第58話 そんな君が好きだから

 言うなればこの娘は、自分の人生というものをあの男の命と引き換えにしてしまったが為に、そこにもう何の希望も持っていないのだ。もっと言うなら、持ってはいけないと思っている。その思いこみのせいで、少しずつ心が無に浸食され始めているというのに、そのことに気づきもしないのだ。


――ここの空気は、人には薄すぎるんだよ。


 無二の友に言われた言葉が身に染みた。

 好きだから大事にしまって置きたかった。ただ傍にいて、その顔を見ていられるだけで良かった。だけど、鳥籠に入れてしまった時から、彼女は緩やかな死を迎えるためだけに生きる、そんな存在になってしまった。どんなに言葉を尽くしても、自分の言葉は――心は、今の彼女には届かない。


――そんな風だから。


「本当は、好きだから食べられないんだけどな」

「もう、また冗談ばっかり」

 ほおら、ね。ちっとも本気になんかしない。


――っくしょう……これ、気持ちの行き場、完璧に失われてるっていうか~~


 正直、スズリのことで心が一杯の美玻を食べても、自分には苦いだけ。そう思えば、やにわに決心というものが着いた。

「ま、いっか、別に。もう少しぐらい」

「え?」

 龍の体に戻れなくても。

 人間の一生なんて、自分たちにしてみれば、ほんの一時のことなのだから。


――僕なら待てる。ていうか、そんだけ惚れぬいてる訳だから、さ。



『また、会いに行くから』

 不意に紅澪の声が、遠くに聞こえた。

『気が向いたら、また、ね……』

「紅澪……?」

 美玻の周りに霧が巻いて、視界が白一色になる。

 驚いて瞬きをした時にはもう、目の前に見覚えのある眺望の広がる頂に佇んでいた。



「遠見の頂……あたし、戻って来たの?」

 見上げた空は、深い青色を帯びていた。そこにはただ、白い雲が流れ行くばかりで、龍の気配などどこにもなかった。

 辺りを見回して、美玻はすぐに見え方が前と違うことに気づいた。玻璃を必要とする程ではないが、遠見ほどには見えない。多分、これが普通の人間の見え方なのだろう。



「そこにおるのは、何者か?」

 美玻が感慨にふけりながら、懐かしい景色を眺めていると、いきなり背後から誰何を受けた。

「こんな所で何をしている」

 見れば、十人ほどの兵士が、槍を構えてこちらを見ていた。


――何で、こんな辺鄙な所に、こんな人たちがいるのよ。


 地上では、頻発する戦のせいで、村が焼かれたり略奪を受けたりということがあちこちで起こっていると紅澪は言っていた。この兵士達も、そんな目的でうろついているのだろうか。美玻は警戒心を抱く。


――それにしたって、こんな山の中で一体何を……


 そこへ、凛とした女性の声が聞こえた。

「槍を収めなさい」

 その声のままに、兵士達は槍を下げると、素早く左右に分かれて跪いた。

「波紅様……」

 そこに立っていたのは、比奈の王女、波紅だった。美玻は慌ててその場に跪いて頭を垂れる。

「何かと思えば……遠見の娘ではないの。龍の谷で神隠しにあったのだと聞いていたけれど、この様な場所で会おうとは。全く面妖なことだわ……ああ、構わないから、顔を上げなさい」

「……はい」

 美玻はおずおずと顔を上げて、波紅を見上げた。


 元々妖艶な雰囲気のあった波紅であったが、その美しさには更に磨きが掛かり、同じ女である美玻でさえも、見とれてしまう程だ。

 促されて、恐縮しながら傍の岩に並んで座ると、すぐ横で波紅の声が言う。

「懐かしいわね……思えば、お前が城に参ってから、色々なことが変わり始めた。そんな気がするわ」

 それは、美玻が災厄を持ちこんだということなのだろうか。美玻は身を固くする。

 紅澪は違うと言ってくれたが、自分に関わった人たちに、災いが降りかかった。そんな思いは、まだ美玻の中に燻っていた。だが、美玻が思う程、波紅はそんなことは気にもしていないという様に、話はそこから離れていく。

「ここは、比奈の国が一番美しく見える場所なのだと、そう聞いたものだから、故郷の見納めにと、そう思ってわざわざ来てみたのよ」

「……見納め……?」

「ああ、私は十季トキに嫁ぐのよ。父上の急なご逝去で、この一年喪に服していていたから、予定が遅れたけど」


 鴻に新しい皇帝が立って、世界は良くも悪くも変わった。

 新皇帝が龍の鱗という希物にさほどの興味を示さなかった為に、七国の中で比奈の序列は急落した。新しい皇帝の嗜好に合う希物探しに、周辺国との戦と、比奈には次々に困難が押し寄せた。その最中、比奈王は病に倒れ、あっけなく逝去し、今は、王太子であった長子が新たな王となった。

 波紅は簡単にそんな説明をした。


「それにしても、遠見の聖地だとも言われるこの場所には、やはり、何やら霊気が漂っているのかしらね。洸由兄さまが、同じように神隠しにあったというスズリを拾ったのも、この山の頂きだったというし……」


――スズリ。


 その名前に、美玻は思わず腰を浮かせる。

「……スズリはっ……無事だったのでしょうか?」

「ええ。無数に矢傷を受けていて、到底助からないと思ったものだけれど、不思議と深手となる傷はなくて。傷の直りも思いの外、早くてね……けれど、まあ……探索の過酷さ故か、まるで人が変わったように、しばらく腑抜けたままで……ところでお前、気になるのは、スズリのことだけなの?」

 波紅にからかうように言われて、付け加えるように訊く。

「えっ……あ、その洸由様の方は……」

 洸由は、沖斗の死は確認したものの、他の二人についてはその生死を確かめる術もなく、失意のまま、ひとり帰路に付いた。満身創痍になりながらも、ようやくこの頂まで辿り着いた所で、傷だらけのスズリを見つけ、それを担いで山を下り、王城へ帰り着いたのだという。

「お前も、沖斗のことは……」

「はい……」

「そうか。もう龍の探索が行われることもないのであろうにな。最後の探索で……誠に残念なことをした」

 波紅は、命を落とした沖斗を悼むように、目を閉じて天を仰いだ。美玻もしばし、その面影を思い、黙とうを捧げた。しばし訪れた静寂に、風の音が耳を掠める。遠くに鳥のさえずりが聞こえた。

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