第54話 深淵の闇

 外の様子が、何だか騒がしい。そんなことを思いながらも、津澄の手は動き続けていた。しかし、いつもとは違う時間に人のやってきた気配に気づいて、その手が止まった。面倒くさそうに顔を上げると、格子の向こうに、見たことのない青年が佇んで、津澄を見ていた。

「……兄上」

 その青年が、まるで万感の思いを込めたというような声で言った。



 自分を兄と呼ぶからには、大勢いる兄弟のうちの誰かなのか。津澄は興味深そうに、青年を見据える。青年は格子に近寄ると、懐から鍵を取り出して、錠に差し入れようとする。

「お前は、何者か?何をしている?」

「私は涼璃にごさいます。兄上をお助けに参りました」

「涼璃……?」

 名を頼りに、記憶の中から少年の姿を拾い上げる。

「ああ……涼璃か。見違えたぞ。そうか、お前が、私を解き放つ鍵か」

 津澄が満足げな笑みを浮かべる。が、津澄の見ている前で、涼璃の手がびくりと痙攣して鍵を取り落とした。見れば、涼璃の肩には矢が刺さっていた。


「その者は罪人ぞ。ここから出すことはならぬ」

 牢の入り口に、息を切らせながら弓を構えている燥怜の姿があった。

「七兄様……」

 涼璃が痛みに顔を歪めながら、燥怜を見る。

「何故です。津澄様は罪人などではありません。何の罪も犯してはおられない。それなのに、このような境遇に落とされて」

「涼璃、そなたは、仮にも大鴻国を築き上げた皇帝陛下の目が節穴であったと思うのか。津澄殿は罪を犯したからこそ、ここにおられるのだ」

「だから、その罪はっ……」

「濡れ衣などではない。良く聞けよ、涼璃、そなたには、血を分けた弟がいるのだぞ」

「一体何を……」

「その弟の母は、勿論そなたの亡くなられた母上だ。そして、この津澄こそが、その子の父。津澄の罪を問うに、これ以上の証が必要か?」

「……本当なのですか……津澄様……」


「津澄は、そなたの心聞の能力に興味を引かれたのだよ。そなたの母は、心聞者の多く住む郷の出だったからな。そもそも、陛下が、そなたの母を妃にしたのも、その能力に興味を持たれたからだ。涼璃、彼がお前を殊更に可愛がっていたのは、その力を自分の道具として使いたいと考えたからだ。だが、そなたの母君はそれを警戒して、陛下に彼を諌めて頂こうとなさった。それが引き金になったのだろう。母君の口を封じ、更に心聞の能力を持つ子を自分のものにする方法を、彼は思い付き実行した。そうなのでしょう?津澄殿」

「見て来たように言う」

 津澄が不敵な笑みを浮かべる。


「津澄様……違うとおっしゃって下さい……どうか……」

 でなければ、何もかも―― 自分を支えて来た全てが崩壊する。


 救いを求めるように、涼璃はその手を牢の中に差し入れる。津澄は興味なさそうにその手を一瞥し、軽く握った。刹那、大きな絶望が涼璃の中に流れ込む。涼璃は魂を抜かれたように、その場に座り込んだ。


「涼璃、そなたのこれまでの働きに免じて、この場は見逃してやる。どこへなりと、逃げ延びるがよい。さあ、行くが良い。さあ、逃げよ」

 燥怜の言葉に操られるように、涼璃はふらりと立ち上がり、その場を立ち去っていく。

「とんだ、兄上様だな。外には、皇帝を暗殺した下手人を兵どもが血眼で探しておるのだろうに……それで、お前は全てを手に入れて、皇帝にでもなるか、燥怜」

「私は、自分の器の大きさぐらい、弁えておりますよ、兄上。新たな玉座には、現皇太子殿下がお座りになられます」

「あのような凡庸な男がか」

 津澄が失笑を漏らす。だが、それを見据えた燥怜の目は冷徹に光っていた。

「兄上、一つだけ申し上げておきます」

「……何だ?」


「格子の外に立つ者と内に立つ者とでは、立場が違うのだ、ということがお分かりですか。父上のご威光を失った今、あなたは今度こそ、間違いなく罪人として裁かれることになるでしょう」

「この私がいなくて、この国が立ち行くと思うのか。私がいたからこそ、この国はこれ程までの栄華を誇ることが出来ていたのだぞ」

「そうかも知れません。しかし、新しい陛下は、もはやあなたの力を必要とはされないでしょう」

「愚かな」

 津澄が吐き捨てるように言う。

 燥怜は、それを冷ややかな目で見据えながら続けた。

「あなたは、停滞する世界に退屈していたのでしょう。それで、世界を変えてみたかった」

「お前……」


――侮っていたのは、自分の方だったのか。


 格子の内と外では、時の流れ方が違うのだと。

 これは、そのことに気付かなかったが故の失態なのか。


――この、致命的な失態。


 自分の足元にも及ばないと思っていた弟に、いつの間にか自分は追い付かれていたのだと、気づけなかったのだ。兄という自尊心故に。

「お望み通りに、世界は変わりましたよ。そう、あなたを必要としない世界に」

 踵を返し、燥怜は牢を後にする。


 歪んだ国の象徴であった兄に、もう自分が会う事はない。瑕疵の生じた部分は折りたたまれて、何事もなかったかのように、この先も国は続いて行くのだ。


――そう、変わったのは、罪を犯した者たちの世界だけだ。

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