第56話 生きる理由
(スズリっ!スズリ、目を開けてよ……お願い……だから……)
遠い場所で、声が聞こえた。
――この声……美玻か。
(お願い生きて……スズリ……お願いだから……生きて……)
懐かしい人の声には、涙の色が混ざっていた。
――ああ、この子は。また泣いているのか。
今度は何が哀しくて、そんな辛そうな声で泣くのだ。 相変わらず仕様のない娘だ。ひとりで放り出したりしたら、この世の末までも泣き続けるのではないか。何もない闇の中で、取り留めもなくそんなことを思った。全く、そんな気がかりなことがあっては……そうそう簡単に死ねないではないか。
(……わ……たしは……大丈夫……だから……)
どうしてだか、そんな台詞が出た。
(本当に?)
即座に念を押された。そう聞かれると、更に答えねばならなくなった。
(……ああ。……だからもう……泣くな……)
と――
――ああ、美玻は生きて……いてくれたのか……
そう思った途端、闇の中に細い光が差しかかったような気がした。氷の様に硬直していた心に何か温か
いモノが触れた。そんな感覚に止めようもなく涙が込み上げた。
――そうか……無事だったのか……良かっ……た……
自分は取り返しようもない大罪を犯した。後は滅ぶだけの身の上に、もう何も望むことなどないと思っていた。それなのに、自分が殺したも同然の娘が、生き延びてくれていたことに、救われた気がした。勿論それで罪が赦されるなどとは思っていない。それでも、ただ死へ向かっていた足はそこで歩みを止めた。
自分は、生きながらえてもいいのか。
あの娘の為に。
そんな理由を付けて、生きながらえても――
「……美玻」
問うように、その口から掠れた声が漏れた。だが、それに返されたのは、少女の声ではなく、鋭い刃を含んだ冷徹な声だった。
「自分が殺した娘の名を口にするとは、お前にも少しぐらいは贖罪の念というものが残っているのか」
うっすらと開く事のできた目は、怒気を帯びてそこに仁王立ちになっている青年の姿を捉えた。
「……洸由……か。どうして……お前がここに……」
「どうして?それはこちらの台詞だ。ここは果て見の頂なのだぞ」
龍探索の不首尾の後、洸由は失意のままひとり帰路に着くしかなかった。数か月掛かって、ようやくこの頂に帰りついてみれば、全ての元凶ともいうべきこの男が、まるで針鼠のような無様な様でこんな場所に転がっていようとは。
――一体これは、どういう運命の悪戯か。
溜めこんでいた鬱憤を晴らすがいいとばかりに、自分の目の前にこの男は現れたのだ。
「……果て見……?……何でそんなことに……なっている……」
「そなたは、罪を購うために、ここへ戻されたのではないのか」
「……罪?」
「ああ、そうだ。遠見の娘を殺し、龍の鱗を盗んだ罪だ」
「……殺した……?」
――こいつは今、私が美玻を殺したと……そう言ったのか?
ならばあれは……あの声は幻であったのか。
闇に差した光は……心に触れた温もりは……全て、絶望に押しつぶされそうになった心がもがいた末に見せた、願望。叶うはずもない……願い。
「そなたは、龍の鱗を手に入れるために、美玻を龍に喰わせようとしたのであろうが」
――ああ、そうだ。この私が、美玻を……殺した。
「……その為に、沖斗までが犠牲になったのだ。あげく、そなたは鱗を持ち去り姿をくらました。良く聞けよ。此度の探索が上手くいかなかった責は、全てそなたが負うべきものぞ」
美玻は断崖から堕ちて、激流に飲まれた。不意に、スズリの脳裏にその時の光景がはっきりと蘇る。あの高さから堕ちて、助かる筈などないのに。
――随分と都合の良い夢を見ていた。
「……何が可笑しい」
いつの間にか口元に浮かんでいた。その笑みを見咎めた洸由の鋭い声が飛ぶ。
「分かっているのか。そなたは、この私に殺されるために戻って来たのだぞ」
――もう何も……自分には何も残っていないのだ。今更生きながらえる理由もないのだから。好きにすればいい。もうどうでもいい。
そんなことを思いながら両の目を閉じた。するとそこに生じた闇に、世界はみるみる飲みこまれていく。
『お願い生きて……スズリ……お願いだから……生きて……』
幻聴がこだまを繰り返し、闇の中に又、か細い光を差しかける。
だが、そこにはもう闇を覆す程の力強さはなかった。
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