第52話 紅澪ふたたび

 美玻は店の前で箒を手に、慣れない掃き掃除に没頭していた。箒を左右に動かして、塵を集めていくという単純な作業ではあるのだが、これが思いの外、腰や腕に負荷が掛かる。

「……考えてみたら、これ、生まれて初めてなのかも」

 遠見の郷の屋敷では、掃き掃除などは、下働きの者が何事も無いように簡単にやっていた。それが、こんなに大変なものだとは思わなかったのだ。思えば、特別な環境で育った美玻にとって、こういう初めてなものが、この先五万と出て来ることになるのかも知れない。

「それはそれで、楽しそうだけど……」


 一旦手を止めて、通りの先を眺める。

 鴒帆の店の間口は、やはり広い。

 そのことを再確認した所で、美玻はため息をひとつ落として再び手を動かし始めた。


 やがて慣れて来ると、手を動かしながら、頭は別の事を考え始めていた。言うまでも無く、スズリのことだ。姿の見えないスズリを探す術はないものかと、あれやこれやと考えるが、そうそう妙案が浮かぶものでもない。何も思い付かないもどかしさに、つい大きなため息が出た。

「はぁ……」

「大変そうだな」

 いきなりそう声を掛けられて、美玻は弾かれたように顔を上げた。

「掃除が辛くて、もう泣きたい、って感じの顔してる」

紅澪クレイっ」

 目の前にいたのは、赤毛の青年だった。


「何でこんな所にいるのっ?」

「何でって、また会いに来るって言ったじゃん」

「あたしたちの後を、こっそり付けて来たのね?」

「嫌だな、人聞きの悪い。そんなまどろっこしいことしないって。美玻には、印をつけてあるから……」

 紅澪が、美玻の首に下がっていた紅い玻璃玉を指で弾いた。

「その気になれば、こんな風にさ……」

「え……」

 いきなり体を抱き寄せられた。と思った時にはもう、揃って空の上を漂っていた。遥か下方に、豆粒ほどの人が行き交う往来が見える。


――えぇぇぇ……


 驚きが大きすぎて、悲鳴は声にもならない。

「ひとっ飛び、だから」

「…………今更なんだけど……紅澪って。ホントに龍なのね……?」

「今更聞くか?」

 紅澪が苦笑する。

「というか……たった今、感覚的に納得したのよ」

「ふうん。んで、少しは前向きに考えてくれた?」

「前向き?って……ええと、何だっけ?」

 美玻がそう言うと、紅澪が思い切り傷ついたような顔になる。

「え、あの、何でっ?」

「……いや。素で忘れられてるとは思わなくて」

「あ……」

 そこでようやく、記憶の中から、紅澪の用件というものが浮かび上がって来た。


――求婚のことだった。


「ごめん、今、思い出した。色々ごたごたしててそれどころじゃなくて、全然、考える暇なくて……」

「忘れてたんだぁ……」

「いや、だって、ホントに……ごめんなさい」

「何?ごたごたって。また、何か面倒なこと?」

「って言うか……そうか、龍」

「え?」

「紅澪は龍なのよね?」

「だから、何、今更」

「龍の飾り太刀って、知ってる?」

「鱗を削って出来る太刀のこと?神力を消す力があるっていう?」

「そう、それ……それを持っている人を探す方法ってないのかしら?」


「そっか……手に入れた鱗で、太刀を作った訳か、スズリの奴は……今、この世界で、それを使う必要があるんだとすれば、鴻の皇帝をどうにかしようって、そういうこと?大胆なこと考えやがんなぁ」

「止めたいの。あたしは、スズリにそんなことして欲しくなくて……でも、太刀を持っている人間は、姿を隠すことが出来るって……」

「確かにそうなんだけど、目の良い奴なら、見えないこともないよ」

「目の良い……」

「例えば、普通の遠見くらい見えれば、持ってる人間は分からなくても、太刀の放つ独特の光が見える」

「遠見……って、そんな……」

 もう、この世界に遠見と呼べる人間など存在しない。

「美玻なら、見えるんじゃないの?」

「……だってあたしは、もう」

「ねえ、美玻。もし、僕がその目を見える様にしたらさ、君は僕の願いを叶えてくれる?」

「見える様に、なるの?」

「それは君の答え次第」

「お願い、あたしを遠見に戻して」

「あのさ。僕の願いが何か、聞かなくていいの?」

「命でも何でも、あげるから……お願い……スズリを助けて、紅澪」

 懇願するように自分を見上げる美玻の目には、紅澪の姿の他には何も映ってはいない。それでも、美玻の心の内には、紅澪ではなく、スズリの姿がより大きく映っている。紅澪はやるせないといった風に、ため息を付く。

「……分かったよ。玻璃鏡を外して目を閉じて」

 言われた通りにして目を閉じると、閉じた瞼をそっと指でなぞる気配がした。

「いいよ、開けても」

「……うん」

 紅澪に言われて目を開くと、その目は遥か彼方まで見通せる遠見のものに戻っていた。

「見える……見えるわ。ありがとう、紅澪。これで……」

 美玻が言い掛けた時、宮殿の方角で突然眩い光が弾けた。それに気付いた紅澪が、途端に難しい顔になる。

「何?今の……」

「行こう」

 美玻の問いに応えないまま、紅澪は残光の残る一点を指して飛んだ。

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