第23話 瑕疵(かし)のない玉を愛でる

「何やら、そこの茂みに、金色に光る獣の双眸が見えるようですが……この香ばしい匂いに引き寄せられましたかね」

 スズリの言葉に、沖斗と美玻がそちらを見ると、成程、茂みの間に獣の目が浮いて見える。

「……あいつ、まだいやがったのか」

「よもやとは思いますが、餌付けなどしていないでしょうね?」

「え、まさか、ねぇ?沖斗」

「お、おう。まさかだぜ」

「……ならば、隙を付かれ、魚の一匹でもくすねられましたか」

「どうしてそれを……」

 思わず答えてしまった沖斗に、スズリが失笑する。

「お二人とも、挙動が不審でしたので」

「情けない。猫ごときに、獲物を掠め取られるとはな」

 洸由が大げさにため息を吐く。

「……それで、いま少し分け前を寄越せという所なんでしょうかね、あれは」

 スズリが、横目に猫を観察しながら言う。

「冗談じゃないぞ」

「いずれにしろ、我々の側にいれば、美味しいものにありつけると、あれはそう認識したのでしょう」

「……ごめんなさい。私がうっかりしていたからですよね」

「まあ、別にそう凶暴なものでもないようですし、さほど問題はないと思いますが……」

「……本当に?」

「ええ、心配しなくても大丈夫でしょう」

 美玻がほっとした表情になる。

 そんな様子を見ていて、沖斗は複雑な表情を浮かべた。


 大丈夫だと、美玻にそう言ってやれる余裕が自分にはない。スズリは旅の経験も豊富だし、何でも良く知っているし、何より自分よりずっと大人だ。それは単に年齢の差というだけでなく、それ以上に、これまでの人生で蓄積された経験に大きな差があるのだ。そのことを思わずにはいられない……


「成程、大丈夫、大丈夫と、そうやって女を手懐けていくのだな、そなたは」

 洸由にからかうような口調で言われ、スズリが笑いながら顔を顰める。

「これは、人の悪い言い様ですね」

「いや、単純にそなたの人誑ひとたらしの才に興味があってな。跳ね返りと悪名高い、我が妹を手懐けた手管など見事なものだと、常々感心して見ていた」

「波紅様を手懐けるなどと、畏れ多い」

「無礼講だ、本当のところを申して構わぬぞ」

「私は、ただ誠心誠意お仕え申し上げていただけです。それに、本当に懐かれていたのでしたら、このようなことにはなりませんでしょうに……」

 スズリが口元を僅かに歪め、包帯を巻いた手を示す。

「それは、されるだけのことを、そなたがしでかしたから、ではないのか……」

「……だから、そこが未だに良く分からない。これは、自分のものだという印なのだと、そう言われましたが……」

「……あの……波紅様は、スズリのことが好きだったから……スズリがご自分の元から離れていくのが、お寂しかったのではないでしょうか……だから、いつでも思い出して貰えるようにと、ご自分の印を……」

「好き……?波紅が、この男のことを?」

 美玻の意見に、洸由が思い切り意外だという顔をした。

「え……いえ……そうなのかなって、単純に思っただけなんですけど……」

「まあ、あの性格では、素直に惚れているのだとは、認めそうにはないが。そうか、好きか。……それ程に惚れられている気分はどうだ?色男どの?心当たりはあるのであろう?惚れられるだけのことは、したのであろうからな。もう抱いたのか?」

 ここまで来ると、洸由はもう完全に興味本位で訊いている。

「あの、ですねぇ……一介の絵師ごときが、一国の姫様に手を出したりしたら、命に係わることになるんですよ?……私はそんな愚かな真似はいたしません。第一、いっつも側に侍女が控えている状態で、何がどうなるとそういうことになる訳ですか」

 もの凄く真剣な顔をして反論したスズリに、洸由が苦笑する。その様子に、スズリがからかわれたのだと気づき、憮然とした顔になった。

「好きは好きなのだろうよ。あれは、美しいモノを事更に好んで、集めまくっていたからな」

「モノ……ですか」


『これはあなたが、間違いなくこの私のモノである証』


 包帯の下、梔子くちなしの花を象った波紅の印に、それを刻まれた時の言葉をその痛みと共に思い出す。


「波紅は、遠からず十季トキへ輿入れになるだろう。父上には、あれの浪費癖によって、十季トキのくにの財政を傾けさせるお積りらしい」

 冗談めかして洸由が言う。


『これはあなたが、必ずこの場所に戻ってくるという証』


「……知っていて」

 輿入れの話が本当なら、スズリが城に戻る頃には、波紅はもうそこにはいないということになる。梔子の花の持つ純白の気高さと、人を惹きつける濃密な香りは、間違いなく波紅を思い起こさせる。そして、今更ながら、彼女が自分に対して誠実であったのだと気づく。スズリの描く絵に感動し、それを純粋に愛した。


『自分が見たこともない世界の風景を、こんな風に見ることが出来る。それがどれ程素晴らしいことか、あなたには分かる?』


 初めてスズリの絵を見た時に、波紅は瞳をきらきらとさせながら言った。その顔を、今更ながら思い出した。自分はそんな人間に対し、口先では誠心誠意と言いながら、不誠実に対していた。それを、見透かされていたのかも知れない。


――これは、その戒めか。


 彼女の信頼を……心を裏切ったことへの、戒め。

 自らの所業に、そんな風に、正面から否と言われたことはなかった。それは、波紅以外、スズリに対して、そこまで真摯には向き合っていなかったということになるのだろう。


――波紅様だけが……気づかれた。


 美しいものに殊更執着するという波紅は、スズリが心に秘めている、美しくない部分に気づき、それを戒めたのか。完璧に美しくあれと。そんなものは幻想の中にしか存在しないことは、彼女も承知していて尚、それでも敢えて、スズリの心に爪を立てて見せた。その傷によって、スズリに何らかの変化が訪れることを望んだのか。


――美しいものは、美しいままにあらねばならぬ、と。そう申されるのか。


 そこまで買い被られていたのかと思うと、自嘲せざるを得ない。自分はそこまで立派な人間ではない。ただ、そこまで気合いを入れて思いを込められたのだと思えば、心のどこかは確実に痛んだ。その辺りは、波紅の思惑通りという訳か。


「……話を戻すが、この娘は波紅ほど頑丈ではないのだからな。無暗に弄ぶような真似はしてくれるなよ」

 不意に自分の話になって、美玻が驚いた顔をする。

「それこそ、杞憂でしょうよ」

 洸由の言葉を、スズリがすかさず笑って返したので、それは冗談だったのだと知り、ほっと肩を落とした。そして、この一件で、案外、洸由にも本心を冗談で誤魔化すような所があるのだと知った。スズリも、美玻に対しては、からかい口調が多い……気がする。真面目な沖斗は、冗談などはほとんど言わないが、こちらは得てして口数が少ない。


――嫌だわ……まともな会話の出来る人が、一人もいないじゃないの……


 そうなってしまう原因が、自分にあるのだということには、まだ気づいていない美玻だった。

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