓋を外す。
すると、もう一人困った子がまたもや――。
「うわ……こっちは白っぽくて、消化不良みたいな色してる」
「生々しい表現をするんじゃない! これから食うんだぞっ!」
今のは、聞かなかったことにしておこう。
カシアはマツリカと顔を見合わせて眉をひそめる。
どうしても三人を唸らせたいセージは半場やけくそになって瓶に腕を突っ込み、底の方まで掘り返した。耐え切れなくなったヒマワリが腕にしがみ付いてくる。
「ヤダ、もう見てられない……」
そして、ようやくセージは何かを掘り当てたようでそれを勢いよく引き抜いた。
「ホイ出た~!」
「……きゅうり?」
ヒマワリが目を丸くしてのぞき込む。
「そう、これは漬け物っていう立派な保存食だ。味がしっかり染みてて旨いんだぜぇ~」
セージは嬉しげに掘り出したきゅうりを軽く水で洗うと、まな板に寝かせてリズムに乗って包丁の刃を立てた。
「ワンッ、トゥッ、スリーッ………………フォー!」
「どうして最後の一切りためらったのよ?」
「お、おう……」
ギクリとしたセージが恐る恐るマツリカに目を配る。
氷のような冷ややかな眼差しでセージをにらみ続けていた。
が、への字に曲がった口が元に戻り意外にも潔癖なマツリカは折れた。
「もういいわ、みんなで食べましょう」
「マ……マツリカっ!」
よほどの哀れさが彼女の同情を誘ったのだろう。いつもなら蔑んだ眼差しと言葉でセージの自尊心をえぐり出し、それをヒールで踏みつけて一生残る心に傷を植え付けていたところだ。
方や、セージは嬉しさのあまり男泣きしていた。
大の男が鼻水まで垂らしてだ。
普段、彼がどれほど虐げられているかを知っているカシアは心の中で目一杯の拍手を送った。
鼻を拭い落ち着きを取り戻したセージが均等にスライスしたきゅうりを配り、それぞれが手に取って口の中に放り込む――その評価は?
「あら?」「……うまっ!」「んふっ……おいしい!」
目から鱗、どころか目玉まで落ちた気分だった。カシア、ヒマワリ、マツリカの三人は口を揃えて思わず吐露した――デリシャスと!
程よい塩味と凝縮されたきゅうりの旨味が口中に広がっていく。
「ほうら、ちーっとは俺を信用しろよな。他にもあるぞぉ、人参、大根、キャベツに、何でもござれだ!」
「もっと、もっと!」
ヒマワリが飛び跳ねてもっとよこせと催促する。
今度は大根とさっきの味噌を小皿に添えて差し出され、セージに進められるがまま軽く味噌を乗せてもう一度口にする、と……興奮気味のヒマワリがさらに声を上げた。
「むふぅうううっ! 何でもっと早く出さなかったのよ!」
「それがさっきまで汚物扱いしてたヤツの言葉かぁ~? まぁいい、随分と前振りが長くなっちまったが、今夜のテーマは《和食》だぜっ!」
ダイニングテーブルに掛けてあった白い布が取り払われると普段と違う料理が顔を覗かせた。魚の切り身、ジャガイモと肉の煮物、大豆から成形した白い立方体、雑穀を混ぜて炊いたものなど初めて目にする料理がぎっしりと並んでいた。
「わぁ、すっご~い~!」
「凝ってるなぁ」
「ナマモノもあるから、さっさと喰っちまおうぜ」
ひまわりはダイニングテーブルの周囲をウサギが跳ぶように駆け回ると、いつもの定位置にちょこんと腰を落とす。カシアはそんな彼女の様子を小さくほくそ笑んだ。
「さぁて、食欲も戻ってきたことだし、どれから頂こうかなぁ。ん? あれ、ない……?」
そう、いつも使い慣れたスプーンとフォークがどこにも見当たらなかった。
カシアが皿を持ち上げてテーブルの上をくまなく目を走らせていると、何かが食器を叩く音がした。
「コイツを使うんだよ。箸ってんだ」
セージが木製の串を指で挟むとぎこちなく魚の切り身を掴んだ。
なるほど、と要領を理解したカシアも見よう見真似でそれに続く。
しかし、橋を向けた白くて柔らかい正方形の物体は摘めば摘もうとするほどどんどんと形が崩れてしまい、カシアはイライラを募らせた。
「これ、使いにくくない?」
「そうだな、ちょっとコツがいるよな……」
――お前もかと、心の中でツッコミを入れる。
セージと目が合ってお互い苦笑いしていると、
「少し肩の力を抜きなさい、そうすればすぐに馴れるわ」
四人の中でマツリカだけが箸を巧みに使いこなし、物静かに味噌のスープをすすっていた。彼女に苦手なモノがあるならばぜひお目にかかりたいものだと感心する。
そう思案しながらカシアはチラっと隣に視線を移すと、そこにいたもう一人のお姫様は――。
「もう、何よこれ! こっちの方が早いわ!」
グーに握った箸を思い切り皿に振り下ろして、ジャガイモの山にザクリと突き立てた。刺さったイモの塊を落とさないよう小さな口に寄せると、ムシャムシャと小動物みたいに齧り付く。
「おいひぃ~」
ヒマワリは頬を赤く火照らせて満面の笑みを浮かべる。
それはそれで可愛らしいかったのだが、カシアは自分のパートナーとしてもう少し慎ましさを身に付けてほしいと頭を横に振った。
しかし、まだ一口も食べられていないカシアも負けてはいられない。
白い物体に格闘を挑み、グチャグチャになりはしたがどうとか少量を箸に乗せて素早く口に放り込んだ。
「う、薄い……」
あんなに苦労したのに想像していた味とは違っていた。
甘みも苦味もなくとても淡白な味わいだった。
「おっと忘れてた。こいつをかけてみろ、醤油ってんだ」
「う、うん」
カシアは怪訝な顔で黒い液体が詰まった瓶を受け取り、それを数滴垂らして白い塊をもう一度口へ運ぶ。
と……まるで魔法をかけたように味が化けた。
「んっ、うまい! うまいよ、こんなの初めてだ!」
「そうだろ、そうだろう。俺が長年費やした努力と研究の成果がやっと……」
鼻をすすったセージの目尻に光るものが溜まった。
さっきまでただの馬鹿だなんて思っていたが、カシアは改めて彼のことを見直す。
人間、何か一つ取り柄があるものなのだと。
感謝を込めてセージに右手を伸ばすと、彼は鼻水を拭った方の手でカシアが出した掌をガッチリと握った。
すると、セージの隣でマツリカが言葉を漏らした。
「怒ったり、笑ったり、泣き出したり、全く騒々しいわ。もう少し落ち着いて食事ができないのかしら? あ、そっちの鬱陶しい男のことだから。あ、カシアのことじゃなくってよ」
「はい……すんません」
マツリカに叱られてセージがしおらしくなると、カシアはふと我に戻ってこびり付いたセージの鼻水をお手拭きで拭う。その後も会話が弾んでいつもの団欒にもどり、テーブルにあった料理を四人であっという間に平らげた。
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