第11話 至高の美を追う者

「……美玻」

 目の前にふわりと着物の袖が翻った。

 そのまま視界が遮られて、何も見えなくなり、美玻は、スズリの腕に抱き寄せられていた。広間がざわめく気配がして、美玻はようやく自分の状況を飲み込む。身を捩ってその腕の中から逃れようとしたが、柔らかく美玻の体を包みこんでいるばかりに思えるスズリの腕は、それを許さなかった。そして、耳元にささやくような声が届く。

「……こんなに重たいものを、こんな小さな体で抱え込むなんて……お前もたいがい無茶が過ぎる」


――こんなに重たいものを……


 何故、自分だけが抱え込まなければならないのか。そんな心の最奥にある本音を、心を覗かれたようにそのまま言い当てられて呆然とする。

「……どう……して……」

 この人には、分かるのだろう……自分の思いが。もしかしたら、本当に……分かって貰えるのかもしれない。そんな思いが募る。


 この人になら、話しても大丈夫なのだろうか。

 本当のことを……

 話しても……

 縋っても……


 それでも、ギリギリのところで、決心が付かない。

「……お前が言わなければ、私には分からない。お前が何も言ってくれなければ、私はお前に何もしてやることが出来ないよ、美玻」

「……あたし……」

「……夏の光を孕んだ空は、どこまでも蒼く……澄み渡って……そう、彼方には、白い雲がたなびいている。それから風が吹いていたね……天高く吹く風は少し強い風だ。大きな雲が吹き流されてしまうほどに。その雲の更なる高み……そこは陽の光が煌く、眩き場所か……」

「……どうしてそれを」

「私にも見せてくれないか。お前が見たものを。それで祟りを受けると言うのなら、共に受けよう……」


――共に……


 その一言に、大きく心が揺らされる。しかし、美玻が尚も迷っていると、その耳元で、ふっとスズリが笑ったような気配がした。

「絵師とはね、美玻。至高の美を追い求めずにはいられぬ、因果な人間なのだ。それで天罰を受けることになっても、きっと本望だと言って、笑って逝ける」

「……」

「……蒼穹の果てに、お前は何を見た?美玻……」

 不意に強くなったスズリの口調に、固く閉ざしていたものが、弾けた。

「……眩い陽の光を纏った……龍……とりどりの色彩を放ちながら、沢山の龍が空を渡っていく……」

「上出来だ、美玻。よく、頑張ったな」

 すうっと、自分を包み込んでいた力が緩んだ。途端に全身から力が抜けたようになって、美玻はそのまま長椅子の上に崩れ落ちる。しかし、もう彼女を抱き起こす者はいなかった。


――自分は役目を果たせたのだろうか……


 こうして横になっていても、無理やりに起こされる気配がないのは、そういうことなのだろう。そう思うと、安堵のため息が漏れる。しかし、同時に自分を守るように押し包んでいたスズリの存在を失ったことが、妙に心細く感じられた。


――あんな風に……


 優しく労わられたことなど無かった。あんな風に抱き締められることで、不安で一杯だった心がこんなに楽になるなんて、思わなかった。抱き締められていた時の感覚が、まだ体に残っている。それがせつないような気持ちを呼び起こして胸が一杯になり、美玻はぼんやりと天井を見ながら、再びため息を漏らした。


 スズリを探して顔を巡らせると、その姿はまだ、すぐ傍にあって、美玻は少し安心する。

 スズリは帯の様に長くて大きな紙の両端を下っ端の文官二人に持たせて、その上に筆を走らせていた。まるで生き物のように、スズリの筆先はするすると動いて行く。美玻の所からは、紙の裏側しか見えないのだが、そこに浮き出てくるとりどりの顔料の色彩に、美玻は目を奪われる。自分の見た光景がそのまま、スズリの手によって、寸分の違いも無く、紙の上に鮮やかに描き取られて行くのが分かった。


――凄い……こんなものを描く人がいるなんて……


 やがて、描き上がった一幅の絵が披露されると、途端、その場に感嘆の声やため息が広がった。

「……国王陛下、これが、遠見の娘の見た景色にございます」

 その場に優雅に一礼をして、スズリはそう締めくくった。

「これは……見事な」

 紙の上に踊る龍の見事な姿に、比奈王も感歎の言葉を漏らす。

「その娘は間違いなく、遠見の力を備えているようだ。ならば、娘が早々に龍の探索へ向かえるように、万事つつがなく取り図らうように」

「畏まりまして」

 王の言葉に、宰相が恭しく頭を垂れた。

 一方、


――娘が、探索に、向かえるように、万事……


 同じ言葉を聞いて、美玻は驚いて身を起こした。これで終わりなどではなかった。その事実に打ちのめされる。ここから、龍を探しに行かなければならない。遠見である美玻自身が、だ。そして龍の鱗を持ちかえらなければならないのだ。そもそもそれこそが、遠見の役目に他ならないのだから。


――あたしが。


 そんなの無理だ。何をどうすればいいのかすら分からない。誰からも、何も教えて貰っていないのだ。龍の探索なんて、郷の偉い人の仕事だったのだ。美玻みたいな子供が関わるなど、これまでにあっただろうか。

「畏れながら、陛下」

 呆然とする美玻の傍らに、人の立つ気配がして、顔を上げるとそれは洸由だった。

「遠見の護衛役として、この私めを探索にお加え頂けませんでしょうか」

 そう言って、洸由が自己の売り込みを始めた。


 探索は国の秘事であるから、秘密の漏えいを恐れて、そもそも少人数で行われる。しかし、それはまた国家の重大事であるから、充分に信用のおける者……つまり、王族のうちの誰かが随行することが、習わしとなっている。更に、それは大きな危険を伴う旅でもあるから、随行者は、それなりに腕の立つ者でなければならない筈だ。即ち、自分ほど、その条件に当てはまる者はいない、と。矢継ぎ早にそうまくしたてた。


「……遠見の郷を失った失態を、挽回したい一心からとは言え、成り振り構わぬその言い様、見ていてあまり美しいものではありませんわね」

 揶揄するように口を挟んだ波紅を、洸由が睨みつけたが、彼女は涼しい顔をしている。

「波紅、戯言は慎むのだ」

「申し訳ございません」

 王にたしなめられてようやく、王女は神妙な顔で頭を下げる。

「さて、確かに、此度の探索は、まだ不慣れな遠見が行うという異例のものである。洸由の言い分を認めよう。探索への同行を許す」

「ありがとうございます、陛下」

「今度こそ、失敗は許されぬと、肝に銘じよ」

「はっ。重々承知致しております」

 折角、手の中に入れた遠見という駒を、あっさりと兄に持っていかれたのが、面白くない。そんな気持ちが透けて見える様な不機嫌な顔をして、波紅は優雅に一礼すると、絵師を伴って広間から去って行った。

 その後ろ姿を、美玻は縋るような目で追いかける。もう、スズリに助けて貰うことは出来ないのだ。そう思うと、言いようのない心細さが募った。


――共に。


 優しい声で囁かれた言葉が、いつしか刺を纏って心の中を転がり始める。スズリは波紅王女の絵師だから、この城で、王女の元にいるべき存在なのだ。そう自分に言い聞かせても、その刺が消えることは無かった。

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