第55話 傲慢で残酷な願い
まるで、野兎が猟犬に追い立てられているようだ。
紅澪はふと、そんなことを思った。
暮れかけた橙色の光の中を、影絵を思わせる長い影が地面を踊り狂う。たった一つの影を追って、兵士の数はどこから湧いてくるのかと思う程、際限なく増えていく。放たれる数多の矢の下を掻い潜るようにして、野兎はよろめきながらも、それでも足を止めない。
――もうあれでは、意識などあってないようなものだろう。
全身に矢を受け、傷だらけになりながら、それでも逃げ続けるのは、生物の本能としての生への執着からなのか。
「スズリっ」
その様子に気づいた美玻が、小さな悲鳴のような声を上げた。
それを合図に、紅澪は空を飛んだ。
急降下して、傷だらけの野兎を拾い上げる。
突如巻き起こった旋風に、そこにいた者達は野分けが通ったのだと思ったことだろう。しかもその途端に、目の前の獲物が消え失せている訳だから、神隠しだとでも思うだろうか。そして、降下したよりもずっと速い速度で、荷物を二つほど抱えた紅澪は天高くに舞い上がる。登り切った極みで、刹那綺麗な夕陽を愛でて、紅澪はすとんと地上に着地した。
「ここは……」
美玻が驚いたような声を上げる。
「うん。比奈の遠見の頂」
「スズリはっ?」
紅澪が意識のないスズリを地面に横たえると、美玻はそこに寄り添うようにして、心配そうにスズリの顔を覗きこんだ。
「……死なないよね……助かるわよね?」
懇願するように自分を見上げる美玻の瞳から、紅澪は顔を反らす。
「……五分五分だろうな。今のスズリからは、この世に縋りつこうという気概が感じられない。多分もう……こいつの中には生きたいと思う理由が何もないのだろう」
「そんな……」
たったひとつ、守りたいと思ったものの為に、他の全てを犠牲にして全身全霊を傾けた。
――その結末があれじゃなぁ……
守る価値などなかった。そんなものの為に、スズリがこれまでに犠牲にしてきたものの事を思えば、世を儚んで当然といったところだろう。
「スズリっ!スズリ、目を開けてよ……お願い……だから……」
美玻が悲痛な声を上げながら、スズリの体に縋りつく。
――お願い……生きてスズリ……お願いだから……生きて……
「……お……ねがい……」
涙でぐしょぐしょになった顔と声が、いつしか紅澪に向けられていた。
「助けて……スズリを助けてよ……助けてくれるって言ったじゃない……お願い……紅澪」
その必死さに、美玻のスズリへの強い思いを見せつけられる。
それは勿論、自分には面白くないことしきりであり……
つまりそれは――
「……ずいぶんと傲慢で残酷な願いだよね、それって……」
「……」
「人の生き死にの話をさ、当人の望みを無視して勝手に決めるってことなんだぞ。分かっているのか」
どうしようもなく突き放したような言い方になったのは、つまり、それは――
「……だって。スズリが死んだら、あたしはきっと悲しいんだもの。もう悲しいのは嫌……嫌なんだもの。これ以上、人の死を見るのはもう嫌。一人で置いて行かれるのは……嫌」
止めどなく流れ落ちていく涙を、ただただ呆然と見据えている。
どこかで心が軋む音を聞きながら。
「スズリが助からないのなら、今ここで、あたしを食べてよ。そして全てを終わらせてよ、紅澪っ」
「……分かったよ」
スズリが死ねば、美玻は間違いなくこの先ずっと泣き続けるだろう。
そして自分は、そんな彼女をずっと見続けることになるのだ。
――ありえない。そんなのちっとも嬉しくないし。
「……っ畜生」
――運命なんて糞くらえだ。
紅澪は膝を付き、右の掌を横たわるスズリの心の臓の上にかざす。
「約束。忘れんなよな」
半ばヤケクソ気味に、吐き捨てるように言う。スズリの為でも美玻の為でもない。間違いなくこれは、自分の為。美玻を手に入れる為だ。そう言い聞かせる。美玻の笑顔を取り戻す為……
――好きって感情は……ホント厄介だ。
「……助かる?」
心配そうに身を寄せてきた美玻の体温を感じて、紅澪の体も熱を帯びる。と同時に鼓動が早まったのは恐らく、力を使って気分が高揚しているからでは……ない。
「誰に向かって言ってる?僕が助けるって言ったら、助かるに決まってるだろうが」
自分は動揺している。
あり得ない程。
――ホント厄介……
一体自分は、どこまで奪われればいいのかと思う。
横目でそっと様子を伺うと、美玻はスズリの手を握り締めたまま、心配そうにその顔を見つめている。そんな美玻の思いの深さを見せつけられれば、胸にどうしようもないせつなさが込み上げて、慌てて視線を戻す。
――集中、だ。
嫌な仕事は、さっさと終わらせる。紅澪は自分にそう言い聞かせた。やがて、スズリの呼吸が落ち着いて来ると、顔色も今にも死にそうな所から、ただ眠っているような辺りにまで良くなった。
「……ふぅ」
安堵のため息を付いて紅澪が手を引っ込めた所で、
「……ありがとう」
と、耳元に囁くような声が届いた。刹那、息が止まった。
――バカやろう……殺す気か。
動揺を押し殺して応えを返す。
「……お礼なんて……いらない。交換条件だったから助けただけだ」
「それでも、ありがとう」
声に釣られてつい横を向いた。先刻まで思いつめていた顔は、随分と柔らかくなって穏やかな表情になっていた。自分を真っ直ぐに見ている瞳が、夕陽を受けて玻璃のように輝きを宿す。その美しさに、紅澪は引き込まれそうになって、慌てて目を反らした。
「……これだけ霊力を注ぎこんでおけば、間違っても当分死ぬことはない。それで満足?」
「うん」
弱々しいながらも、ようやく笑顔らしきものが見えた。
「……それじゃ、今度は、美玻が僕の願いを叶えてくれる番だけど……いい?」
「……うん」
美玻が笑みを浮かべたまま立ち上がる。それから、どこか名残惜しそうにスズリを見据えた後で、紅澪に手を差し出した。
「……本当にいいの?」
「うん、いいわよ。そういう約束じゃない」
――約束。
「そっか……なら」
わずかな躊躇いを払いのけて、その手を取ると、紅澪は美玻を連れて茜天の空へと舞い上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます