第59話 言伝

「……スズリは」

 波紅がふと思い出したように、再びその名を口にした。

「落ちているのを拾ったのは、確かに洸由兄さまだったけど、元は私のものだから……ちゃんと印だって付けてあるのだからと、半ば強引にあれを引き取って……」

 常ならば、死んでいても可笑しくない程の傷で、直りが早かったとはいえ、目を覚ますまでに十日ほどかかり、起き上がれるようになるまでに、また更に半月程の日数を要したという。

「波紅様が御自らご看病を?」

「あたりまえじゃないの。あれは、私の、最上級のお気に入りなのよ」

「お気に入り……」

「そう。あのように美しいものを生み出す手は、世の七宝にも比する宝だと、お前はそうは思わなくて?」

「……はぁ」

 それはスズリが、というよりスズリの腕が、という解釈でいいのか。美玻は首を傾げる。波紅の感性は、どうやら美玻の理解の範囲を超えるようだ。要するに、良く分からない。少しの逡巡の後にそういう結論に至る。

「それなのに、目を覚ましたがいいが、目は虚ろで声を掛けても全く反応もせずで。まるで魂が抜け落ちてしまったようなありさまで、それはそれは気を揉まされたわ」

 体の傷が完全に癒えても、随分と長い間、何をするでもなく日々ぼんやりと過ごすばかりであったのだという。話に聞くだけで、美玻は胸のつぶれる思いがした。それを傍で見守っていた波紅の心痛はいかばかりであったかと思う。


「それで、スズリは……」

 心配そうに問いかけた美玻に、波紅が視線を向けて微笑んだ。

「そなたは、スズリを好いておるのだな」

 言われた瞬間に、胸が苦しくなった。そして美玻は、観念したように頷いた。

「……はい」

「大丈夫。生きているし、きっと元気にしていることだろう。この私の手をあれ程煩わせたのだから、そうそう命を粗末になど出来ない筈だからな」


 波紅の言葉によれば、それから半年ほど後。波紅の輿入れが正式に決まり、それを機に、彼女は自身の姿絵をスズリに描くように命じた。

 初めはやはり、やる気のない風であったが、無理やりに絵筆を持たせると、本当にひと筆、ふた筆から始まって、少しずつスズリは手を動かすようになった。相変わらず人と言葉を交わすことはなかったものの、少し経つと、スズリは日がな一日絵を描くようになった。無心に、絵筆を動かす。ただ、そのことだけが、自分の全てであるかのように、寝食の他は絵筆を握り、描き続けた――


「そうして、気が付いてみれば、いつの間にか城から姿を消していたのだけど」

「……そうですか」

「まあ、あれは絵師だから。きっとまた、美しいものでも描きたくなって、どこかへ旅に出たのだろう」

「ええ、そうですね」

 きっと、どこかで絵を描いている。そう、信じよう。

「ああ……そう言えば、姿を消す少し前に、そなたの話をしたな」


――あたしの?


「同じように神隠しに遭ったお前がこうして無事でいるのに、どうしてあの娘だけが死んだと、そう決めつけるのかと」

 波紅がそう言うと、スズリは意外そうな顔をして、それから何かを思い出した様にふと口元を綻ばせたという。

「その時、初めて生気のある顔をした。それを見て、もう大丈夫だと……そう、か……今思えば、あの者はそなたを探しに行ったのやも知れぬな」

「え……」

「きっとそうだ」

 波紅が、戸惑う表情を浮かべた美玻に向かって笑顔で言い切る。そのたった一言が、美玻の心をじんわりと温める。と、胸の奥から何かが込み上げて来て、目頭が熱くなった。


「どうした?」

「いえ……大丈夫です。何だか安心したのかも知れません」

「そうか。お前は、これからどうする?」

「あたしは……そう、鴻へ行こうと思います。掃き掃除を、途中で放り出して来てしまったから……」

「掃き掃除……?」

 波紅が不思議そうな顔をする。

「はい」

 美玻が笑うと、波紅も笑顔を見せた。

「そう言えば、洸由兄さまは、比奈の特使として鴻へ参っているから。もし、困ったことがあれば、頼っていくと良いわ」

 恐らく波紅は、洸由と自分の経緯を知らないのだろう。美玻としては、

「はぁ……」

 と、すこし間の抜けた返事を返すことしか出来ない。

 願わくば、都の人ごみでひょっこり出会わないことを祈るばかりである。

「それから、もしどこかでスズリに会うことがあったら……」


 ほんのついで。

 そんな軽い風情で、波紅が言った。


「私は、今度は十季にいるから、もし来るのなら間違えずにそちらへ顔を出すようにとね」

 当たり前のように言われて、美玻は思わず笑みを浮かべた。


 本心を押し隠しながら、人との関わりを断ち切るように生きていた筈なのに、それでも世界は彼をひとりにはしない。その面影を思い浮かべて懐かしく微笑む者が、きっと自分たちの他にもいることだろう。


 いつになるかは分からないけれど、いつか。

 託された言霊が、自分とスズリをまた引き合わせてくれる。

 そんな気がした。


「ご伝言、確かに承りました」

 美玻は丁寧に頭を下げた。

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