第8章 姿絵
第57話 龍の郷
今日も美玻は、桃の大樹へ登っているのか。
そんなことを思いながら、紅澪が郷の入り口にそびえる桃の木の所へやって来て、その梢を見上げると、太い枝の上、いつもの場所に美玻は立ち、その目はやはり地上を見下ろしていた。
美玻が龍の郷に来てから、そろそろ一年が経とうとしていた。
いつの頃からか、美玻はここへ来て、地上を見ていることが多くなった。紅澪は軽く地面を蹴り、美玻のいる枝へと飛びあがった。
「下が恋しい……?」
そう声を掛けると、美玻が穏やかに笑って首を振った。
「……ただね、ほら……ああやって、あちこちから黒い煙が上がってくるでしょう?それが、ちっとも収まらないなあって。そう思って。ただ見ているだけで、あたしにはどうしようもないのに、どうしても気になって」
紅澪が目を落とすと、成程、地上から幾本も黒い筋が立ち上っているのが見えた。
鴻の皇帝の崩御がきっかけとなって、下では、各地で戦が始まった。鴻の新たな皇帝に、かつて程の力が無いと見て取った周辺の国が、新たな秩序の元で、自分たちの勢力を少しでも大きくしようと躍起になっているのだ。落ち着くには、恐らくもう少し掛かる。
「……僕はさ、そんな余計なものまで目にしてがっかりさせる為に、美玻の目を治した訳じゃないんだけどなぁ……」
紅澪が零すと、美玻が慌てて補足する。
「え……ああ、大丈夫、そんなにがっかりばかりしている訳でもないのよ。ここからは、綺麗なものも沢山見えるし……」
美玻の目が、無意識に何かを探すように、地上をぐるり一巡した。
そんな美玻を見詰める紅澪の瞳に、せつない色が浮かぶ。
――何か。それが、何であるのか、彼女自身、自覚はしていないのだ。
美玻の瞳はいつも、スズリの姿を探している。
紅澪には分かる。だって、紅澪自身がそうだからだ。
自分はいつだって、美玻の姿を探しているから。
「あの、さ、美玻。……ごめん」
「……?なあに、いきなり」
「うん……その。怒らないで聞いて欲しいんだけど……前に、美玻がそこにいるから、周りの人が災厄に巻き込まれる、みたいなこと言ったじゃん?」
「え……」
「あれ、嘘だからっ」
「ん?」
「酷いこと言って、ホントごめん。そこまで言わないと、美玻はきっとここには来てくれないって思って、だから……」
紅澪がそこまで言うと、美玻がくすりと笑みを零した。
「やだ、紅澪。あたしに、そんな酷いこと言ったの?」
「へ?……覚えてないの?」
「というか……スズリを助けられるなら、どんな条件だって、飲むつもりだったから、あの時、ただ言われるままに、うんうんと頷いた覚えならあるわ……何だ。ここに来てから、紅澪が何となく遠慮がちだったのは、そんな負い目があったからなのね」
――……そればっかりでもないけど。
「で?心配事がなくなったら、今度こそ、心置きなく、あたしを食べることができる?」
「だから、僕は、美玻を食べるのは……」
「だって、あたしを食べなきゃ、紅澪はいつまでも龍の体を取り戻せないんでしょう?そんなことで良いの?」
「美玻……」
「遠慮しなくていいのよ。あなたが龍の体を失ったのは、間違いなく、あたしがあなたにガン付けたせいなんですもの」
「美玻、君は……何も分かってないよ」
紅澪が怒ったように言って、木の上から飛び降りた。
「ちょっと、紅……」
紅澪の名を呼び掛けた声は、その半ばで悲鳴に変わった。足を踏み外して、美玻が落ちて来る。紅澪は慌てて腕を広げると、彼女の小柄な体を抱き止めた。
「ご、ごめんなさい……」
「本当に……」
「え?」
「食べてもいいの?」
言われて見た紅澪の目は、紅玉のように輝いて、それはどこか人外の気配を漂わせていた。
その瞳に捕らえられたら、目を反らせない。子供の時に感じたのと同じ畏怖が、ただ美玻を頷かせた。
「……んじゃ、遠慮なく、頂きます」
宣言するようにそう言って、紅澪が、美玻に顔を寄せる。
「目を閉じて……」
言われるままに、美玻は目を閉じた。
視界を遮られた途端に、間近に感じる紅澪の息遣いに、思わず身を固くする。――と、
ふわりと、柔らかい感触が、唇に下りた。
「……え?」
思わず目を開けた時には、紅澪はもう、美玻をそこに立たせていた。
「覚えてる?前に、猫の格好をしていた時にさ、僕、食べられそうになって、それを美玻が助けてくれたじゃない?」
「ああ……そんなこともあったかしら」
「命の恩人は、流石に食べられないというか……」
「そう……なの……?」
美玻がきょとんとした顔をする。そんな美玻の様子に、紅澪は少し困ったような顔で笑った。
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