第51話 大番頭の考えること

 何時の間に――このお方は、変わられてしまわれたのか。

 このような事を考えるようなお方ではなかったのに……。


 皇帝の影である津澄に、更にその影のように仕えなければならない。その難しい立場ゆえの疲弊からなのか……。

「……いや、違うな。変わるのかどうかではなく、変えてみたかった。そう言った方が正確か。現状、津澄殿が支配するこの世界を、私は変えてみたいと思ってしまった。何しろ、津澄殿が自信たっぷりに、この世界が永遠に盤石なのだとおっしゃるものだから……その不愉快なまでの過剰な自信を、砕いて差し上げてみたくなったのだ」

「馬鹿な……」

 憤りに飛び出した言葉を、鴒帆は慌てて飲み込んだ。


――毒気に当てられたのだ。燥怜様は……津澄様という強い毒に。


 どんなに非道な罪を犯しても、能力があれば、罪は相殺される。鴻の宮廷には、そんな能力第一主義の風潮がある。ここでは、力こそが正義なのだ。

 その結果として、鴻は圧倒的な力で他国を支配し栄華を誇っている。そして、牢獄に居ながら国政に関わる津澄は、その象徴のような存在と言えた。


「津澄殿がいけないのだよ。この私を本気にさせるから……」

「ひどい……あなたはそんなことの為に、スズリに命を掛けさせようと言うの?」

「あれはあれで、自分の望みを叶える為に動いてるだけだろう。私が何を命令した訳でもないよ。お前たちが、涼璃を止めようとするなら、それはそれで構わない。まあ、もはや止めようもなかろうがな」

 燥怜が実に不快な笑い方をした。




 高貴なお方との対面は、やはり美玻に理解不能な世界を見せ、心に大きな不信感を植え付けた。燥怜のことを良く知っていた鴒帆も、予想の遥か上を行った想定外の事実に、流石に失望を隠せない様だった。すっかり気落ちした様子で、帰りの馬車の中では一言も口を利かなかった。


 店の前で美玻たちを出迎えた浪瀬シロセは、疲労困ぱいといった風の主人を気遣い、まるで、主人の不調が美玻のせいであるというような厳しい視線を向けた。そんな目を向けられて、美玻の方も酷く落ち込むことになった。



 与えられた部屋に逃げ込むように退散し、スズリを探す手立ても思いつかないまま落ち込んでいると、しばらくして、その浪瀬が顔を見せた。自分に対して良い印象を持っていないような浪瀬に、美玻は自然と身構えて向き合う。と、浪瀬が抑揚のない口調で言った。

「そなたは、何なのだ?」

「何って……」

 聞かれた意味が分からずに、そのまま返す。

「御殿への供は、長年お側にお仕えしている、この私の役目なのだ。それが、そなたの様な小娘が、いきなりやってきて、旦那様のお供をするなど」


――ああ、そういうことなのか。


 浪瀬の厳しい視線の意味を理解した。

「……あってはならぬ?」

「その通りだ。あってはならぬ。しかも、旦那様があの様に憔悴なさるなど……私がご一緒していれば、決してその様なことには」

「あたしは、ここで働かせて頂きたくて、鴒帆さんに付いて来たんです。それだけです」

「それだけにしては、随分な客人扱いになっている様だが……」


――ああ……成程。


 客なのか否か。客でないのなら、要は働け、ということなのだろう。

「おっしゃりたいことは、分かりました。それで、あたしは何をすればいいんですか?」

 鴒帆が信頼を寄せているだけのことはある。商人的な感覚に則って見れば、彼のやることには無駄がないと言える。つまり、無駄飯食いは作らないという訳だ。

「ならば手始めに、店の表でも掃いて貰おうか」

「承知いたしました」

 恐らく彼の中では、勤勉さこそが信頼の基準になるのだろう。彼の中では鴒帆の落ち込みは、美玻の失点として認識されている。それを払拭する為には、取り敢えず、言われたことをきちんと片付けて、信用を勝ち取って行くしかないのだ。


 しかし、美玻がさっそく部屋を出ようとすると、浪瀬に引き留められた。

「ああ、少し待て。仕事の前に、旦那様の憔悴なさっている理由を話してから行け」

「……それは。私の口からはちょっと……」

「言えぬと?」

 浪瀬に睨みつけられて、美玻は竦み上がったが、必死に首を横に振った。すると、

「……頼む」

 いきなり頭を下げられた。

「え……止めて下さい、困ります」

「常に旦那様の思う所を察し、望む所を先回りして不自由のないように手配するのが、この私の務め。その為ならば、下げ難い頭とて、下げてみせる」

「そのお心掛けは尊敬いたしますが……無理なものは無理なので……」

「どうあっても?」

「どうあっても、です」

 美玻の返答に、浪瀬の眉間に深い皺が刻まれる。


 初対面での印象もあまり良いものではなかったのに、これで決定的に悪印象になってしまったに違いないと美玻は肩を落とす。これでは、この店でやっていくのに先が思いやられる。そんなことを考えていると、顔を顰めたままで、勝手に何事か納得しながら浪瀬が呟くように言う。

「……成程、その口の堅さは、信用に値すると、旦那様はそうお考えなのだな……」

 更に思案顔の浪瀬が、今度は何を言い出すのかと美玻が戦々恐々としていると、そこへ小僧がやってきて、旦那様がお呼びだと告げた。

「おお、旦那様は、やはりこの浪瀬を頼りになさって下さっておるのだな」

 嬉々として、浪瀬は部屋を出ていく。美玻のことなど、もはや眼中にはないようだった。


 ひとり取り残された美玻は、緊張から解放されてほっと息をつく。

「えっと……店の表を掃いておけばいいのよね?」

 誰にともなく確認するようにそう呟くと、美玻は箒を探しに行った。

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