第2話 茜天の龍
それは五年前の夏至のことだった。
遠見の郷では、一年で最も昼の長い一日を、神が天より下り地上の災いを祓い清めていく特別な日として、毎年祭祀を執り行っていた。彼らは、まだ夜の明けぬうちから、郷から少し離れた所にある、果て見の頂と呼ばれる高みへ登った。
そこでまず、昇る陽に祈りを捧げ、神への感謝を示す祝詞を奉った。それから、遠見という、神からの授かり物を与えられた者たちが、一人ずつ順に喜びと感謝を申し述べる祝詞を唱えていく。その祝詞の奏上は、夏至の太陽が山の向こうに消えるまで、延々と続けられるのだ。
その特別な日は又、遠見の者たちが、それぞれの子供が遠見としていかほどの能力を有しているのか、頂に登らせて見極める『試し』を行う日でもあった。美玻はその年、ちょうど十になったばかりで、初めてその祭祀に参列することを許された。その年は美玻の他にも、数人の子供が祭祀への参列が許されていた。
父に手を引かれ、急な山道を草木を掻き分けながら登って行った先で美玻が目にしたのは、遠く霞が掛かるほどに彼方まで拓けた、これまでに見たことも無いような美しい眺望だった。
――世界はこんなにも広いものなのか。
四方を山に囲まれた小さな集落の中しか知らなかった少女の胸は、その大きな感動に踊った。
ところで、遠見の素養を見る試しとは、前もって遠くの村々に送っている郷人が、そこで掲げる色旗を、どこまで見分けられるかというものだった。
その日の試しで、一番遠方の村まで見分けられたのは、美玻ただ一人で、流石に族長の血筋は他の追随を許さぬ素晴らしいものであると、周囲の大人たちから口々に称賛された。
自分も遠見として、いずれ父のように比奈の役に立てるのだと、その時は、そんな証を貰えたような気して大きな嬉しさが込み上げた。そして、高揚していく気分に酔ったように、ただ幸せな気持ちで空を仰いでいた。
やがて訪れた夕暮れ。彼方の山に陽の帯びが差しかかり、その輝きは静かに弱くなって行く。天を朱に染めながら、背後から迫る濃紺の帳から逃れる様に、稜線を黒く浮き上がらせ始めた山の向こう側へ、太陽はするりと滑り込んだ。そこから朱色の空は、急速に濃さを増して茜の色へと移りゆく。その美しさに見入っていた美玻は、その茜の空に金色の帯のようなものが光ったのに気づいた。
――何だろう。
そう思って目を凝らした刹那、美玻の眼を強烈な反射が刺した。自分でも何が何だか分からないままに全身の力が抜けて、そこに倒れ込む。
「どうしたっ?」
父の声にそう問われて、体が抱き起こされたのが分かった。だが、目の前には白い光が明滅するばかりで、何も見ることが出来ない。
「お前……何を見た」
そう問われた父の声は、怖い程に低く響いた。
――見た?
そう言えば、光が目に入る前に見えたもの。
あれはそう……
「……蛇みたいな生き物……でも角が生えてて……」
多分、周囲に集まっているのだろう人々の間に、一瞬ざわめきが広がって消えた。
――ああ、そうだ。それから、きらきらと光る真紅の眼がこちらを見ていた。
その真紅の色が、本当に宝玉の様にきらきらとあまりに綺麗だったから、つい見入ってしまったのだ。この世のものとも思えないその美しさに、自分はどうしても目を反らすことが出来なかった。
「……まさか……お前の目はそんな果てまでも……」
――果て?
「美玻……お前が見たのは、龍だ」
「……龍……?」
――あれが、龍。
郷では先祖からの戒めによって、その畏れ多い姿を直に見ることは、神に対する不敬であり冒涜とされていた。その姿を見た者は神によって祟られ、天罰が与えられる、と。そう言い伝えられていた。郷に伝わる戒めが頭を過り、血の気が引いた。気が遠くなる。
「……とんでもないことをしてくれた」
父の苦渋に満ちた呟きを聞きながら、美玻の意識はそれきり遠退いた。
その日から、美玻は祟り者として龍神を祀る社に封じられることになった。神の裁きを待つ間、郷の他の者に災厄を広げぬようにと、そこから出ることを禁じられたのである。
社の世話をする婆の他は、誰とも話す事もない。
そんな生活が五年ほど続いたある日、お前は龍神様に生贄として捧げられることになったと、婆は言った。そして夏至の陽が昇る前の晩に、美玻は捧げの祠に運ばれて封じ込められたのだった。
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