第53話 弑逆

 紅澪は宮殿には下りずに、その彼方上空に留まっていた。

 それでも、遠見の目を取り戻した美玻には、下で何が起こっているのかが手に取る様に分かった。身分の高そうな男が、広間の中央に胸から血を流して倒れている。その人物の周囲では、大勢の人間が取り乱し、慌てふためきながら右往左往している。

「……違う……わよね……」

 胸がぎゅっと締めつけられるような息苦しさを感じながら美玻が呟く。しかし、返って来た言葉は、美玻が辛うじて繋ぎとめていた微かな希望を完全に打ち消すものだった。

「あれが、鴻の皇帝だ」


――ああ。


 美玻の口から、絶望の吐息が漏れる。自分は、間に合わなかったのだ。失望に押し潰されそうになりながら、視線を巡らせる。

「……スズリは?スズリはどこ?」

「……太刀は、その役割を終えると、砕けて消えてしまうから、スズリはすでに姿を晒してしまっているだろうし……。とりあえず、どこかに身を潜めているんだろうけど、皇帝を殺した大罪人が、この宮殿の中から逃げおおせることは至難の技だと思うよ。いずれ捕まって、裁かれるまでもなく殺され……」

 美玻が肩を震わせて泣いているのに気づいて、紅澪は黙った。自分の腕の中で、ただ泣くばかりの少女に、紅澪は憮然とした表情になる。

「……それでも、救いたいの?」

「できるの?」

 美玻の目に、一見してそうと分かる期待の色が浮かぶ。そのことが、紅澪の気持ちを逆なでる。

「どうしてだよ。あいつは、美玻の力を利用したくて、優しくしていただけだろう?美玻のことなんて、何とも思ってないんだぞ。なのに、なんでそこまで肩入れするんだ」

「……だって、スズリはあたしを助けてくれたんだもの」

「だから、それは、もの凄い下心があったからだろう?」

「それでもっ、あたしは、救われたもの。スズリに救って貰ったんだもの……」

「要するに、お前はスズリが好きってことなの?」

「……好き?……分からない。分からないけど、このままスズリがいなくなってしまったら、あたしは嫌なんだもの」

「馬鹿だな、お前は。そういうのを好きって言うんだ」

「……そう……なの?」

 美玻が呆けた顔をする。

「ああ、もうっ。……天然すぎてやんなる……ひとつ、意地悪なこと言わせてもらうけど」

「……?」

「美玻の周りで起こるごたごたはさ、美玻が僕の姿を返さないでいるせいなんだって自覚ある?」

「え……?」

「美玻の中に封じられている僕の力は、人間の世界に置いておくには強すぎてさ、すべからく凶事を引き起こす代物な訳。だから、スズリのことにしても、奴がそこまで突っ走っちゃったっていうのは、少なからず美玻のせいなんだよ」

「あたしのせい……」

「だから、美玻がここにいる限り、事態は良くなりようがないっていうか……」

「どうすればいいの?」


――すんなりと、納得するのか、こいつは。こんなふざけた言い分を。ちょっとぐらい、反論とかしてみせろって言うんだよ。


 素直というよりも、こいつは単なる阿呆なのではないか。そう思いつつ、そんな阿呆に振り回される自分も、大概なのだと紅澪は自嘲する。

「前にも言ったけど、僕は美玻を食べたくはない。とは言っても、このまま君をここに置いておいたら、君は周りに迷惑を掛け続ける存在のままで、それじゃぁ君も、気づまりだろうと思う訳。だから、僕と一緒に空の上に来て欲しい」

「空の上?」

「そこに、龍が住む郷があるんだ。どう?」

「そうすれば、スズリを助けられるの?」

「まあ……そういうことだね」

 美玻の答えは聞くまでも無く、決まっていた。


 こんな風に、半ば騙すようなことをして……それでも、自分は美玻という存在を手に入れたかったのだと、言い訳にもならないのは、自分が一番良く分かっていた。


――本当のことを知ったら、君はきっと怒るだろうな。それから、僕を軽蔑するだろうか……


 必死に地上にスズリの姿を探す美玻とは反対に、紅澪は天を仰ぎ、心に溜まった澱を吐き出すように長いため息をついた。

 夕暮を迎えた空は、紅く染まり始めていた。




 津澄の囚われる牢獄は、宮殿の最奥の地下にあった。無論、通常の罪人の入る牢とは違う。鉄格子で外界と隔てられていることを除けば、そこは普通の部屋と変わらない座敷牢であった。

 調度の類も、皇族が使うには地味なものであったが、庶民からすれば十分に贅沢なものが取り揃えられていた。壁面にしつらえられた書棚には、様々な書籍が並び、床から積み上げられた書類の山は、この部屋の主が、精力的に活動している証を示すものであった。


 津澄は机に向かって、細かい数字の並ぶ報告書を読み、時折、訂正すべき場所を見つけては、そこに数字や文字を書き入れていく。毎日、決まった時刻に、食事を運んでくる兵士と、やはり決まった時刻に書類の遣り取りに来る燥怜の他は、何人たりともこの場所を訪れることはなかった。

 皇帝の影として働くようになってから、忙しく充実してはいたが、その統治能力の高さ故に、解決すべき重大事項は次第に数を減らして行き、日々の仕事は、決められた枠の中で、同じことを繰り返すばかりの、つまらないものになっていた。


 平和というものは、確かに尊い。

 しかし、この上もなく、退屈だ。


 津澄は、いつしか自分の能力を持て余すようになっていた。それはつまり、自分の本体である皇帝の器が小さいから、影である自分が窮屈さを強いられる。そろそろ自分は、外に出るべきなのだ。この、鍵のかかった部屋から。


――それには鍵が必要だ。さて、それをどうするか。


 久しぶりに、決められた事以外に頭を使った。

 それは、どこか心躍るような気持ちだった。


 手始めに、自分と接点があり、その性格までも良く知り尽くしている弟、燥怜をつついてみた。燥怜は、案外簡単に津澄の挑発に乗った。その自尊心を煽ってやると、それならば、世界を変えられるか否か、賭けをしようではないかという話になった。世界を変えることなど出来はしないとした津澄に対し、ほんの些細なきっかけさえ与えてやれば、世界を変えることは出来ると燥怜は言った。


 そう、この退屈な世界は変わるのだ。

 私がそう望んだのだから、世界はその様に動く。

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