第26話 心の澱(おり)
「ちょっと何してんの、スズリ。止めてよ」
剣呑な気配に目を覚ましたらしい美玻が、もの凄い形相でやってきて、あっという間に猫をスズリの手から奪い返した。
「……信じらんない。いくら嫌いだからって、こんな酷いことするなんて」
わざとらしく、くたっとしている猫を、壊れモノのように大事に抱き抱えながら、美玻がスズリを睨みつける。
「……いや……これはつまり……」
弁明しかけて、自分が心聞であると明かさずに、事情を説明するのはもの凄く面倒くさいことに気づく。
「……悪かった。もうしない」
何事もなくこの場を収める為に、スズリは素直に頭を下げてみせた。
「本当に絶対よ」
「ああ……本当にもう……しない」
――ただの猫ではない。というか、そもそも猫なのかどうかも怪しいシロモノ。
まあ、猫でないのなら、自分はそんなにビクビクすることもないのか……と、思う。それが分かっただけでも、収穫があったと言うべきか……
――いや待て……。あの、猫みたいなくにゃっとした躯体が、私はそもそも気持ち悪んじゃないか……
つまり、何の解決にもなっていない。
――何でよりによって、猫……
それは猫ではないけれど、自分的には、やはり猫だ。猫を大事そうに抱えて眠りに戻っていく美玻を見送ってから、火の番を交代するまで、スズリはそんな猫の攻略法を試行錯誤しながら、悶々とすることになった。
翌朝、日の出と共に山の頂きに登ると、その山の斜面を下った先に、大きな池が見えた。これが、美玻が最初に見た天鏡なのだろう。そこから少し離れた谷合いに、少し小さな池が幾つか点在しているのが、今度は他の者にも確認することができた。
美玻が崖の先に立って、その更に先を見る。その視線は正面から右に移り、今度は左に移りとゆっくりと移動していく。ややあって、美玻の指が彼方を指し示した。
「……今度は北よりの西だな。この時期だと、ちょうど太陽が落ちる辺りか」
洸由が言う。こうやって、遠見の目を頼りに、少しずつ進むしかないのが、何とももどかしい。だが、龍はその年ごとに、巣を営む場所を変えるというのだから、そこは言っても仕様がないことなのだ。空を飛ぶ術のない人間は、ひたすら忍耐強く一歩一歩、歩いて行く他にない。
「行くか」
ただ、遠見の示すままに。
この空の下、どこかに龍はいるのだから。
進み続ければ、いずれはそこに辿り着く筈なのだから。
誰もがそんなことを考えながら、いずれ待ちうける、一つの運命に向かって歩き出した。
しばらく山の稜線を辿った後で、食料を確保する為に、彼らは山を少し下った。人里を離れてから、野宿がもう当たり前になり、自然と各々の分担も決まっていた。
大抵は、美玻が木の実などを集めに、洸由が薪を拾いに行く。洸由は薪を集めながら、運が良ければ、たまに出くわす小動物の類を捕まえてくることもある。そして沖斗は、いつもの様に川べりで、短刀を長い木の枝に縛り付け銛のようにして、魚を獲っていた。
少し離れた岩の上では、スズリが、身の丈程もある柳の枝の先に結んだ、植物の蔓を水面に垂らして、形だけは釣りをしている。ちなみに、こちらの収獲は、毎度期待をしないというのが、彼らの中での共通認識になっている。スズリはすでに、その辺から野草の類を集めて来て、かまどと火の準備を終えていたから、この釣りはおまけのようなものなのである。要するに、彼らの中で毎回確実に食料を確保できるのは、沖斗だけという訳だ。
そんな訳で、沖斗は膝の辺りまで水に浸かりながら、一心に川の中を見据えて、魚影を追っていた。獲った魚は、順に水際の岩の上に並べてられており、たった今捕まえた魚をその横に置いた沖斗は、案外早く、夕餉に間に合う分を手に入れられたことを確認して満足げな笑みを浮かべた。
美玻たちはまだ戻っていない。自分もそちらを手伝いに行くかと考えたところで、美玻が柘榴と命名した小動物が、岩の上の魚をじっと見据えているのに気付いた。
「一匹食うか?」
そう言って魚を摘み上げると、柘榴が薇状の尾を、ぴんと立てた。
その分かりやすい反応に、沖斗は苦笑しつつ、魚を足元に投げてやる。貪り食うというままに、柘榴は猛然と魚を食べ始めた。自分が見張っていなければ、魚は全て柘榴の口に入ってしまうのではないか。そう思わせるような勢いだ。猫嫌いのスズリに魚の番を任せるのは、どうも心許ない。そう考えて沖斗は、そのまま柘榴の横に腰を下ろし胡坐をかいた。
「……本当に、見事に赤だな。勇気の出る柘榴か」
骨も残さずに、一匹きれいに食べきったところで、沖斗は柘榴を抱きあげて自分の足に乗せた。ふかふかとした触感に、何だか心が緩んだせいだろうか。
「……あんな泣き虫で怖がりな奴を、俺は……こんな過酷な旅に連れ出したりして良かったんだろうか……」
気づけば、猫相手にそんなことを呟いていた。
こんな小さな獣を勇気の糧だと言って、必死に気持ちを鼓舞しなければならない。そんな美玻の心情を思うと、遣り切れない思いがした。
「……本当は、あの時に死なせてやるべきだったんじゃないか……その方が、辛い思いをさせなくて済んだんじゃないかって……今更そんな事を……言う資格もないのに、俺がっ……」
体を締めつけられて、居心地の悪そうに柘榴はみじろぎをする。すると、その体毛の上に数滴、水の雫が落ちた。柘榴は、何だ?というように首を伸ばして、沖斗の顔を見上げる。ちょうど沖斗が、目元を擦った所だった。
「……それでも……死なせたくなかったから……どんな手を使っても……死なせたくなかったんだ、俺は……」
「沖斗ーっ」
遠くから、美玻が自分を呼ぶ声がした。
――こんな風に……
その側にいられたら、どんなに幸せだろう。
彼女と言葉を交わすことが出来たら。
それはどんなに幸せなことだろうと、自分はずっとそんなことを考えていた。
もうずっと前から……
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