第25話 聞こえるよ?
それから、数日後の夜のことである。
西に見えたという天鏡を探して幾つか山を越えた一行は、その日は、見晴らしの良い岩場で夜を明かす事になった。夜が明けて、ここをもう少し登れば、かなり遠くを見渡せる頂に出る。そこから、今一度、目指す場所を確認しようという話になっていた。
その夜の火守番はスズリが最初で、他の者たちは、風を避ける為にそれぞれ大きな岩の間に挟まる様にして、すでに寝息を立てていた。
長い静かな夜の手持ち無沙汰に、スズリはいつものように懐に入れていた巻紙と矢立を取り出すと、紙の上に筆を滑らせた。そこに、昼間、目にして感銘を覚えた景色などを、思いつくままに描き連ねていく。これは言わば、記憶を整理する為の落書きのようなものだ。そんな風に改めて整理された景色は、スズリの頭の中の画帳に整然と並べられ貼り付けられて、それが描きたくなった時に、自然とその景色が頭の中に浮いてくるのだ。観察力と記憶力。絵師に必要な、そんな基本的な素養をスズリは生まれつき持っていた。
そういう才があるのだと認められて、やがてその才を生かす仕事を与えられたのは、十代の半ば……そう、丁度、美玻と同じ年の頃のことだった。諸国を流れ歩き、そこで見たものを描いて、本国へ送る。初めは、それがスズリの旅の目的だった。
いつしか無心に動いていた筆が、そこに細長い生き物を描き出していた。
あの夏至の日に見た、龍。
必死に探しながらも、そんなものが本当にこの世にいるのかと、どこかで信じられずにいた龍の神々しいまでの姿を、あの娘は自分に見せたのだ。
――確かに、龍はいるのだ。
この世のどこかに。自分たちが過酷な境遇を強いられることになった、その元凶たる忌まわしき生き物。欲深い人間に、不老不死という人外の力を与えた、忌々しきモノ……
火にくべた枝がパチリとはぜた。
その音に我に返ると、火の向こうに猫の姿があった。
その金色の瞳が、スズリの筆先をじっと見据えていた。
「……こちら側には、来るなよ」
牽制しつつ、スズリは今描いた部分の紙を破り取ると、丸めて火に放りこんだ。瞬間大きくなった火を、猫が驚いたように見上げる。やがて猫は、興味を失ったように、スズリに尻を向けると立ち去っていく。長い尻尾は、寝惚けている証拠なのか、だらしなく伸びきったままで、猫本体の動きに連動しながら、器用に石を避け蛇の様にうねりながら引き摺られて行く。
――本当に……うねうねと、蛇のようだ……
本当に、これは猫なのか。
見聞の広い絵師であるスズリの中に、単純な好奇心がもたげる。
――この、珍しき生き物……
出来心だったと言えばいいのか、スズリは手元にあった木の枝を摘み上げると、徐にその尻尾をつんつんとつついていた。その途端、見事というより他に言い様のない速さで尻尾が巻き上がり、本体が毬のように跳ねたと思った時には、その前足がスズリの持つ枝に挑みかかって来ていた。
「うぁっ……ちょっと待て、お前っ。今のなし、なしだからっ……」
驚いたスズリは怯えた様に立ち上がり、猫を追い払おうと枝を振り回した。が、それがかえって猫を枝にじゃれつかせる結果になったのは言うまでもない。なす術もなく、必死の形相でしばらく猫と格闘した末に、スズリはようやく、枝を離せばいいのだという簡単な答えに気づいて、それを慌てて火に放りこんだ。
「お前っ、いい加減にっ、しろよっ」
心臓が、昨今ないぐらいに、ばくばくしているのが分かる。肩で息をしながら睨みつけると、猫が、実に人間臭い表情をした……ように見えた。
――こいつ今、笑っ……
見間違えか。
一瞬、そう考えた後で、スズリはある確信を持って、対象物に対する恐怖心を封じ込めると、決死の覚悟でその尾をがっしりと掴んだ。と、
(うわっ、離せってば、この野郎)
よもや、猫嫌いのスズリに尻尾を掴まれるとは思っていなかったのだろう。思い切り狼狽した声が聞こえた。
「……お前……」
懸命に尾を引いて逃げようとする猫の体は、しかしスズリの手によって、ずるずると引き戻されて行く。
(やめろよ……何引っ張って……いった……痛いって言ってんだろ。離しやがれぇ)
「……お前、何?」
目の前に引き寄せたその赤い背に向けて言ってやると、猫が怪訝そうに振り向いた。
(……まさ……か……聞かれてる?)
「ああ、聞こえている」
(お前、
「まあね」
スズリが答えると、猫が目を丸くした。
心聞とは、遠見と同じく、七宝五鍵の一つで、相手の心の声を聞く能力だ。
他の心聞のことは知らないが、スズリの場合は、相手の体のどこかに触れている時にだけ、その声を聞くことが出来、その思考を覗き見ることが出来る。
だから、実は美玻が龍を見た時、スズリにも彼女が見たのと同じ光景が見えていた。だが、余計な波風を避けるために、その能力のことは他人には無暗に明かさないと決めていたから、あの時はどうしても、美玻に自分の口で話させなければならなかったのだ。
「で、お前は何だ?」
(……何に見える?)
「まあ、見かけは猫だな。尻尾は論外としても」
(なら、猫だな。尻尾はこれ以上短く出来なかったんだよな……元々が長すぎて……)
「ただの猫ってことはないだろう。にしては、思考が人間臭すぎんだよ。普通の獣はな、腹減っただの、眠いだの、逃げろ、走る、飛ぶ、……あっちだ、こっちだ……そんな単純なことしか考えてないものなんだよ。心聞のことにしたって……」
(……なら。もの凄ーく賢い猫ということで、手を打て)
「口を割る気はない様だな……」
(うわぁ、何しやがんだよ、お前はっ)
スズリがいきなり猫の尻尾の根元の部分を掴んで、その体を焚火の上にかざした。
(やめろ、熱っつい、離せぇ……)
「離していいのか?」
スズリが意地の悪い笑みを浮かべる。
(ばっ……やめろ、はなすなっ)
「で?お前、一体……」
しかし、猫にとって幸いなことに、尋問はそこで終わることになった。
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