第27話 その背に負ったもの
そもそも沖斗は遠見の郷の人間だった。
城に仕えるに当たり、その出自を伏せたのは、美玻を救う為に他ならなかった。
それは、沖斗が十で、試しで認められて遠見の見習いとなってすぐのこと。
郷長の家に出入りを許されるようになった彼は、そこでたまに美しい娘を見掛けるようになった。そしてその娘に、淡い思いを抱くようになった。
その娘は族長の娘で、沖斗が容易に言葉を交わせるような人ではなかった。それでも、時折その姿を目にするだけで、彼女が元気に笑っているだけで心が弾んだ。まだ子供だった沖斗には、そんな些細なことだけで、とても幸せであったのだ。
五年前の、あの夏至の日――
まだ半人前ながら、沖斗は遠見の一人として、果て見の頂にいた。そこで試しを行った美玻の、とてつもない力に、鮮烈な感銘を受けた。沖斗がずっと美玻に抱いていた淡い思慕は、その瞬間に、強い崇拝へと変貌した。彼女が放った輝きは、遠見の宝だと思った。そんな輝きを、間近に目にすることが出来た自分を、本当に幸運な人間だと思った。
――幸せだった。
それが一瞬にして、瓦解した。
茜天の下、美玻の運命は変転した。
龍を見たというだけで、祟り者とされ、社に幽閉された。
それまで、彼女をさんざんに称賛していた人々が、掌を返した様に、その存在を忌わしきモノとして扱うようになった。
――美玻は、郷の宝であるのに……
そんな郷の因習に、沖斗は憤り絶望した。
そして、すぐに考え始めた。生贄となった美玻を救い出す方法を。
このまま郷にいて、たいした力を持たない遠見のままでいても、自分には何も出来ない。族長の決定を覆せるほどの力とは何か。そう考えた時、その頭に過ったのは、王族の力だった。王都へ行き、美玻を助けることのできる力を、きっと手に入れる……そんな決意を胸に、彼は郷を出た。
強い信念を抱いて仕官した沖斗の働きぶりは、洸由の目に止まり、やがてその信頼を勝ち取って、その右腕と認められるまでになった。
郷を出て、五年近い月日が過ぎていた。
それでも、美玻は社に封じられながらも、まだ生きていてくれた。
もうすぐだ。
どこかにそんな希望を抱き始めていた。
そんな頃だった。
沖斗を待ってくれているように思えた運命が、鴻からの使者が来たことで、にわかに動き始めた。そして龍の探索の前に、美玻が生贄に捧げられることが決まってしまったのだ。
もうどうしても、助けようがないのか。
思い詰めるほどに、考えに考えた。
いっそ何もかも捨てて社に押し入り、美玻を奪って逃げるか。
そう考えた。しかしすぐに、それでは駄目だと思い至る。
美玻自身が救われる事を望んでいないのだ。彼女は、自身の罪を恥じ、郷の因習に従い生贄となることでしか、それを償うことができないと、頑なに信じている。そんな状態の彼女を救い出しても、彼女は自分を救った沖斗を怨み、そんな風に生きながらえた自身を、一生赦すことが出来ないだろう。
――それでは、駄目なのだ。それでは二度と、彼女は笑顔を取り戻すことが出来ない。
本当に美玻を救い出す為には、彼女に生きる理由を……生きていてもいいのだと思える確固たる理由を、与えてやらなければならないのだ。
――考えろ、考えろ、考えろ、沖斗……
その末に、沖斗の思考は、ある場所へ行き着いた。
――龍の探索には、遠見が必要だ。では、もし、その遠見が一人残らずいなくなってしまったら。美玻の他に誰もいないということになったら……
それこそ美玻の存在は、この国の宝ともなるのではないか。
美玻は必ず生きることを許される筈だ。
彼女自身もまた、生きなければならないのだと、納得するのではないだろうか。
――しかし、その為には……
その怖ろしい考えを否定する気持ちが、すぐに芽生える。
そんな怖ろしいことが、果たして自分に出来るのか。
そして、自分の命が、そんな怖ろしいことと引き換えに救われたのだと知ったら、美玻は……
だが、一度思い付いてしまったその魅惑的な方法を、沖斗はどうしても、諦めることが出来なかった……畏れと焦燥と絶望と、そして美玻の笑顔と。そんなものが心の中で果てしなくせめぎ合った。そんな葛藤の末に、沖斗はついに決断した。それは、自分の欲望にもっとも素直に従った結果だったとも言えた。
――ただ、自分が、美玻という存在を失いたくないから。
他の者のことは勿論、美玻自身の気持ちすら、そこには入っていない。
ただ自分。
それだけだった。
答えを出すには、それ以上のことを考える余裕など、沖斗の心にはすでに残っていなかったのだ。
洸由の遠見出迎えの一行が、郷へ着く前の晩に、沖斗は密かに宿を抜け出し、馬を走らせて郷へ向かった。そして、東方の
それは、痕跡を残さず人を殺めることが出来るという触れ込みの毒……緩やかに人を殺める毒だという。飲んだ者は、半日ほどで眠気を覚えて眠り込んで、そのまま二度と目覚めることはないと。今更言い訳にもならないが、思考に疲れ、麻痺した神経に残っていた僅かな良心が、あまり苦しまずに済むという、そんな毒を選ばせたのかとも思う。そして、彼の望み通りに、遠見の郷は滅んだ。
彼らは、美玻を殺そうとした、その報いを受けたのだ。
――神は自分を止めなかったのだから。
手を下したのは自分だが、それは間違いなく神の裁きだったのだと、沖斗は自分に言い聞かせた。
――だって、生き残ったのは美玻の方だったのだから……
「うわぁ……今日は大漁だね。やっぱり沖斗は凄いよ。頼りになるなぁ……」
凄いと言われて向けられた笑顔が、事更に眩しく感じて、胸が締めつけられた。だが、それを悟られることのないように、平静を装う。
「お前の凄いは安売りが過ぎて、あまりありがたみを感じないんだがな……」
「えぇ……そんなことないよ。あれ、柘榴?どこ行くの?」
腕に抱えていた猫が、そこからひょいと抜け出して、火を熾し始めたスズリの方へ寄っていく。火を反射して艶を帯びた赤い柘榴石の色に、気が付けばいつしか願っていた。
――美玻に罪はないから。
この旅が終わったら、全ての罪は自分が負っていくから。
――だから。神よ、どうか……
どうか、この笑顔がずっと続くように、と。
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